成瀬金太郎の生家

20220117a.jpg 成瀬金太郎(1896~1994, 右写真は『成瀬金太郎小伝』より)は香川県神山村(当時)の出身で、盛岡高等農林学校農学科第二部における賢治の同級生でした。
 成瀬自身は、その入学時の心境を、次のように綴っています。

 大正四年四月、漸く春めき初めた香川鹿庭から東北岩手の盛岡へ勉強に単身旅立つ事は覚悟の上とは云え勇気を以て出発。愈々盛岡駅に下車、北上川を渡り白雪の岩手山を仰ぎつつ上田の高農自啓寮に落着いた時、初めて先輩の親切友情の有難さをしみじみ感じた。
 一室に六名内二名は三年と二年の先輩で何かと親切に指導されるので安心この上なし。週一回茶菓でコンパが催され、また新入生歓迎会が食堂で盛大に行われ、各室毎に独特の芸能が披露されてその間個人の特技が飛び出して楽しい一夜を過す。(『成瀬金太郎小伝』p.34)

 温暖な四国から北国岩手の学校に、はるばる一人で入学するのは、今の時代よりもずっと大層なことだったろうと思いますが、そのような不安の裏返しとして、先輩や同級生との交流から感じた心強さが、にじんでくるような文章です。農芸化学を専攻する「農学科第二部」は1学年12人で、賢治も含めて3年をともにする同級生との絆は、自ずと強いものになったでしょう。

20220116a.jpg 右の『成瀬金太郎小伝』は、岩手大学農学部創学八十周年記念事業の一環として、農学部同窓会「北水会」から成瀬氏に文章執筆依頼をしたところ、大学ノート一冊に自伝風の文章が送られてきたので、1982年に北水会でこれを出版することになったというものです。ネットの古本屋に安く出ていたので、購入してみました。
 この中に記された賢治との関わりとしては、「高農入学当初宮沢賢治君の案内で北山報恩寺で座禅の修行をした」(p.36)との一文があります。
 一方、賢治の「「文語詩篇」ノート」の1916年の項に、「一月/報恩寺 ◎寒行に出でんとして。/銀のふすま、◎暁の一燈、◎警策/◎接心居士」という記載があり、1916年1月というと彼らが高等農林1年の3学期ですので、成瀬が賢治と一緒に行ったのは、この「寒行」だったのかもしれません。

 残念ながら上記以外には、在学中の2人の交流の記録は見当たりません。土壌学を専攻した賢治に対して、成瀬は発酵学に強い関心を持ち、その「得業論文」のタイトルは、『清酒および醤油麹菌酵素について』だったということです。
 卒業を目前にして、成瀬金太郎と佐々木又治の2人は関豊太郎部長の部屋に呼ばれ、「南洋拓殖工業株式会社に行かないか」と声をかけられました。成瀬は故郷の両親の許可を得ると、東京に出て入社試験と面接を受け、合格の報を聞くとすぐに盛岡の下宿を引き払い、いったん香川に帰って海外渡航の準備をしました。そして、そのまま卒業式に出ることもできずに、横浜港から太平洋に浮かぶ「ポナペ島」に向けて旅立ちました。

 香川から岩手に遊学した青年は、さらに遠い世界へと羽ばたいたのです。

 賢治は、成瀬と落ち着いて別れの挨拶をかわす暇もなく、やむなく香川の実家にあてて、はなむけの短歌を書き送りました。。

    君を送り君を祈るの歌
はてしらぬ蒼うなばらのきらめきをきみかなしまず行きたまふらん
すべてこれきみが身なればわだつみの深き底にもおそれはあらじ
あゝ海とそらとの碧のたゞなかに燃え給ふべし赤き経巻
このみのりひろめん為にきみは今日とほき小島にわたりゆくなり
あゝひととわれらとともにまことなるひかりを地にもむかひまつらん
ねがはくは一天四海もろともにこの妙法に帰しまつらなん

(1918年3月14日付書簡48a)

 かなり「法華経至上主義」的な立場からの一方的なエールにも見えますが、声調の高さは格別です。
 さらにこの葉書の後、4月18日には封書を出しています。

コノ度ハ御目出度ウ存ジマス。
御身体ノ工合ニ御変リハアリマセンカ。耳ノ方ハ宜シク御ナリナサイマシタカ。
貴方トユックリ御別レスルヒマモナク、俄ニ御発チニナッテシマッテ誠ニ残念ニ存ジマシタ。
盛岡ヲ御発チニナッタ翌日、私ハ新シイ本ガ間ニ合ハナカッタノデ、私ノ貰ッタ古イ本ヲ懐ニ入レテ晩方御宿ニ行キマシタラ、下宿ノオカミサンガ出テ来テ、モウ昨夜御発チニナッタト申シマシタ。ソノ人モ大変心配サウニシテ居リマシタ。私ハソレカラ仕方ナク細山田君ノ所ヘ行ッタラ外ヘ出テ居マセンデシタ。何トモ言ヘズ淋シク思ッテ私ハヤハリ停車場ヘ誰ヲ送ルト言フコトモナシニ参リマシタ。実ハアナタトユックリ御話シ合フ様ナ事ガ御互ニ沢山アッタノデスカラソレデアンナ気持ダッタノデセウ。タトヘ南洋ニ御出カケニナリマセウガ又同ジ盛岡ニ居マセウガ、ドウセオシマヒハ同ジ事デスカラ楽シミデス。御互ニ之カラ所モ離レ又近ヅキ、境遇モ又変リ同ジクナルトシテモ、御互ニ唯一ノ目的ノ為ニ一切ノ衆生ノ為ニ進ンデ行クナラバ、悲シミハ悲シミデモアリマセン。〔後略〕

(1918年4月18日付け書簡55)

 遠く海外へ行ってしまう友人への、賢治の気づかいが心にしみる感じです。「新しい本が間に合わなかったので、私の貰った古い本を懐に入れて……」というのは、短歌の方でも「赤い経巻」と詠んでいる『漢和対照 妙法蓮華経』だったのでしょう。

 成瀬金太郎が赴任した「ポナペ島」というのは、現在はミクロネシアに属し「ポーンペイ島」と呼ばれています。第一次世界大戦までは、このあたりの諸島はドイツが支配していましたが、大戦でドイツが敗れた機に乗じて、日本は1914年に艦船を派遣して占領し、支配を開始します。成瀬が就職した「南洋拓殖工業株式会社」は、このような情勢を受けて設立され、現地の産業開発を推進しようとした会社と思われます。

 成瀬金太郎は、最初はポナペ島から200kmあまり東にある「ピンゲラップ島」の「カラオ麻製造工場」でいきなり工場長となり、その後ポナペ島に異動して麻の試験栽培を続けました。「カラオ麻」から繊維を採取するためには、伐採した茎を海岸の浅瀬でまず「浸漬醗酵」させる過程があるので、そのため盛岡高農で発酵学を専攻した成瀬が請われたのでしょう。

 賢治は成瀬が南洋に渡った翌年の1919年4月にも、手紙を送っています。文面からすると、成瀬から出した手紙の返事なのでしょう。

御便りありがたう存じます。
お変りもなく何とも結構に存じます。
今度の巴里の会議では、その島はこのまま日本に止まることは勿論でせう。
私は暗い生活をしています。うすくらがりのなかで遥に青空をのぞみ、飛びたちもがきかなしんでゐます。
あなたが感ずる様に暗黒の時代は近いかもしれません。その暗黒のただなかをまっすぐに通り抜け、かがやきの国に立ってふりかへって暗黒の壁を破るひとはあなたの様にめまひのする様なはげしいところで力をつくりあげるのでせう。

 当時、鬱々とした思いで質屋の店番をしていた賢治にとって、熱帯の陽光の下で仕事に励む成瀬の境遇は、何ともまぶしく感じられたのでしょう。「うすくらがりのなかで遥に青空をのぞみ、飛びたちもがきかなしんでゐます」という言葉は、この頃の賢治を象徴するようです。

 しかし、この南洋拓殖工業株式会社は思うような業績を挙げられなかったのか、2年でポナペ島から撤退します。成瀬も1920年3月に帰国して、約1年間は肺尖カタル(結核の初期)の治療に専念しました。

 その後、母校の盛岡高等農林学校に戻って、農産製造室の講師、助教授を務め、在任中に「清酒ますらお」や「乳酸飲料カルミン」をはじめ、味噌、醤油、米酢、葡萄酒、甘酒、葡萄液、練乳などを製造しました。学生たちからは、「成金先生」と呼ばれて親しまれていたということです。

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盛岡高等農林学校勤務時代の成瀬(『成瀬金太郎小伝』より)

 成瀬のこの盛岡高農時代の1923年に、稗貫農学校における賢治の教え子の大内金助が、賢治の斡旋によって同校の「助手」に採用され、成瀬と一緒に1年間納豆菌の研究をしたというのも、面白い巡り合わせです(「大内金助と「花巻納豆」」参照)。

 1943年、戦争の激化とともに成瀬は盛岡高農を退職して、全国味噌工業組合連合会の技術部長となって東京に転勤します。しかし、1945年3月の東京大空襲で事務所が壊滅し、また香川の父が病床にあったこともあって、辞職します。
 『成瀬金太郎小伝』には、この頃のエピソードが綴られています(pp.61-62)。

 全国味噌工業組合連合会、全国味噌統制会社を辞職後は家族在住の盛岡と、郷里香川神山村の生家を往復して事態の推移を見守ることにした。将来を考えて盛岡の書籍、家具等使用しない物は出来るだけ安全な所に疎開せねばと思い鉄道便で四国神山の生家へ送ったものの内、梱包一ヶ高徳線造田駅内において盗難にあい無くなったことは、残念でならない。この紛失物の中には宮沢賢治君から贈られた法華経の本、学生時代の記録、南洋拓殖工業株式会社当時の貴重な記録が一杯詰って居たので損害は甚大であった。盛岡、東京、香川の間を往復することそのことが、非常に困難で苦労が多かった。二十年八月終戦の報は盛岡であった。大東亜戦争は国民の大多数が勝てる自信は無かった。その通りの悲惨な幕切れとなった。

 ということで、この時に成瀬が盛岡から送った荷物がもしも香川県で盗難に遭わなければ、私たちは賢治の新たな書簡やその他の貴重な資料を目にできた可能性もあり、本当に残念なことです。

 戦後の成瀬金太郎は、東京練馬で「成瀬醗酵化学研究所」を立ち上げ、納豆菌、酵母菌、乳酸菌、もやし種麹、栄養強化剤「ビタカルソ」、各種ビタミン剤等の、製造販売事20220116c.jpg業を行います。「ヨーグル納豆」なる和洋折衷の新商品を開発し、アメリカの特許も取得したということです。やはり非常にバイタリティのある人だったのだなあと感じます。
 なかでも、盛岡高農での研究を生かした納豆菌は、現在も「三大納豆菌」の一つ「成瀬菌」として受け継がれており、生みの親の死後も、21世紀の現代でも各地で納豆の製造に使われ続けているというのは、感動的です。

 右写真は、現在も「株式会社成瀬醗酵化学研究所」から販売されている納豆菌ですが、「商標」の部分のロゴマークとして「金太郎」の絵が描かれているのが、素敵ですね。

 さて、このようにして東京で精力的に研究と開発を続けてきた成瀬ですが、80歳となった1976年に、故郷香川の生家に戻り、今度は「成瀬牧場」を開いて、新たに乳牛や肉牛の飼育を開始したのです。『成瀬金太郎小伝』にはその当時の心境について、「自分は四国神山五反田、成瀬宗家の相続人でありながら、郷里を後に南洋に、東北岩手の盛岡に、更に東京練馬に人生の殆ど全部を過し齢八十歳を迎え静かに故郷を顧み生 20220131a.jpg家の現状及び将来を想う時、より良くより美しく向上しなければご先祖に申訳が立たないと感じ……」と記しています。
 右の写真は、84歳となって自らの牧場でホルスタインの世話をしている成瀬金太郎です。かくしゃくとした様子には、本当に感服するばかりです。

 ところで、私の両親は香川県に住んでいるので、正月などにはよく帰省するのですが、7年前の2015年に香川に行ったついでに、私は成瀬金太郎の生家を訪ねてみました。

 まず下の写真が、『成瀬金太郎小伝』に掲載されている成瀬の生家です。

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 この写真と、Googleマップのストリートビューを頼りにだいたいの見当を付けておいて、当日はタクシーで向かいました。
 それで何とか探し当てたところが、下の写真です。

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 成瀬金太郎はこの家で、生まれてから小学校を卒業するまでと、80歳から亡くなる98歳までの期間を、暮らしたわけです。(その間に挟まれた3年間だけは、宮澤賢治とともに過ごしました。)

 成瀬が子供に頃に泳いだという溜め池なども眺めた後、帰途はまたタクシーで、賢治関連の荷物も盗難に遭ったという高徳線「造田駅」からJRに乗りました。

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 地図上で表示すると、だいたい下のあたりで、香川県の平野部と山地のちょうど境目あたりに位置します。