観音山

1.所在地

花巻市矢沢 字高松

2.山の概要

 観音山は、花巻市の東端に位置する海抜260.7mの山です。花巻市街地からはちょうど真東の方角にあたり、この山を越えると、もうすぐ東和町です。
 花巻の中心部から観音山に向かうには、国道283号線を、一路東に進みます。朝日大橋で北上川を渡り、安野橋で猿ヶ石川を渡り、賢治記念館への分岐を過ぎると、道はしだいに急な坂になってきます。東北新幹線の「高松トンネル」の上も越えて、さらにしばらく登って行くと、右手に左写真のような案内看板が立っています。「案内」というよりも「宣伝」と言えるほど押しが強くて、否が応でも目につくと思います。
 ここから右折して南の方に延びている林道が、観音山に登る道です。舗装はされていませんが、車も通れる広さです。

 案内に従って、この分岐から林の中の道(右写真)を1kmほど登って行くと、木々が切れて広場のような開けた所に出ます。これが、登り口の看板に「大駐車場完備」と書いてあった場所のようです。
 この駐車場を左手に、さらに少しだけ進んだあたりに古びた石段があって、ここが「岩根神社」でした。
 観音山の山頂は、この神社を通りすぎてさらに数百mほど登っていった先になります。

 冒頭に掲げた写真は、猿ヶ石川を渡って安野の交差点を少し南に入ったあたりから写したものです。

3.作品との関わり

 賢治の作品に、「観音山」は登場しません。また、賢治がこの山に登ったという伝記的記録もありません。

 しいて挙げれば、直接の言及ではありませんが、「〔湯本の方の人たちも〕」(「口語詩稿」)の中に、「高松だか成島だか/猿ヶ石川の岸をのぼった/雑木の山の下の家なら/もうとっぷりと暮れて着く……」という一節があります。これは、夕暮れに街角で見かけた老人が、これからいったい何処へ帰っていくのだろうと賢治が一人で案じているところですが、ここで言う「猿ヶ石川の岸をのぼった雑木の山」とは、観音山を中心とした猿ヶ石川右岸の一群の山々を指しています。

 また、童話「或る農学生の日誌」においては、農学校の修学旅行に行きたいが家庭の事情で難しい状況にある主人公に対して、父親が次のように弁解をします。「祖母だって伊勢詣り一ぺんとこゝらの観音巡り一ぺんしただけこの十何年死ぬまでに善光寺へお詣りしたいとそればかり云ってゐるのだ……」。
 この箇所で「こゝらの観音巡り」と言われているのは、花巻市太田の清水寺を第一番札所として、稗貫・和賀・紫波三郡にある観音像を巡る、「三十三ヵ所観音巡礼」のことと思われます。
 上の案内看板にあるように、この高松地区の観音山はその中の「十七番札所」になっているのです。童話の中の「或る農学生」の祖母は、この観音山に一度は登って、後述の観音堂に参拝していたことになります。

4.宗教的由緒

 さて、現在この山に鎮座しているのは「岩根神社」という神社で、天照大神が祭神とされています。上の地図でも、山の中腹には鳥居のマークがついています。しかし一方で、人々の実際の信仰においては、今もここは「観音様」と見なされ、上述のように観音巡りの札所でもあります。
 このようなややこしいことになっている背景には、例によって明治初期の廃仏毀釈があります。神仏分離令を受けて、ここにあった仏教寺院が無理やり神社に変えられたのですが、人々の信仰のあり方までは変わらずに生きつづけているために、内容と形式が乖離してしまっているのです。

 この山にもともとあったお寺は、「高松寺」という真言宗醍醐派の大寺院でした。詳しい創建年代はわかりませんが、ひと頃は広大な敷地に、西大坊、東大坊、東禅坊など七つの坊を擁し、一山の繁昌は類なしと謳われたということです。
 その後山火事に遭い、伽藍や諸堂はいったん灰燼に帰してしまったとのことですが、江戸時代初期の慶長16年(1611年)、花巻八幡寺が和賀稗貫両郡の鎮守とされた時に、両郡内にある真言宗十ヵ寺の一つとしてその傘下に入り、南部氏に庇護されるようになりました。寛文年間(17世紀後半)には、南部重信の求めによって「十六羅漢の絵像」を献上し、寺領十石を拝領したとの記録もあります。

 このような大きな寺院が、廃仏毀釈の犠牲になってしまったというのは本当に勿体ないことですが、これもひとえにこの寺が、花巻八幡寺の系列傘下にあったという因縁のためと思われます。
 「八幡神」は元来は日本固有の神ですが、中世以降に神仏習合が進むうちに「八幡大菩薩」などと仏号も冠され、これを仏教的に祀る「八幡寺」というものも建立されるに至りました。しかし明治初期に国家神道を推し進めようとした一派からすると、このような現象は神道の領域への仏教の侵入にほかならず、ことさら目の敵にされました。神仏分離令が出されると、花巻の八幡寺は稗貫地方で最初に廃寺とされる運命に遭いました。
 本寺のあおりをくって、高松寺も寺院としての存続は許されず、「岩根神社」という神社に姿を変えることを余儀なくされます。

 その「岩根神社」という名前の由来は、この山のあちこちで見られる、印象的な奇岩のためかと思われます。右写真のように、神社の入口のところにも、注連縄を張られた岩がありました。
 この岩は礫岩のようですが、後述するように境内周辺には同様の礫岩が多く見られ、その一部は風化していろいろ変わった形になっているのです。

 岩の横を通り、短い石段を登って鳥居をくぐると、まず正面には「岩根神社」の額の掛かった本堂(左写真)がありました。建物はかなり荒れていて、賽銭箱などもありません。
 その本堂から左の方に行くと、鐘楼や観音堂といった建物がある仏教的ゾーンになっています。

 鐘楼は右の写真のような簡素なものですが、面白いのは、「願望を達成する鐘を撞く心得」という五箇条の手引きが、木の看板に墨書して掲げてあることです(写真で左上の軒下)。
 いわく、「一、お賽銭を百円以上入れる 二、撞木の緒を持って 三、一心に願望を称え乍ら 四、和らかに一打する 五、余韻の続くまで合掌祈願する」。
 お賽銭の「百円以上」というのが具体的で明解でいいですが(笑)、実際、この鐘楼の前には金属製の頑丈な賽銭箱が設置されていました。このようなしっかりしたところが、登り口にあった案内看板の押しの強い雰囲気に連なります。
 私も指示どおり賽銭を入れて鐘を撞いてみました。誰もいない静かな山中に余韻が長く響き、なかなか風情のあるものでした。

 鐘楼を通りすぎてさらに進むと、お目当ての観音堂があります。小さいけれど総檜造りのしっかりしたもので、神社の本堂よりも立派です。
 こういう実態を見ると、それでもここに存在しているのは神社だけなのか、神社とお寺が同じ境内に共存しているのか、よくわからなくなります。
 『花巻市史』においては、市内の寺院一覧の中に「高松寺」という項目がちゃんと存在して、「高松の人渡辺宥京は由緒のあるこの寺の復興を志し、昭和二十七年(1952)曾つての高松寺のあつた近くの現在地に、本堂庫裡を建立して現在に至つている」という記述もあります。そうすると、ここは上の標柱にあったような「高松寺跡」ではなくて、いまも生きているお寺なのでしょうか。

 この山の見どころは、まだこれに尽きません。観音堂の後ろにまわって細い山道をさらに登っていくと、「志願の窓」と名づけられた右写真のような岩があります。これは、礫岩が風化して、「のぞき窓」のような穴があいたもので、説明では「天下無類の奇岩」とされています。

 さらにここからもう少し登ると、頂上のようになった平坦なところに出ます。ここには、小さな「一字一石経塚塔」が建っていました(右写真)。この塔自体は「昭和四十年」と刻まれた新しいものですが、この場所にはもっと古くから同様の塔があったということです。
 旧天王山にも一字一石塔がありましたが、これは経典を一字ずつ石に刻んで埋めるというもので、賢治が「経埋ムベキ山」を選んで埋経をしようとしたことと同種の行為です。

 いろいろと趣向のある観音山ですが、これらをまとめて「高松七不思議の名所」と呼ぶこともあるようで、具体的には「一字一石の経塚」「綱森」「鉞塚」「笊岩」「志願の窓」「男松女松」「小鴇ヶ清水」の七ヵ所が、それに相当します(『奥羽史談』)。「綱森」や「鉞塚」というのは、この山を開く時に木を伐り倒すのに使った綱や鉞(まさかり)を埋めた塚と言い習わされていますが、実は旧高松寺の時代に、何らかの密教的修法を行った霊場ではないかとも言われます(『花巻市史』)。
 今は訪れる人も少ない観音山ですが、「七不思議の名所」などと参拝客のための演出の工夫がなされているところなど、きっとその昔に「三十三ヵ所観音巡り」が盛んだった頃には、かなりの人々が訪れる霊山だったのではないでしょうか。

 私は、2004年の夏にこの観音山に登ってみましたが、山そのものは立派というほどの山容ではなく、また作品や伝記的事項を見ても、賢治が特にこの山に個人的に愛着をいだいていたという様子も見受けられません。そのような観音山が、なぜ「経埋ムベキ山」に選ばれているのかと考えると、やはりその「宗教的な意義」というものを、賢治が重視したということかと思われます。
 なかでも、旧天王山と同様、「一字一石経塚」という形で、すでに古くからこの山に埋経が行われていたという歴史は、賢治自身が埋経を計画する上で、重要な意味があったのではないでしょうか。
 また、先にも触れた「三十三ヵ所観音巡礼」は、賢治の時代には今よりもポピュラーに行われていたようで、この山自体の宗教的な存在感も、現在よりは大きかったのだろうと思います。この種の巡礼が最も盛んだったのはおそらく江戸時代頃だったのでしょうが、「或る農学生の日誌」に何気なく「観音巡り」が登場するように、周囲の親族に信心深い年輩者が大勢いた賢治のような人にとっては、当時でも馴染みが深かったのかもしれません。

 最後に、もう一つの要因の可能性として私がどうしても忘れられないのは、羅須地人協会跡からの眺望です。
 この山は、花巻市内から見てそれほど目立つ山ではありませんが、この高台から眺めると、下の写真のように、胡四王山、旧天王山、観音山という「経埋ムベキ山」の第一番から第三番までが、きれいに並んで見えるのです。
 この場所で生活していた頃の賢治も、きっといつもこの山々の眺望に親しんでいたのだろうと思います。早池峰山や岩手山をもさしおいて、小さな三つの山が「経埋ムベキ山」リストの冒頭に登場するのは、病床にある賢治のまぶたに、きっとこの風景が印象的に残っていたからなのではないかと、私は思ったりします。


羅須地人協会跡より東を望む