国会図書館デジタルコレクションで『岩手県名士肖像録:御大典記念』という1930年刊行の本を見ていたら、若き日の宮沢清六氏の写真が載っていました。私自身は、まだ目にしたことがなかった肖像写真です。
写真の下部には、次のような文章が記されています。
君は稗貫郡花巻町豊澤町、宮澤政次郎氏の二男
にして、明治三十七年四月一日を以て生る、人と
なり快活にして恬淡、幼時郷黨の小學を出でゝ盛
岡中學校に入り、大正十一年三月業を卒し、同十
三年十二月一年志願兵として、弘前歩兵第三十一
聯隊へ入營、大正十五年四月曹長となり、昭和二
年陸軍歩兵少尉に任命正八位に叙せらる、除隊後
郷に歸り建築金物卸賣商を經營し、熱心業務に精
勵して信用大に上る、現今花巻在郷軍人分会理事
として名望あり、君趣味としては家業の傍ら劍道
に熱中し修養を積みつゝあり、昭和三年秋御大典
に際し、地方饗饌の光榮に浴せり。
清六さんは、剣道に熱中していた時期もあったのですね。
最後にある「昭和三年秋御大典に際し、地方饗饌の光榮に浴せり」という部分ですが、そもそもこの『岩手県名士肖像録:御大典記念』という書籍は、当初は昭和天皇の即位大礼に際して行われた「地方饗饌」の招待者のみを掲載して発刊する予定だったのが、併せてそれ以外の名士も収録することになったのだということです。
一、最初發刊計畫せし時は、昭和三年秋の御大典に際し、饗饌を賜はりたる名士のみを限りて、登載の筈なりしも、社會公共に貢献せし、隠れたる人物を紹介するの無意義ならざるを思ひ、饗饌者以外の名士並に故人となりたる少數の人々をも登載することゝなせり(p.7「凡例」より)
昭和天皇の即位式とその関連行事である「御大典」では、京都御所における「大嘗祭」の終了後にその参列者に食事を供する「大饗」に合わせて、地方でも各府県ごとの「地方饗饌」が、1928年(昭和3年)11月16日に行われました。
どのような人が「地方饗饌」に招待されるかというと、下のような基準があったということです。(田中真人「地方賜饌の招待者たち─天皇代替わりと地方名望家─」より)
清六氏は、位階は正八位で上の3の基準には当てはまりませんので、地方饗饌に選ばれたのは、19の「各種事業功労者、優遇者、名望家」の枠なのでしょう。在郷軍人分会理事であり、正八位の有位者であることが、総合的に評価されたのかもしれません。
賢治と縁のある人で、他に岩手県の地方饗饌に招待された人としては、花巻共立病院副院長の佐藤長松医師、大迫尋常高等小学校校長の菅原隆太郎氏の名前が見られます。この『岩手県名士肖像録:御大典記念』には、清六氏の隣に、賢治の母方叔父である宮沢直治氏も掲載されていますが、地方饗饌の招待者とは記されていません。
※
ところで、上写真の清六さんは軍服姿ですが、その格好からして、これは賢治と一緒に撮影した下の写真(『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)補遺・伝記資料篇p.306より)と、同じ時に撮影されたものではないかと思われます。
『新校本全集』の説明によれば、上の写真は大正14年(1925年)10月に、仙台大演習に参加した清六を賢治が訪ねて、演習終了後に仙台市の「阿部写真館」にて撮影した記念写真だということです(『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)年譜篇p.299)。
ちなみに仙台の阿部写真館は、明治時代に創業し、現在も同じ場所で営業しておられます。そのウェブサイトのトップページには、現在この賢治と清六の写真も掲げられています。
清六氏が、単独で冒頭の肖像写真を撮影した時にも、きっと写真館内には弟の晴れ姿を見守っている賢治がいたのだろうと思われます。
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