考えるために出かける

 哲学者の西田幾多郎が、思索のためにいつも東山の疏水べりのこみち(後の「哲学の道」)を歩いていたように、人間は歩いている時に、いろいろとアイディアを得たり、考えを深めたりできるもののようです。
 宮沢賢治が、よく野山を歩きまわっては心に映ずる知覚やイメージを手帳にメモして、それを「心象スケッチ」として作品にしたのも、歩行や移動が持つそのような性質を、利用したものと言えるでしょう。
 彼らの場合は、「たまたま歩いていたら、考えが浮かんだ」のではなくて、「心に生ずる想念を捕獲するために、わざわざ歩きに行く」のです。

 そして賢治の詩作品の中には、自らが考えるべき問題をあらかじめ措定した上で、わざわざその思索のために出かけたことが、具体的に記されているものもあります。
 その一つは「小岩井農場」で、もう一つは「青森挽歌」です。

 図らずも、前者は8082文字もある『春と修羅』最長の作品で、後者は3852文字で二番目に長い作品です。
 どちらの作品も、当時の賢治にとって重要かつ困難な問題を、粘り強く考え尽くそうとした証しであると言えます。

 「小岩井農場」の方で、賢治が考えようとしていた問題は、同僚の堀籠文之進と仲良く付き合いたいのに、うまく接することができず、いつもぎくしゃくしてしまうという悩みでした。堀籠さんとの関係を今後どうしたらいいのか考えることが、賢治としては「小岩井農場」の長大な散策の目的の一つだったのです。
 そのことは、「小岩井農場」の清書後手入稿の「第六綴」に、次のように記されています。

尤も方角さへきめて行けば
行けないこともないのだが
実は今日は少し気が急くのだ。
堀篭さんのことも
考へなければならない
のだ。

 当時の堀籠さんとの葛藤については、上記の少し前の部分に細かく記されていますので、少し長くなりますが引用しておきます。

鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。
今日は日直で学校に居る。
早く帰って会ひたい。
今私の担当箱の中のくらやみで
銀紙のチョコレートが明滅してゐる筈だ。
それは昨夜堀篭さんが、
うちへ
遊びに来ると思って
夏蜜柑と一諸に買って置いたのだ。
けれどももちろん来なかった。
それはあんまり当然だ。
昨日の午后街の青びかりの中で
お遊びにいらっしゃいませんか
と私は云った。
その調子があんまり烈しすぎたのだ。
堀篭さんは
だまって返事をしなかった。
お宜しかったらと
おれはぶっきら棒につけたした。
あの人は少し顔色を変へて
きちっと口を結んでゐた。
それは行かうと思ったのに
またそれを制限されたやうにも思ひ
失望したやうにも見えた。
けれども何だかわからない。
山の方は青黒くかすんで光るぞ。
それはさうだ、この五六日
ずゐぶん私は物騒に見えたらう。
何もかもみんなぶち壊し
何もかもみんなとりとめのないおれはあはれだ。

 「小岩井農場」の主なテーマの一つが、堀籠さんとの関わりにあったというのは、最終的に出版される段階では該当箇所(パート五・パート六)が削除されてしまうために、読者には見えにくくなっていますが、実は本来これが当時の賢治の大きな苦悩だったのです。
 (もう一つ、この頃の賢治は特定の女性への感情で悩んでいた可能性もありますが、この問題は堀籠さんのことよりも、さらに奥に秘匿されているようです。どちらの問題も、「特定の〈ひとり〉への執着」ということで共通しており、これらが合わせて「小岩井農場」のテーマとなっていて、パート九で最終的な解決が図られるのだろうと思われます。)

 上の引用箇所を見ると、賢治は堀籠さんに対して実に不器用な接し方をしては相手の態度を硬化させ、そのたびに自己嫌悪に陥っています。このような賢治の様子が、「土神ときつね」の土神に似ていて、そしてそれこそが「修羅」の二面性(=怒りと諂曲)の実体ではないかということは、以前に「諂曲なるは修羅」という記事で述べました。
 現実の成り行きとして、賢治はその後1923年3月に、堀籠に対して「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言って彼の背中を打つ、というかなり感情的な行動に出て(『新校本全集』年譜篇p.254)、結局〈みちづれ〉となることを諦めたのでした。

 1923年3月に決着に至ったということは、「小岩井農場」散策時の一日の思案では、まだこの問題の解決はついていなかったわけで、おそらく賢治は1922年5月の小岩井行の後もいろいろと悩んだことでしょう。そして上記の決着も経た上で、1924年4月に出版される「小岩井農場」最終形において、「正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」道を自分は進むのだと、総括するのです。

 一方、「青森挽歌」の方の賢治は「歩きに出た」のではなく、樺太までの長旅のために、まずは青森行きの夜行列車に乗りました。静かな夜の列車の中というのも、じっくりと考えを深めるには、うってつけの環境と言えるでしょう。
 賢治がこの列車に、考えなければならない課題を持って乗車していたことは、次の箇所に表れています。

  (考へださなければならないこと
   わたくしはいたみやつかれから
   なるべくおもひださうとしない)
〔中略〕
かんがへださなければならないこと
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない

 ここで賢治が考えようとしていた課題とは、上にあるように、「どこへ行つたかわからない」トシの行き先でした。
 彼女は、賢治の必死の祈りがかなって天界に転生したのか、それとも鳥になったのか、地獄に墜ちたのか、賢治にはどれも信じることはできず、悩み苦しんでいたのです。

 そしてこちらの問題に対して、賢治が最終的に得た答えは、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》ということでした。

 こうやって並べてみると、 この二つの作品において賢治が考えなければならなかった課題は、いずれも私が以前から「〈みちづれ〉希求」と呼んでいる問題に関わっていたのです。

 そしてまた、どちら作品で得られた「答え」も、元来の「問い」に対して直接答えるものではなく、最終的にはそれらを別の次元に昇華しようとするものでした。
 まず前者で見出された答えは、堀籠さんとの関係をどうするとかいうレベルのことではなくて、そのような一対一の関係を根本的に超克し、「じぶんとひとと万象といつしよに」進むということでした。
 また後者で啓示された答えは、トシの行方を案じるなどという「ひとりをいのる」ことをやめて、やはりそんな一対一の執着は、超越しなければならないということでした。

 「己れの修羅性」と「トシの死」という、『春と修羅』の二大テーマは、この集の二つの長詩で描かれた「旅」において考察が始められ、すぐには答えが出なかったようですが、その出版前に何とか昇華が成し遂げられて、いずれも「個別的な愛ではなく普遍的な愛を生きる」という方向へと、乗り越えられていったのです。

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