辻潤とナチュラナトゥランス

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虚無僧姿の辻潤
Wikimedia Commonsより)

 辻潤というのは不思議な人で、Wikipedia の辻潤の項を見ると、「ダダイスト、エッセイスト、劇作家、詩人、哲学者、僧侶(虚無僧)、尺八奏者、俳優」などと紹介されています。賢治もよく「マルチ人間」と言われますが、この辻潤も相当にマルチで、かなりユニークな、一筋縄ではいかない生き方をした人のようです。
 吉高由里子さんが伊藤野枝役で主演した、「風よ あらしよ」(2022年NHK BSプレミアムドラマ→2024年劇場版公開)では、稲垣吾郎さんの演じる辻潤がニヒルで超かっこよかったですが、晩年の虚無僧姿は右のような感じです。
 ドラマでは、平塚らいてうから『青鞜』を引き継いだ伊藤野枝が、貧困のなか赤ん坊二人を抱えて苦闘しているのを尻目に、夫である無職の辻潤は、縁側で尺八を吹いているというデカダンなダメ男ぶりが、印象的でした。

 一方、宮沢賢治との関係において辻潤は、『春と修羅』が刊行されて最も早い時期に、それを絶賛する評を読売新聞の「惰眠洞妄語」と題したコラムに書いたことで、知られています。
 下記は、その一部です。

 宮沢賢治と云ふ人は何処の人だか、年がいくつなのだか、なにをしてゐる人なのだか私はまるで知らない、しかし、私は偶然にも近頃、その人の『春と修羅』と云ふ詩集を手にした。
 近頃珍しい詩集だ、──私は勿論詩人でもなければ、批評家でもないが──私の鑑賞眼の程度は、若し諸君が私の言葉に促されてこの詩集を手にせられるなら直にわかる筈だ。
 私は由来気まぐれで、甚だ好奇心に富んでゐる──しかし、本物とニセ物の区別位は出来る自信はある。

(「読売新聞」大正13年7月23日付朝刊5面掲載)

 若し私がこの夏アルプスへでも出かけるならば、私は「ツアラトウストラ」を忘れても「春と修羅」を携えることを必ず忘れはしないだらう

(「読売新聞」大正13年7月24日付朝刊5面掲載)

 田舎からぽっと出の伊藤野枝の才能をいち早く見抜いた辻潤ですから、「本物とニセ物の区別位は出来る自信はある」との言葉にも、説得力があります。出版からわずか3か月後に辻が認めた『春と修羅』は、当時はほとんど売れませんでしたが、作者没後の文学的評価はご存じのとおりで、やっぱり「本物」だったのです。

 ところで辻潤は、賢治を発見した感動を綴った上記「惰眠洞妄語」のすぐ後にも、また賢治に言及する一文を発表しています。1924年9月号の雑誌『改造』に掲載された、「錯覚したダダ」というエッセイです。
 これは、以前に「ナチラナトラのひいさま」という記事で引用させていただいた玉井晶章さんが、「宮澤賢治「蠕虫舞手アンネリダタンツェーリン」と〈ナチラナトラ〉の意味―― 『春と修羅』刊行初期の生前批評に触れつつ」という論文で紹介しておられるものです。
 この辻潤のコラムの最後は、次のように終わっています。

 しかし、中には平野青夜の如き男爵にしてエスペランチストであるダダもあり、隠れた素晴らしい形而上学者もゐるのである、ダダを単一狭隘な範疇に押し込めやうとするのが抑もの誤訳であつて、一切のナチュラナトゥランスはダダなのであるから、宮澤賢治君が「春と修羅」にそれを唱ふことは毫も不思議とするに足りないのである。
 まだ書き洩らしてゐるダダがいくらあるかも知れないが、それはかれ等自身の表現に委ねる、しかしダダはすぐと没落する、没落することによつて永続するのがダダだ。(八月三日)

(辻潤「錯覚したダダ」)

 文末の「八月三日」というのは、これが掲載された『改造』が1924年9月発行であることから、1924年8月3日と考えられ、7月23日~24日に出た「惰眠洞妄語」の、10日後になるわけです。
 この文章で辻は、当世のダダイストとして、稲垣足穂、高橋新吉、佐藤春夫、吉行エイスケ、古賀光二、湯浅浩、清沢清志、平野青夜などの名前を挙げた後、最後に出してくるのが、「春と修羅」の宮沢賢治なのです。
 そもそも「ダダイズム」とは、「第一次大戦の終り頃にスイス・ドイツ・フランスに起った芸術上の主張。伝統的審美観に対して極端な反抗を試み、絵画・音楽・舞踊・詩歌などの限界を意識的に破壊しようとした」(広辞苑)という芸術運動で、賢治の作品や思想がこれに該当するか否かは議論の分かれるところでしょうが、辻潤にとって『春と修羅』に散りばめられた語彙の新奇さや、「春と修羅」や「蠕虫舞手アンネリダタンツェーリン」に見られるテクストの視覚的効果は、旧来の詩の限界を破壊しようとするものとも映ったのでしょう。

 そして上記の辻潤の文章で注目すべきポイントは、何と言っても「ナチュラナトゥランス」という目新しい言葉です。玉井晶章さんも上掲論文において、辻潤のこの言葉を手がかりに、賢治が「蠕虫舞手アンネリダタンツェーリン」で「ナチラナトラのひいさま」と呼んだイトミミズの名が、実は「ナチュラナトランス(Natura Naturans)」あるいは「ナチュラナトゥラータ(Natura Naturata)」という神学・哲学用語に由来していることを、指摘したのでした。

 それにしても、後世の多くの人が賢治作品を研究してきた中で、2016年の玉井晶章さんに至るまでは誰も気づかなかったこの変な名前の由来を、当時の辻潤は一瞬にして見抜いていたわけで、やっぱりこれは「さすが」という感じです。冒頭に Wikipedia から引用した辻潤の肩書きに、「哲学者」というのが入っているだけのことはあるとも言えますが、しかし辻潤は、哲学に関して専門的な教育を受けたことはなく、独学をしただけのようなのです。
 辻は、マックス・スティルナーというドイツの哲学者の『唯一者とその所有』という著書の翻訳書を出していて、肩書きに「哲学者」とあるのは、単にこういう哲学書の翻訳をしているから、というだけの理由だと思われるのですが、そのスティルナーについて辻が書いた「自分だけの世界」という文章があります。その中で辻は、「兎に角僕は時代精神の潮流に押し流されながら、色々の本を乱読した──文学の書物も勿論好きではあつたが、哲学めいた本の方に興味があつた」と述べています。
 こうやって哲学の本を乱読するうちに、「ナチュラナトゥランス」などという言葉にも、出会っていたのかと思われます。

 たとえば「自分だけの世界」には、「僕は吹田氏の訳したヰンデルバンドの『十九世紀独逸思想史』と云ふ書を瞥見したが……」という一節が出てくるのですが、同じ著者による『ヰンデルバンド哲学史綱要』(1901)には、次のような箇所があります。

此意味に於てスピノーザはクザヌスブルーノの如く能造的及所造的自然(natura naturans, n. naturata)の語を用ゐるを得べし。神は自然なり、之を最普遍世界本質とすれば能造的なり、此本質の変形せる個物の総括とすれば所造的なり。故に能造的自然を物の原因と称することあれど此創造力が其結果と異なるものゝ義にあらず、其原因は全く結果の中に存するなり。此の如くしてスピノーザの説は汎神論●●●の極に達せり。

(『ヰンデルバンド哲学史綱要』pp.347-348)

 辻は、こういった哲学書を読むことによって、“Natura Naturans”という言葉を、自家薬籠中のものとしていたのではないでしょうか。

 思うに辻潤が、「一切のナチュラナトゥランスはダダなのである」と言っている意味は、ダダイズムというのは、善悪とか道徳とかいう価値観を超越して、この世界に産み出されてくる全てを肯定する、という感じでしょうか。
 賢治が『春と修羅』の「蠕虫舞手アンネリダタンツェーリン」では小さな虫を「ひいさま」と呼んで慈しみ、巻末部のいくつかの作品でもこの世界に生起する現象を丸ごと肯定している印象が、辻にとっては広い意味でダダ的と映ったのかもしれません。

 一方、賢治の方も、“Natura Naturans”などという難しい用語を、いったいどうやって知ったのでしょうか。この問題について、つい先日もご紹介した小野隆祥氏は、賢治は大西祝という哲学者の書いた『西洋哲学史』下巻(1904)を読んでいたと推測していることから、玉井晶章さんはこの本で賢治は“Natura Naturans”という言葉を知ったのではないかと想定しておられます。大西祝のこの著書を調べると、“Natura Naturans”という言葉が出てくるのです。私も、以前の「ナチラナトラのひいさま」という記事では、「カムパネルラ」という語の表記も踏まえてそのように考えてみたのですが、最近になって、また別の可能性にも気がつきました。

 賢治は、自分の蔵書の中から教え子の照井謹二郎に戸川秋骨訳『エマーソン論文集 上巻』を贈呈したことから、この本を賢治が読んでいたのは確実と言えます。そして、同じ戸川秋骨訳『エマーソン論文集 下巻』に収められている「自然論」の中に、次のような箇所があるのです。

 雖然時に適へる注意を取り、此の問題に関する幾多の事項を説く事をやめ、吾人をして今こゝに実力的自然 Natura Naturans なるものに対し吾人の敬意を表する事を忘れしむる勿れ。これ即ち生命の原因にしてその前には一切の形を成せるものが吹雪の如くに走り出づるなり。而してこれ自から又一個の玄妙なる理にして、その製作するものを自からの前に群をなし衆となり、記述すべからざる程の変化をなして出で来らしむ。(これ即ち古人が自然を顕す牧者プロチウスを以てせし所以なり)そは自からを動物に顕はし、小微粒子と小穂状とより、幾多の変形を経て、均斉を得たる最高の生物に達し、更に衝動若くは飛躍を為す事なくして完全なる結果に到達す。

(『エマーソン論文集 下巻』pp.286-287)

 エマーソンの著書は、賢治が盛岡中学3年の頃に読みふけっていたという寮の同室者の証言もあることから、これが賢治が“Natura Naturans”という言葉を知るきっかけになった可能性も、非常に高いのではないでしょうか。中でも、上記の最後の方の「(Natura Naturans は)自からを動物に顕はし、小微粒子と小穂状とより、幾多の変形を経て、均斉を得たる最高の生物に達し……」という箇所などは、「Natura Naturans が小さな虫の姿となって顕現している」という、「蠕虫舞手アンネリダタンツェーリン」の発想にも、ぴったりとつながります。

 ということで、辻潤という希有な感性を持った人は、『春と修羅』を一読して作者賢治の非凡な才能を感じとり、また“Natura Naturans”という言葉を介しても、二人は響き合っていたのではないかと思われるのです。
 辻潤のような直観力の優れた人は、物事の先行きがあまりにも「見えすぎる」ので、一つの道をコツコツ粘り強く究めていくのはもどかしく、それにまたいろんなことができてしまうので、周囲からは「マルチ人間」と見えるのかもしれません。
 辻ほどではないにしても、宮沢賢治もまた、少し似た傾向があった人のように思えます。

 ところで、辻潤が「惰眠洞妄語」や『改造』で『春と修羅』を評価した後も、相変わらず賢治は花巻で一教師を続け、自ら中央の詩壇に関わることはありませんでした。
 その賢治の作品が、次に中央の出版物に掲載されたのは、辻が中心となって創刊した雑誌『虚無思想研究』誌上であり、約1年半後のことでした。1925年12月発行の第1巻6号に「冬(幻聴)」が、1926年2月発行の第2巻2号に「心象スケツチ朝餐」が載ったのです。

 きっと辻潤は、賢治の才能のきらめきを忘れずにいて、作品の寄稿を依頼したのではないでしょうか。

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「風よ あらしよ 劇場版」予告篇より