〔何かをおれに云ってゐる〕

   

   〔冒頭原稿なし〕

     何かをおれに云ってゐる

   (ちょっときみ

    あの山は何と云ふかね)

     あの山なんて指さしたって

     おれから見れば角度がちがふ

   (あのいたゞきに松の茂ったあれですか)

   (さうだ)

   (あいつはキーデンノーと云ひます)

     うまくいったぞキーデンノー

     何とことばの微妙さよ

     キーデンノーと答へれば

     こっちは琿河か遼河の岸で

     白菜(ペツアイ)をつくる百姓だ

   (キーデンノー?)

   (地図には名前はありません

    社のある百五米かのそれであります)

   (ははあこいつだ

    うしろに川があるんぢゃね)

   (あります)

   (なるほどははあ あすこへ落ちてくるんだな)

     あすこへ落ちて来るともさ

     あすこで川が一つになって

     向ふの水はつめたく清く

     こっちの水はにごってぬるく

     こゝらへんでもまだまじらない

   (峠のあるのはどの辺だらう)

   (ちゃうどあなたの正面です)

   (それ?)

     手袋をはめた指で

     景色を指すのは上品だ

   (あの藍いろの小松の山の右肩です)

   (車は通るんぢゃね)

   (通りませんな、はだかの馬もやっとです)

     傾斜を見たらわかるぢゃないか

   (も一つ南に峠があるね)

   (それは向ふの渡し場の

    ま上の山の右肩です)

     山の上は一列ひかる雲

     そこの安山集塊岩から

     モーターボートの音が

     とんとん反射してくる

   (臥牛はソーシとよむんかね)

   (さうです)

   (いやありがたう

    きみはいま何をやっとるのかね)

   (白菜を播くところです)

   (はあ今かね)

   (今です)

   (いやありがたう)

     ごくおとなしいとうさんだ

     盛岡の宅にはお嬢さんだのあるのだらう

   中隊長の声にはどうも感傷的なところがある

   ゆふべねむらないのかもしれない

   川がうしろでぎらぎらひかる