近森善一との交友

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近森善一
(『イーハトーヴォ』第2期5号より)

 以前に「『注文の多い料理店』発刊までの経緯」という記事で見たように、1923年後半のある日、盛岡高等農林学校における賢治の1年後輩だった近森善一よしかつは、自分たちが作った農業書のセールスのために、花巻農学校を訪れました。この際に賢治が近森に、童話の原稿が大量にあると言ったことが、童話集『注文の多い料理店』発刊のきっかけになったと考えられています。

 盛岡に戻った近森は、「光原社」の共同経営者である及川四郎とともに、賢治の童話集出版のための準備を進めたと思われますが、その途半ばの1924年3月頃に、近森は突然郷里の高知に帰ってしまいます。そして地元の選挙騒動に巻き込まれて一時は収監され、挙げ句の果ては村長にまで(!)なってしまうのです。
 そのため『注文の多い料理店』出版の仕事は、残された及川が途中から一人で担わざるをえず、大変な苦労をすることになりました。

 及川家は、現在も盛岡市材木町で「光原社」の灯を守りつづけ、そのあたり一帯は今や賢治の「聖地」の一つのようになっているのに対して、近森善一に関しては、これまで研究者によって論じられることも、比較的少なかったように思います。
 そういう中で、鈴木健司氏が高知赴任中に、近森善一の聞き書きを集成して発表した論文「童話集『注文の多い料理店』発刊をめぐって─発行者・近森善一の談をもとに」(『言語文化』No.13, 1996)は、近森の人となりや賢治との交友について、貴重な情報を提供してくれる資料の一つです。

 本日は、この鈴木氏がまとめた近森善一の聞き書きから、興味深い点をいくつか見てみたいと思います。
(鈴木氏の論文を収めた『言語文化』は、国会図書館デジタルコレクションにログインすれば閲覧できます。また同論文は、鈴木氏の著書『宮沢賢治という現象』にも収録されています。)

 鈴木健司氏は、「童話集『注文の多い料理店』発刊をめぐって─発行者・近森善一の談をもとに」(『言語文化』No.13, 1996)において、まず近森善一に関するこれまでの伝記的研究には、相当な錯綜が見られることを指摘し、次に近森の大まかな年譜を呈示します。
 そして、本題である近森善一の聞き書きとして、一つは高知県立農学校で近森の教え子だった小松亮氏が1951年に採録した話と、もう一つは「土佐賢治の会」の長谷部伸作氏が1966年に近森にインタビューした録音の書き起こしという、二つのテクストが掲載されています。

 二つの聞き書きを読んで印象深いのは、まずは近森善一という人の、豪放磊落で(ちょっといい加減なところはあるものの)面倒見がよく世話好きな、愛すべき人柄です。私は昔しばらく高知で暮らしたことがあるのですが、いかにも土佐人らしいタイプと感じます。
 それから賢治との関係においては、一般に想像されていた以上に二人の交友は密接で、様々な面白いエピソードがあったということです。

 ここでまずは、高知県立農業高校に保管されていた近森善一の自筆履歴書をもとに、鈴木健司氏が適宜選択加筆した、近森の「略年譜」を引用掲載させていただきます。

近森善一 略年譜

1897(明治30)
8月25日
0歳
高知県香美郡富家村(現在、香南市野市町)に生まれる
1909(明治42)
4月8日
12歳
高知県立中学海南学校に入学
※明治43年(13歳)の可能性あり
1915(大正 4)
3月
18歳
高知県立中学海南学校を卒業
1916(大正 5)
4月10日
19歳
盛岡高等農林学校農学科第一部に入学
1919(大正 8)
3月19日
4月15日
22歳
盛岡高等農林学校農学科第一部を卒業
引き続き、昆虫学研究生となる
1920(大正 9)
9月14日
23歳
岩手県立盛岡中学校教師、嘱託となる
1922(大正11)
1月30日
1月31日
4月3日
11月10日
25歳
昆虫学研究生を終了
岩手県立盛岡中学校教諭となる
長崎県立農学校高校に転任
長崎県立農学校を退職
1923(大正12)
1月10日
7月31日
26歳
盛岡高等農林学校助手となる
盛岡高等農林学校をやめる
1925(大正14)
2月1日
8月
28歳
高知県香美郡富家村村長となる
結婚
1927(昭和 2)
4月9日
4月13日
30歳
高知県香美郡富家村村長を辞職
高知県立農学校(現、高知県立農業高校)教諭となる
高知県立農業教員養成所教諭を兼任
1944(昭和19)
7月28日
47歳
高知県立農学校を退職
その後短期間だが、県立農事試験場に勤務(時期不詳)
1951(昭和26)
54歳
(小松亮氏の聞き書き)
1952(昭和27)
6月12日
55歳
高知県香美郡富家村村長となる
1953(昭和28)
6月6日
56歳
高知県香美郡富家村村長を辞職
1966(昭和41)
9月15日
69歳
(長谷部伸作氏インタビュー)
1973(昭和48)
1月4日
76歳
死去

 近森善一は、19歳で盛岡高等農林学校に入学してから、同研究生、盛岡中学の教師、盛岡高等農林の助手を歴任し、27歳で高知に帰るまで、ほぼ盛岡で生活しています。
 この間に、賢治と出会っていろいろ交遊をしているのですが、近森が1年生の時、実習が嫌で学校を辞めようとしていた際に、賢治が引き止めて近森の機嫌を直そうと、あちこち連れ歩いた話が面白いです。
 下記は、長谷部伸作氏による近森69歳の時にインタビューの一部で、[ ]内は長谷部氏の言葉です。読みやすくするため、適宜改行を入れてあります。

宮沢は一年上だった。[ああ、そうですか。寮が一緒だったと聞きましたが。] あれは二学期だったろうと思う。宮沢が二年でわしが一年のときだから。[近森さんが一年生で、宮沢さんが]二年生のとき。二年でそれで宮沢が室長をしていた。[同じ部屋の室長] ええ、そうそう。六人おりましたね。
その時にね、実習をやらなければならんでしょう。わしはやったことがないんだね。もう二学期になっていたからだいぶやってはいるんだけれど、そうだね、馬のくそ、堆肥を積んだりということはこちらではあまりやったことがない。それから自分もやったことがないもんだから、みょうに汚らしくて。「取ります」と言って、「これは何で取りますか」と言ったら、教師の横川という人が「手で取らなくてなんで取るんだ」と言って、「おまえたちは第一おうちゃくだ」と言って。それから、履いている足袋はまだ地下足袋のよいのがなかった。そのころは。ゴム底じゃなかったように思うが。はじめのときはゴム底でない地下足袋だったように思う。そいつを買って、ぶらさげておいたら盗られる、誰が盗るかしらないが。□□□ね。繻子の上等な足袋を買ってきてね、そいつを履いてやったんだ。それが第一しゃくにさわったんだろうねえ。あの何だ監督がね。□□□、それで、ひどくしかられたものだからすっかりおもしろくなくなってしまって、実習が嫌になってしまったんだ。それで、よし俺はもう学校を止めてしまおうと思って、どこかへかわってしまおうと思っていた時ですがね。
宮沢が、「おまえさん、いかんいかん、どうせ百姓はしないんだ。俺と遊びに行こう」と言って、あの辺を方々連れて行ってもらったことがある。行ったらね、温泉をみたことがないでしょう。初めてでしょう。それから、湯が湧き出ているところもめずらしかった。山の中の湯の出てくるところへ行ったら、何だ、下の方で人が入っているんだけれど、上の方ではヒキガエルがいっぱい飛び込んで死んでいる。もう骨になってね。それから、鉱物がね、岩の間からこうじわじわと出てきたやつが固まってるでしょう。ルビーや瑪瑙だとかいうものがね。それから他の鉱物、こっちにはない、結晶しておりますが。それがとても珍しくてね。それから宮沢に習いはじめたんだ。それで毎日一日中二人で、学科をそっちのけにして歩き回ったです。それで方々へ泊まりがけで、田舎の家を借りて泊ったりしてね。
[岩手山なんかにも、よく登られたらしいですね。宮沢さんが] ええ、わしも一ぺんか二へん上がったけれど、上に上がると風が吹くでしょう。それから雲が来るでしょう。それでちっとも眼鏡が見えんようになってしまうんですがね。天気のよい日だったらいいけれど、悪い日に上がって、風のせいで吹き飛ばされてひとつも歩けんのだ。それからわしも山に上がるのがおもしろくなりましてね。あそこに岩手山という山がありますね。富士山の片一方□□。それからもう一つ早池峰という山がありますね。それへも上がったりして、それからだんだん山登りがおもしろくなって、こっちの農学校に来た時分も、初めのうちは方々へ生徒を連れて行きました。

(『言語文化』No.13, pp.113-114)

 上記で何と言っても面白いのは、中ほど少し下あたりで、賢治が近森を温泉の湧き出し口に連れて行くところです。
 これはどう見ても、賢治が中学2年の9月に藤原健次郎にあてた書簡0aに書かれている、大沢温泉の源泉部ではないでしょうか。
 下記が、その書簡0aの該当箇所です。

僕は先頃一週間ばかり大沢に行った。大事件は時に起ったね。
どうも僕はいたづらしすぎて困るんだ。大沢はポンプ仕掛で湯を上に汲上げてそれから湯坪に落す。所でそのポンプは何で動くったら水車だね。更にその水車は何で動くったら山の上から流れて来る巾三尺ばかりの水流なんだ。
その水流が二に分れる 一は水車に一は湯坪に。つまり湯があまり熱いとき入れるんだね。
そこにとめがかってある。
永らく流れないものだから蛙の死んだのや蛇のむきがらなどがその湯坪に入る水の道にある。一つも水が湯坪に行ってない。水車に行ってるゐる。
乃公考へたね。そこでそのとめを取った。所が又本のやうにならない。水はみんな湯坪に行った。水車は留った 湯はみな湯をためてる所から湧き上るのでみなあふれ出る。そして川に入る。川には多くの人が水を泳いでゐる。僕逃げた。後で聞くと湯坪には巡査君湯主と共に男女混浴はいかんなんて叱ってゐる上から水が、そら熱いとき上から落つるやうになってゐるとひから三尺立方というやつがどんどう落つる 湯は留まる。あたら真白の官服も湯や水にはれられてごぢゃごぢゃになった。浴場には又東京から来たハイカラ君なども居たがびっくりして湯にもぐったさうだ。

 近森の話では「ヒキガエルがいっぱい飛び込んで死んでいる」というのに対し、賢治の手紙では「蛙の死んだのや蛇のむきがらなどが…ある」ということで、やはりこれは同じ場所に違いありません。
 賢治は、自分が少年時代に最も痛快な思いをしたこの場所に、へそを曲げてしまった後輩を連れて来て、気持ちをほぐしてやろうとしたのだと思います。

 できることならば、これらのエピソードの舞台となった大沢温泉の湧き出し口が今はどうなっているのか、実際に様子を見に行ってみたいところですが、上のような状態のままではいつまたいたずら者に悪さをされるかもしれませんので、現在はおそらく部外者は近づけないようになっているのでしょうね。

 また近森と賢治は、岩手山や早池峰山など岩手の山々にも一緒によく登り、これがきっかけで近森も登山が好きになり、高知の農学校に勤務するようになってからも生徒をよく山に連れて行っていたと言っています。これは、生徒を岩手山などに連れて行った賢治の農学校教師時代も連想させます。

 学生時代の賢治と近森の交友で、もう一つ面白いのが、賢治が作成した印刷物を、近森が頼まれて配付していたという話です。
 小松亮氏の聞き書きには、次のようにあります。

 或る時、半紙大のものに賢治が格言とか常識とかいったものを箇条書きに印刷し私がたのまれてそれを芸者とかそういった女のいるところに十数枚ぐらいづつ束にしてばらまいた。賢治は料理屋などに行くことは殆どなかったが、或る時私につきあって田舎のとある料理屋に行った。この時出てきた芸者(少女)に後で本物の宝石の指輪をやったのには驚かされた。弱い者への同情というべきだろう。

(『言語文化』No.13, p.105)

 また、長谷部伸作氏のインタビューでは、次のように述べています。

それで、中学校にいた時はね、あの時はね、あれは誰も書いてないだろうと思うが、宮沢君がね、わしのところへ来てね。「これくらい刷ってきたから」と、かなり刷ってあったと思うが、一枚の紙へね。あの時分にはキングとかいう雑誌があって、一行ずつなにか難しいことをこう書いたものがあって、[一行知識みたいな]ええ、そうそう教訓なんか書いて。あんなのをね、紙にこれくらい刷ってきて、「これを夜配ってくれないか」と言ってね。「夜でも朝でもかまわないから、朝早くから人にお前が配っていることが分からないように配ってくれないか」と言ってね。しばらく配ってやったことがある。時々持って来たので。[その当時、宮沢さんは花巻の農学校におったでしょうか。それとも、もうやめて百姓していたのですか] はじめには、待って下さいよ。学校におりましたね。[高等農林に、それから花巻の農学校に] それがわしは、どうもよく分からない。あれは学校も止めてね、学校には長くおらなかったでしょう。

(『言語文化』No.13, pp.117-118)

 この印刷物の内容が、「格言とか常識とかいったものを箇条書きに印刷し」とか、「一行ずつなにか難しいことをこう書いたもの」とあるのはさておき、「半紙大くらいのものに…印刷し」という体裁は、「〔手紙 一〕」「〔手紙 二〕」「〔手紙 三〕」が「上質和紙(縦23.3cm×横33.1cm)」に刷られていたというのと、ちょうど一致します。
 さらに、「人にお前が配っていることが分からないように配ってくれないか」と近森に依頼しているところからしても、これは「〔手紙〕」シリーズに違いないと思われます。近森が「しばらく配ってやった」と言っていることからして、配付依頼は1回だけではなかったようです。

 賢治が1919年9月21日に保阪嘉内にあてた書簡156に、「本日別便にて半紙刷五十枚御送附申上候 御一読の上貴兄の御意見に合する点有之候はゞ、何卒貴兄の御環境に撒布奉願候」とあり、一緒に「〔手紙 一〕」が同封されていたということです。また、やはり保阪嘉内あての同年12月23日付け書簡には、「印刷物はできてきましたが今度はどうも配る気になれません」と記されていて、こちらは「〔手紙 二〕」と推測されていることから、二種の印刷物の作成されたのは1919年後半ということがわかります。

 この前年に、賢治は盛岡高農の研究生を辞めて、花巻で家業手伝いをしていた頃であり、一方の近森はまだ同校の研究生をしていました。賢治が花巻に帰ってからも、二人の交友は続いていたことがわかります。

 賢治が近森に配付を依頼した「〔手紙〕」が、一から四のどれだったか考えてみると、「芸者とかそういった女のいるところに十数枚ぐらいづつ束にしてばらまいた」ということからして、「〔手紙 二〕」の、「一人のいやしい職業の女」が「まことの力」に祈ることによってガンジス河の水を逆さまに流すという奇蹟の話が、内容的には最も相応しく感じられます。
 この「〔手紙〕」シリーズは、花城小学校、花巻高等女学校、郡立農蚕講習所、盛岡中学、盛岡高等農林学校の靴箱に入れられたりしていたということで、保阪嘉内にも配付を依頼していたことは上記書簡でわかりますが、賢治以外の者が実際に配付をしていたという証言は、この近森善一以外にはあまりなかったのではないでしょうか。

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「〔手紙 三〕」(『新校本宮澤賢治全集』第12巻口絵より)

 近森善一が賢治の交友関係について、「友達は少なく交際したのはおそらく私ひとりではあるまいか」と述べているのは不思議なところで、ご存じのようにこの頃の賢治は、近森との交流と平行して、やはり1年後輩の保阪嘉内とも非常に親密な付き合いをしていました。こちらの二人の関係は、それぞれが残した文章も豊富で、遙かに有名になっています。
 近森も嘉内も、どちらも賢治と二人で岩手山に登っていますが、三人が一緒になることはなく、賢治はそれぞれと一対一の付き合いをしていたということなのでしょう。

 1924年春に、近森が盛岡を去って高知へ帰ってしまった時のことについては、近森は次のように回想しています。

それからね、わしが家へ長いこと戻っていない、おおかた一年半、二年近く戻ってなかったので、家に戻らなければいかんということで、家に戻って来たんです。
そのときに、あの何ですわ、選挙がありましてね。全国的にあったと思う。その選挙のなかへわしを巻き込んだですよ。わしは格別何だ選挙というものはひとつも知らなかった。盛岡の町は原敬が一人で独占していましたので、選挙というものはなかったんです。それだから、十年ほどあっちにおりましたけれど、選挙がいつあったかひとつも知らなかったでしたね、原敬が殺されるまでは。その時は殺されていたのか、ちょっと忘れてしまいましたが、それから、何でしたよ。うちに戻って来て、そう、選挙に巻き込まれて、監獄へ入って、未決で入って、□□ってやられて、それが出て来て腹が立って、こんどまた村が騒動になって、親父なんかがみんな一緒になって、村がわいわいいい出してね。
それから、あの時分には村長も選挙じゃなかったですから、有志が集まって、誰がやれ誰がやれというばかりだった。それで、有志会こしらえてやったら、こんど喧嘩みたいになったのでなり手がないでしょ。それで、「どうしてもなり手がなかったら俺がなってやる」と言ったんだ。「そんならやれ」ということになってね。「勇気があればやってみろ」ということになって。何しろ若かったのでね。
それから本屋ほったらかしに、こっちでこんなことをし始めたんですわ。そのうちに女房もらい、親父が「こんなことをしていたらろくなことがない」と言って、三十になっていましたので、こっちに戻って考えてみたら、あっちに行って本屋してもろくなことがない、食うことができないので、こっちにおったほうがましのように思えだした。それから、「おまえがもうやれ」ということになって、それから、わたしは譲り渡しましたがね。[及川さんがずっとやって]やっておる。なかなか盛況にしているらしい。

(『言語文化』No.13, pp.111-112)

 近森善一は、及川四郎の若妻が妊娠して、及川が親元から絶縁のようになって苦労していた時にも、夫婦のために大きな家を借りてやって、金を稼ぐために一緒に殺虫剤を作ったり本を書いたり、いろいろと世話をしてやっていました。こういうところは本当に面倒見がよい人だと思うのですが、久しぶりだからといって郷里に帰ってみると、図らずも選挙の手伝いをさせられ、さらに選挙違反に連座して一時的に収監されて、その後は村長まで引き受ける羽目になるのです。
 まるで人の世話をしているうちに、どんどん予想しないところに流されていってしまうような人生です。

 「あっち(盛岡)に行って本屋してもろくなことがない、食うことができないので、こっち(高知)におったほうがましのように思えだした」などと言われてしまうと、残された及川にとってはたまったものではないでしょうが、実際には近森は、『注文の多い料理店』によって多額の借金を負ってしまった光原社のために、後で多額の出資をして助けたということです(近森節子「賢治生誕百年債に寄せて─ちちと私」宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報13号)。

 近森の高知の実家は、地元では名士の大地主で、盛岡高農の学生時代の近森は、顕微鏡を買うと言っては千円も二千円もの金を家から送らせて、料理屋に通っていたということです(『イーハトーヴォ』第2期5号収録の森荘已池の記述)。当時の1,000円は現在の貨幣価値では100万円近くになりますが、バックにこういう財力があったおかげで、『注文の多い料理店』を出した後の光原社も、滞りなく経営を続けていくことができたわけです。

 近森と賢治の付き合いが、いつまで続いていたのかということについては、近森は「私は大正五年頃から昭和初年までの間、長崎に一~二年おった間を除いて賢治と交際していた」と述べているのが注目されます。従来は、近森が『注文の多い料理店』を放り出して1924年に高知に帰ってしまって以降は、両者の交流は途絶えたかのように思われており、実際のところ両者の交流の証拠は残っていません。
 ですから、本当に「昭和初年まで」交際が続いていたのかどうかは不明なのですが、長谷部伸作氏のインタビューには、次のようにやや気になる部分もあります。

[賢治はその本(注:『注文の多い料理店』)を出した時分にはどこにおったわけですか] 家におったです。あ、家じゃない、あれは農学校、農学校の教諭していたのじゃなかったろうか、花巻の。[花巻の農学校の] ちょっとわしの話は前後するかもわかりませんよ。[そうでしょうね、たぶん] わしもいっぺん行きましたね。農学校に勤めておったように思う。それからその前には、なんの時に行ったか、あの、詩を書いたりね、そんなことをしていて、妙に小さい家を建てて、わしはそれを見なかったが、どこかに建てたというけれど、そんなところへ行きもしなかった。農業相談所のようなことをしてね。[そうらしいですね] 肥料のね。

 賢治が、「妙に小さい家を建てて」、「農業相談所のようなことをしてね、肥料のね」というあたりは、まるで羅須地人協会時代のことを述べているようにも感じられるのです。近森は「それを見なかった」けれども、賢治が「妙に小さい家」でそういう活動をしていたということは、何らかの形で知っていたのかもしれません。
 そうなると、二人の交際が「昭和初年まで」というのも、一概に否定できないことになります。

 最後に、これは賢治とはまったく関係のない話ですが、今回近森善一について調べているうちに、偶然目にしたエピソードについて、記しておきます。
 1936年に防犯協会が刊行した『高知県犯罪捜査集 第1輯』という本に、昭和初期に関西を中心に暗躍した「金剛団」という骨董品詐欺グループの被害に、近森善一が遭ったという話が載っているのです。

 グループの総帥は湯浅明義という男なのですが、この男は1930年3月6日に前刑を終えて出所すると、3月10日に高知県に現れるのです。

 香美郡富家村の農業学校教諭近森善一が初めて湯浅の毒牙に触れたのは、実に湯浅が出獄して四日目の事である。そして近森は屡々湯浅の案内で船遊びを試み其船中でも魔手に掛つた、紀州の普陀洛寺の宝物と称し七千円に売付けられた木仏は、湯浅が松火を焚いて丹念に古びをつけた、いかさま物であつたとか、……

(『高知県犯罪捜査集 第1輯』pp.236-237)

 この本には、近森が5,500円で売り付けられたという仏像の写真も載っており、近森善一が湯浅明義の詐欺グループに巻き上げられた被害総額は、計2万5500円(現在の貨幣価値で約2500万円)に上るということで、本当に胸が痛みます。
 詐欺の首謀者が、刑務所から出所後わずか4日目に近森のもとを訪ねているという行動からすると、これはきっと獄中で仕入れた情報などをもとに、近森をカモにしてやろうと狙いを定めて、高知に乗り込んできたのでしょう。

 金を持っている上に、無類の「お人好し」であるところにつけ込まれたということなのでしょうが、しかし考えてみれば、いつぞやも近森善一は本のセールスのために花巻農学校を訪れたのに、そこでうっかり賢治の話に乗ってしまったために、多額の借金を背負ってしまったというのは、近森の「お人好し」のなせるわざだったとも言えるでしょう。

 こちらの話の結末は、近代文学史に残るような画期的な童話集の発刊、ということになったのですが……。