胡四王山


1.所在地

花巻市矢沢 字矢沢

2.山の概要

 花巻市内の山で、もっとも多くの人が登るのはどの山でしょう?

 というクイズがあったとしたら、少し考えたらおわかりのように、その答えは、この胡四王山です。
 人口が10万人少しの花巻市において、市街地からはかなりはずれたところにありながら、じつに年間20万人もの人が、この胡四王山に登るのです。……と言っても、正確には、その山頂まで登る人は限られているでしょうが、高さにしたらその九合目あたりにある「宮沢賢治記念館」に入館する人が、平均して年間約20万人あるのです。
 市の人口の倍にあたる人々が毎年全国から訪れるというのですから、その集客力はすごいものですね。

宮沢賢治記念館 1982年の「宮沢賢治記念館」開館に至るまでには、まずは「花巻賢治の会」の準備活動、そして1976年に設立された「宮沢賢治記念会」の精力的な募金活動がありました。
 「宮沢賢治記念会」が2007年に刊行した『修羅はよみがえった』という本に収められた、佐藤清氏による「財団法人宮沢賢治記念会のあゆみ」という文章によれば、当初「花巻賢治の会」が「記念館」の建設場所として検討したのは、次のような候補地でした。

  1. 桜町「雨ニモマケズ」詩碑広場。賢治の中心的遺跡であるが充分な地理的条件が備わっていない。
  2. 小船渡の「イギリス海岸」。山々や北上川等作品の舞台は適合するが、建設敷地が不足する。また、北上川大洪水の歴史的過程から予測して、不適合地である。
  3. 旧花巻農業高校跡地、すでに各種公共施設が予定されている。
  4. 湯口草井山、通称「円万寺観音山」、地形的に奥羽山脈分水嶺地にあり、広大な北上平野や北上山系が一望できる高台である。しかし、建設用地の不足や交通機関が不便で遠距離である。

 その後1971年7月に、盛岡中学で賢治の二級後輩だったという小原武一氏が、記念館建設には胡四王山南側がよいと提案し、同年9月に胡四王山現地調査が行われました。

 小原武一の案内で参道を登り、小さな東家の西側尾根から、林の中のけもの道を150メートル入るとそこはやや平な台地である。樹齢10~60年のくり、杉、あかまつ、ナラなど樹木が立並んでいる。胡四王山の景観を形成する南の神聖な台地であった。一帯の丘陵はすべて安山岩質塊岩(第三系稲瀬層)の層をなし樹林に覆われていた。ここには神秘性までが湧泉していると思われた。どこからともなく「ここが最もいい」の声、宮澤清六が「ここが一番最適だ」「これも天意だなす」と天からおつげのようだった。初秋の台地は輝く日輪に包まれていた。
 当日は建設用地の範囲を一回り見分した後、方十里が展望できる胡四王神社前に全員が集合した。岩田信三会長や照井謹二郎がこれまでの経過を説明し、総合的にここが最高に立地条件が整っている。ぜひご協力をお願いしたいと述べた。シゲも兄賢治に手を引かれ二・三回登った。ぜひ実現させて下さいと要請した。

 また、やはり同書に収められている小原敏男氏の「「宮沢賢治記念館」の設立」という文章には、次のように述べられています。

 なお、建設場所についていま少しふれますと、遠くは岩手山山麓、種山高原なども挙げられていたそうで、一部については構想図も描かれていたと伺いました。最終的に胡四王山に決定するわけですが、胡四王山は山頂に神社があるだけで人家はなく、自然環境に恵まれ、賢治ゆかりの岩手山や早池峰山が望まれ、イギリス海岸とは指呼の間にあります。建設趣意書でも、ただひとつあって、ふたつとはない、建設の最適地であると言っています。記念館ができたあとの話ですが、文学館や記念館などをテーマにしたある専門誌に、宮沢賢治記念館は生家などを利用した記念館と違って、「別天地」型の代表的な例であると紹介されていました。よくあるゆかりの家などを利用した記念館とは違って、わざわざ行かなければならない郊外の自然のなかに、その自然と溶けこむようにゆったりと建てられた印象を述べたものでしょう。野原や林からお話をもらった宮沢賢治らしい場所といえるのではないでしょうか。

 ただひとつあって、ふたつとはない場所……。
 その胡四王山には、記念館の完成とその成功の後に続くように、1988年に「南斜花壇」「日時計花壇」を含む「ポランの広場」が整備され、1992年には「宮沢賢治イーハトーブ館」、1996年には「宮沢賢治童話村」がオープンし、今となってはこの山は、「賢治を祀る山」という様相を呈しているのです。
 国道456号線から、「賢治記念館」の方へ登っていく道の分岐点には、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう」という「農民芸術概論綱要」の一節が刻まれた石碑が建てられています(下写真)。それは、まるで賢治世界への入口を示す道標のように、私には思えます。


 さて、胡四王山という山は、花巻市街の中心部からは北東の方に4kmほど離れたところ、北上川の東岸にある小さな丘です。大きく見れば、北上山地の裾野が、北上川流域平野に突出してきた丘陵の、その突端をなしている部分です。
 在来線の花巻駅からは、賢治記念館へ行くバスがふんだんに出ていますし、1985年に東北新幹線の「新花巻駅」が胡四王山の近くに設置されたことは、観光客のアクセスにおいて、より好条件となりました。

 花巻の街からは、見通しさえよければ、だいたいどこからでもこの山の姿を見ることができます。山頂にある数本の大きな杉の木が、まるで「トサカ」のように立っていて、ひときわ目立つ形をしているのが特徴です。
 きっと賢治も、この胡四王山の容姿を、いつも親しみをもって眺めていたことでしょう。

3.作品との関わり


 「歌稿〔B〕」において、「大正三年四月」と題された章に、次の短歌があります。

179    山上の木にかこまれし神楽殿
      鳥どよみなけば
      われかなしむも。

179a180  志和の城の麦熟すらし
      その黄いろ
      きみ居るそらの
      こなたに明し

179b180  神楽殿
      のぼれば鳥のなきどよみ
      いよよに君を
      恋ひわたるかも

 これらは、賢治が岩手病院における入院・初恋をへて、また花巻の自宅に戻った時期に詠まれたものと思われますが、「山上の木にかこまれし神楽殿」という描写などから、これは胡四王山における作品と推定されています(右写真が胡四王神社神楽殿)。
 麦が黄色く熟しているところから、時は1914年の初夏の頃でしょう。
 この頃賢治は、病院で知り合った若い看護婦さんに対する恋心を抑えがたく、また自分の将来への希望も持てず、悩み苦しんでいました。そのような気持ちを抱えて、ひとり胡四王山に登り、「きみ」の故郷とされる「志和の城」の方をはるかに眺めたりしつつ、これらの歌に思いを託したわけです。「179b180」の歌などは、古典的な相聞歌のような趣で、ひときわ胸に響きます。

 また、これらの短歌をもとに、晩年に文語詩化したのが、「」という作品で、ここにおいて情景描写はより具体的になっています。これも、切々とした抒情的な詩ですね。

 賢治の作品に、「胡四王山」という固有名が出てくるものはないのですが、上記の「丘」=「胡四王山」ということで、形は小さくとも、賢治にとって忘れられない思い出深い山だったことは確かでしょう。
 上にも出てきたように、賢治が妹シゲの手を引いてこの山に登ったことも、二・三回あったということです。

4.宗教的由緒


 現在、胡四王山の山頂には「胡四王神社」があります。神社の案内板には、この神社の由緒について、下のように書かれています。

 すなわちこの神社も、「八方山」や「清水寺」と同じように、坂上田村麻呂の創建という伝説を持っているのです。そして、現在は神社になっているのですが、昔は長らく「医王山胡四王寺」という名前のお寺として、信仰を受けてきたということです。
 ここで興味深いのは、明治維新直後に神仏分離令によって寺から神社に衣替えした例は多いのですが、上の文章によればこの胡四王神社は、すでに江戸時代末期の1804年に、別当を務めていた人が神道祠官に取り立てられたことを契機に、神社に変わったというのです。
 ただ、『花巻市史』に収録されている「矢沢胡四王神社文書」を見ると、その後の慶応2年(1866年)に出した文書においても、自ら「胡四王大権現社」と名乗っていたりします。そもそも「権現」とは、本地垂迹説において仏が権(かり)に神となって現れるという考え方ですから、江戸期までは純粋な神社ではなく、神仏習合的な信仰が行われていたのでしょう。
 そしておそらく明治に入って、神仏分離により「矢沢神社」という正式な神社となって、賢治の時代にも、この名前で胡四王山に鎮座していたわけです。


 と、ここまでなら、坂上田村麻呂伝説に始まり、神仏習合→神仏分離という経過をたどったという、東北地方に数多くある社寺の一例のように思えます。
 しかし、「胡四王」という名前には、もっと古い歴史が秘められているという説もあるのです。

 じつは、「コシオウ」という名前の表記には、「古四王」や、「越王」、「巨四王」、「高志王」、「腰王」、「小四王」、「小姓」など様々な種類があって、その名を冠した神社は、新潟、山形、秋田に多く見られるのです。(例えば、秋田市の古四王神社秋田県大曲の古四王神社秋田県横手市の古四王神社新潟県新発田市の古四王神社など。)
 あるデータでは、下記のとおりです。
      古四王神社(14社):山形6、秋田7、福島1
      高志王神社(4社):新潟2、福島2
      胡四王神社(2社):岩手1、福島1
      巨四王神社(1社):山形1
      小徙王神社(1社):福島1

 そして、北陸地方が古来より「越(こし)の国」と呼ばれていることを踏まえて、これは日本海側に住んでいた人々によって古くから信仰されていた神であるとする説が、かなり有力と考えられています。
 その「神」とは、ある説では、阿倍比羅夫が秋田地方に遠征したことと関連して、阿倍氏の祖神と蝦夷(エミシ)の土着の神が習合したものが「コシオウ」神であるとします。
 また別の説は、『花巻市史』にも紹介されているものですが、沿海州から日本海を越えて渡ってきたツングース系渡来人が、高志(越)族だったとするものです。『花巻市史』では、藤原相之助氏の「奥羽越の先住民族ツングースの研究」を参照しつつ、次のように説明されています。

 ケンフェルの『日本史』にある韃靼民族の渡来は、満清方面から得た史料によるものである。この民族は、いわゆるツングースで、古くは粛慎(古音はツクシン)と呼ばれて、露領沿海州地方にいたもので、日本海を越えて出羽・越後・越中・能登辺に住みついたものである。この種族は出雲族とも婚姻関係を結んだが、大和の勢力からはしばしば討伐を受けた。四道将軍の大彦命の派遣も阿倍臣の視察も、これに関係したものである。正史に載らぬ高志族との出入りは相当にあったらしい。
 いわば、この高志族は、アイヌと同じく半独立の状態にあったものであり、渟足(ぬたり)柵がつくられる前後から、陸奥の北部や出羽方面に次第に追われて北上している。阿倍比羅夫の大船隊が粛慎に遠征したのもこれに関係していることである。
 アイヌ種族とも北海道方面で抗争もしたが、一方、逐次日本化され、アイヌよりも早く北方の日本種族の血の中へ溶け込んでいった。
 その祖先を祀った社祠は少なくはない。太祖廟のある越後の弥彦神社や、宗廟である越後の諸神社を除いては、越王・腰王・古四王の名をもって呼ばれるものが多い。現存の大社としては、秋田に古四王神社があり、古四王の称呼をなすものには、羽後を筆頭に羽前・越後・岩代・陸前・陸中・陸奥などの諸社がある。岩手県に現存するものとしては、二戸郡小鳥谷・上閉伊郡綾織・紫波郡徳田、それにこの矢沢の四社が見える。

 「ツングース説」の当否はともかく、いずれにしても花巻のこの胡四王山のあたりは、平安時代よりも以前に、日本海側から移住してきた人々の集団が暮らしていた場所だった可能性があるわけです。
 坂上田村麻呂よりもはるか昔、まだ東北地方では「蝦夷(エミシ)」の人々が自由に暮らしていた時代のことです。


北参道から胡四王山頂上へ