旧天王山
1.所在地
花巻市矢沢 字高木
2.山の概要
旧天王山は、花巻市の東郊外、北上川と猿ヶ石川にはさまれた丘陵地帯にある海抜約130mの小さな丘です。賢治のメモでは「旧天山」となっていますが、これはこの「旧天王山」のことと考えられます。
上に掲げた写真は、羅須地人協会跡の高台から望んだところですが、地図からもわかるとおり、山の南麓は現在は大規模な宅地開発がなされており、賢治の頃の風景とはかなり変わってしまっているでしょう。
山全体はうっそうとした杉木立に覆われ、西の麓に登り口があります。全体としてこの山の形は、たとえて言えば非常になだらかな「滑り台」のようになっています。
西麓の鳥居をくぐって登っていくと、その「滑り台」の、滑り降りる部分を下からだらだらと上がっていくことになります。昼間でもちょっと暗い杉並木の参道がほぼまっすぐに続き、頂上には「高木岡神社」という小祠が建っています。団地の側からは、もっと短い登山路がついていて、これは滑り台でいえば、本来の「昇り階段」に相当することになります。
山頂の神社の周囲は、山腹の木々よりもさらに一段と高くそびえる木立に囲まれていて、離れたところから見ると、冒頭写真のように頂上は鶏のトサカのように見えます。胡四王山にもこのようなトサカがありますが、考えてみれば山頂に何らかの聖域が存在する山は、聖域周囲の「鎮守の森」が長年にわたり伐採されずに残ることになり、年月とともにこのような形になっていくのでしょう。
また、旧天王山の南東の山麓には、「
おそらく「きゅうでんの」というのはこのあたりの昔からの地名で、「
3.作品との関わり
賢治の作品において、旧天王山は二回登場します。
一つは、童話「〔或る農学生の日誌〕」の、土性調査の場面です。農学校の実習で、このあたりの土性調査を担当した主人公たちの班は、順調に作業をこなしていき、
「・・・それからは洪積層が旧天王の安山集塊岩の丘つゞきのにも被さってゐるかがいちばんの疑問だったけれどもぼくたちは集塊岩のいくつもの露頭を丘の頂部近くで見附けた。・・・」と話は進んでいきます。賢治自身の実際の調査経験にもとづいた描写なのでしょう。
もう一つは、「口語詩稿」に分類される詩作品「〔何かをおれに云ってゐる〕」です。ここでは、何かの調査に来た中隊長が、農作業をしている賢治に声をかけます。伊藤光弥氏によれば、これは1926年8月15日の北上川の増水(「七三〇ノ二 増水」(『春と修羅第三集』))の後、豊沢川河口南側にあった陸軍工兵第八連隊から、視察官が工兵船で来たということだったようです(『森からの手紙』,2004)。
中隊長が、「ちょっときみ、あの山は何と云ふかね」などと威張って質問すると、賢治はすまして、「あいつはキーデンノーと云ひます」と答えます。そして、変な名前に戸惑っている中隊長を、ひそかに面白がって見ています。
これは、羅須地人協会から東の河岸段丘に降りた「下ノ畑」あたりでのエピソードなのでしょうが、現在は北上川の岸辺の木々が高く繁っているために、この場所から旧天王山は見えません。
賢治が「旧天王」を「キーデンノー」と発音したことに関して、『新宮澤賢治語彙辞典』は、「キュウテンノウを訛って、しかも中国語風にシャレて言ったものかと思われる」と説明し、さらに力丸光雄氏の説、「『聞いでんの?』という賢治のしゃれにも聞こえる」という解釈も紹介しています。
しかし前述のように、このあたりが昔から「きゅうでんの」と呼ばれていたのならば、「キーデンノー」という言葉は賢治の意図的な創作ではなくて、当時は一般的に使われていた呼称(またはその自然な訛り)だった可能性もあります。
4.宗教的由緒
現在、旧天王山の頂上には高木岡神社(右写真)が鎮座していますが、明治の神仏分離以前には、いろいろな宗教的変遷があったようです。
神社としての由来について、 神社所蔵の「明細帳」には、次のように記されています(『花巻市史』より)。
慶長八年(1603年)、伊勢神社に参拝した村民たちが五穀豊穣を祈り、伊勢の外宮より稲蒼魂命を請勧し、古くからあった大山祇命と合祀したのが起源である。寛文十年(1670年)社殿を建築したが、古くは「御羽黒山」と称しておった。明治維新後、高木岡神社と改称し今日に至っている。
神社側から書かれた由緒なので、これを読むと少なくとも1603年以降はここはずっと神社になっていたように見えますが、実際にはそうでもなかったようです。
たとえば、寛政9年(1797年)に社殿を改築した記念には、「奉建立羽黒山・湯殿山・月山 宝宮成就所 祈元導師 自覚院」との棟札が奉納されています。
また、この神社はなんと「弥陀三尊像」も所蔵しているとのことですが、その台座には、「文化四乙丑(1807)八月八日、万人加力高木村願主快癒院願主申松」と記されています。
さらに、境内の南東の隅には現在も「法華経一字一石塔」が建てられており(右写真)、文化9年(1812年)の日付が刻まれています。
ちなみに「一字一石塔」というのは、小さな石の一つ一つに経典の文字を一字ずつ書き、それをまとめて埋めた場所に、目印として立てる塔のことです。何かの縁か、これも一種の「埋経」の証で、賢治の遺言よりも百数十年前に、やはりここに法華経を埋めた人があったわけです。
すなわち、少なくとも18世紀末から19世紀にかけては、この山ではかなり仏教的な信仰が行われていたようで、特に「羽黒山・湯殿山・月山」の棟札の存在からは、おもに修験道の色濃い場所だったのだろうと思われます。神仏分離以降に祭神を「大山祇命」としているのも、もと修験道の寺によくあることで、地元の人から「御羽黒山」と呼ばれ、「霊山として信仰の聖域になっていた」(「高木岡神社由緒」より)というのも、それを裏づけます。
北上山地は、古くから早池峰山を中心に修験道が盛んな地帯だったようですが、この旧天王山や観音山などは、山から里の方に張り出してきている、山伏の最前線の根拠地だったのではないかと思います。
また先にも触れたように、はるか有史以前には、このあたりに縄文の豊かな大集落がありました。花巻市内で最大規模というこの久田野遺跡のほかにも、北上川東岸の丘陵附近からは、上台遺跡などいくつかの縄文遺跡が見つかっています。段丘が平野に向かって舌状に延びてきている場所というのが、縄文時代の人々にとっては何か暮らしやすい条件にあったのでしょうか。
賢治の作品に「〔うからもて台地の雪に〕」というのがありますが、太古の花巻に最初に住み着いた人々のことを思うと、この文語詩の情景が目に浮かんできます。
北側から見た旧天王山