「庚申」詩碑
移設前の碑(花巻市材木町)
1.テキスト
庚申
歳に七度はた五つ、
庚の申を重ぬれば、
稔らぬ秋を
家長ら塚を
宮沢賢治
2.出典
「庚申(定稿)」より(『文語詩稿 一百篇』)
3.建立/除幕日
1983年(昭和58年)2月2日 花巻市材木町に建立
2010年(平成22年)3月25日 滝沢市盛岡大学に移設
4.所在地
岩手県滝沢市砂込808 盛岡大学正門脇
5.碑について
この作品の背景にある「庚申信仰」とは、おおむね次のようなものです。
中国の道教によれば、人間の身体の中には「
しかし、この三尸にも弱点があって、それは宿主である人間が眠っている間でなければ、身体の外に出られないというのです。
そこで、人は庚申の夜を一晩中眠らないですごせば、日頃のおこないを天の神に知られることもなく、安心して長生きができるということになります。
これが、「守庚申」「庚申待ち」などの行事を中心とした庚申信仰の由来です。
庚申信仰は、奈良時代終り頃に日本に伝わって、最初はおもに都の貴族のあいだで、庚申の夜の宴遊というかたちでおこなわれていました。
近世になると、この風習は全国各地の農村にも広がりました。60日ごとの庚申の晩に、皆で集って飲食をしたり、夜どおし語り合う場を持つということは、ふだん厳しい早寝早起きを強いられている農業労働の日々にあって、人々にひとときの楽しみをもたらしてくれたのでしょう。
この庚申(かのえさる)の日というのは、暦に従って60日おきにめぐってきます。たいていの年は、一年に6回、庚申の日がありますが、旧暦では平年は353~356日、閏年は383~385日あるので、年によっては、一年に庚申が5回しかなかったり、逆に7回あったりするということも起こります。
これらは、それぞれ「五庚申の年」「七庚申の年」などと呼ばれて、人々によって特別に意識されていたようです。
私が手元の資料で目にしたかぎりでは、「五庚申の年は不作、七庚申の年は豊作」と言われている地方が多いようですが、賢治は、「五庚申・七庚申ともに凶作になる 」という伝承を下敷きにしていたようで、この「庚申」という詩においても、これは「稔らぬ秋」と関連づけられています。
いずれにしても、五庚申や七庚申の年にはそれを記念して、この詩にもあるように「庚申塚」「庚申塔」というものを立てるという習わしが、とくに東北地方には広くあったようです。
賢治の他の作品では、たとえば「三二四 郊外」(『春と修羅 第二集』)に、「毬をかゝげた二本杉/七庚申の石の塚/…」として登場していますが、ここでもやはり、庚申塚は凶作の風景とともに描かれています。
宮澤賢治は、農学の専門家として、科学的な手法を用いて農村を凶作から救うことを、自らの使命として生きました。また、生涯をかけて信仰した法華経は、宇宙的に壮大なスケールで、すべての存在を救済することを説いています。
そのような賢治の世界観からすると、素朴で土俗的な庚申信仰に彼が強い関心を示したのは、なにか不思議な感じもします。
そこには、病と挫折を経験した、晩年の賢治の思いがあるのでしょうか。
賢治が病に倒れた後、「雨ニモマケズ手帳」にメモを書きつけていた1931年も、七庚申の年にあたっていました。この年、賢治は手帳に下写真のようなものを書いています。これはたんなる落書きではなくて、その文字は、色鉛筆も使ってたんねんに縁取られています。
これは、もはや実際に農民のために働くことはできなくなった身体で、それでも何とかして豊作を願うために、病床で一人で建てた「庚申碑」のようにも思えす。
「雨ニモマケズ手帳」の庚申碑
もともとこの詩碑は、花巻市在住の庚申信仰の研究家、嶋二郎さんが自宅内に建てられたものですが、2010年(平成22年)3月に、盛岡大学に寄贈され、現在の場所に移設されました。
下の写真は、盛岡大学本部の正面で、左端の方に見えているのがこの碑です。
碑の横には、下写真のような説明板も付けられています。
宮沢賢治の詩碑
庚 申 普通の歳であれば年六回の
庚申 の日が
歳によって七回あるいは五回になる。
そのような七庚申、五庚申の歳の秋は
稔りが悪いという言い伝えを恐れて
家長たちは庚申塚をつくったのです。平成二十二年三月二十九日
嶋 二郎氏(花巻市)寄贈
庚申の日が、通常は年6回であるということも補足しつつ、賢治の文語詩をわかりやすく現代語訳してくれていて、これを見れば詩の意味も大まかにわかるようになっています。
ただ、詩のタイトルに「