賢治は1931年(昭和6年)9月に東北砕石工場の業務で東京に出張し、到着するや否や高熱を出して倒れてしまいました。
下記はこの出張中の経過を、『新校本全集』第16巻(下)年譜篇の記載から要約したものです。
9月19日 | 朝6時32分花巻発の東北本線上り列車に乗り、9時31分に小牛田に到着。小牛田肥料会社と斎藤報恩農業館を訪問。13時45分発列車で小牛田を発ち、仙台にて宮城県庁農務課と古本屋を訪ね、市内で宿泊。 |
9月20日 | 4時仙台発の上り列車に乗り、ぐっすり眠っていると、窓を開けたまま降りた人があり、風が吹き込んで寒さで目覚めた。午後上野駅に着き、神田区駿河台の旅館「八幡館」に投宿した。その後、吉祥寺の菊池武雄を訪ねたが留守で、隣家の深沢紅子に浮世絵の和本とレコードを預け、旅館に戻った。この夜、烈しく発熱。 |
9月21日 | 高熱が続いているが、鈴木東蔵には営業活動に回っていると書き送る。死を覚悟して、父母あての遺書と弟妹あての別れの言葉を書く。旅館から菊池武雄に連絡があったため、菊池は午後3時に職場を出て八幡館を訪問した。賢治は部屋で赤い顔をして寝ており、菊池が家に知らせようと言うと、断固として拒否した。 |
9月23~24日頃 | 菊池武雄は、花巻に帰りたくないと言う賢治のために、吉祥寺に小さな貸間を探して、八幡館の賢治に報告に行った。しかし賢治は「それほどご厚意をいただくほどあなたと深い関係じゃない」と言って断ったため、菊池はムッとしたという。また時期ははっきりしないが、手帳に「廿八日迄ニ熱退ケバ……」のメモを記入。 |
9月25~26日頃 | 鈴木東蔵あて書簡で、東京で発熱して寝込んでいることを初めて伝えるとともに、家には決して知らせないようにと念を押した。おそらく26日に、八幡館で医師の往診を受け、家に帰って治療を受けるよう勧められた。 |
9月27日 | 昼頃に花巻の自宅に電話し、「もう私も終りと思いますので最後にお父さんの御声を……」と言った。驚いた父は花巻に戻るよう強く指示するとともに、小林六太郎に電話して、寝台車を予約し賢治を乗せるよう依頼。夜10時30分、小林に送られて上野発の列車に乗車。 |
9月28日 | 朝10時27分花巻駅に着き、清六が迎える。自宅で直ちに病床に臥す。 |
賢治は結局、東京の旅館「八幡館」に、9月20日から27日までの7泊8日にわたって滞在したのですが、本日考えてみたい問題は、「これほどの重体になりながら、なぜ賢治はすぐに花巻に帰らなかったのか」ということです。
賢治は1928~1929年頃にも、結核性の肺炎で重篤な状態になり、一時は命も危ぶまれました。今回また高熱を出して、たった一人で東京で寝ているだけでは、再び同様の状態に陥りかねません。看病してもらえる家族がいて、かかりつけの医者もいる花巻に、できれば一日でも早く戻ってほしいところです。
1.詳しい経過
「なぜ賢治はすぐに帰らなかったのか」、その理由を考えるために、この時の東京滞在中の状況を、もう少し細かく見てみます。
まず、9月20日の夜の賢治の様子について、旅館で働いていた新藤ふさという女性は、次のように語ったということです。
「その人、たいへんな熱で、汗をだらだらかきましたつけね。ワタシア、何度も、ねまきをとりかえましたヨ、ユカタの──、一日に何度かね、わかりませんヨ、かえるそばから汗で──」(『新校本全集』年譜篇p.467)
旅館の仲居さんが、夜中にもまるで看護師さんのように、献身的に世話をしてくれたようです。
このような一夜を過ごし、翌9月21日に東北砕石工場の鈴木東蔵に出した手紙(書簡392)には、次のようにあります。
拝啓 昨日午后当地に着、早速諸店巡訪致し候へ共未だ確たる見込に接せず候。何分の不景気には候へ共、充分堅実に注文を求め申すべく茲三四日の成績を何卒お待ち願上候〔以下略〕
「早速諸店巡訪致し候」と書かれていますが、東京で店を回ったとすれば、前日20日の午後に、旅館から吉祥寺まで往復する途中で寄ったくらいしか考えられません。しかし『新校本全集』年譜篇では、「それなら車代がもっと計上される筈である」ことから、「諸店巡訪は無理な状態であったろう」と推定し、これは事実ではないとの見方を示しています(p.466)。病気を隠すための方便として書いたのでしょうか。
次に、有名な9月21日付け遺書と、弟妹あての言葉です。
この一生どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。
どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。
九月廿一日賢治
父 上 様
母 上 様
たうたう一生何ひとつお役に立たずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。
どうかこの我儘者をお赦しください。賢治
清 六 様
し げ 様
主 計 様
く に 様
この二通の遺書は、投函されることはなく、賢治が花巻に帰ってからも家族に渡されることはありませんでしたが、賢治の死後に「雨ニモマケズ手帳」と一緒に、大トランクの蓋裏のポケットに入っているのが発見されました。「9月21日」という日付が、この2年後の実際の命日と同じであるところに、運命の不思議さが感じられます。
そしておそらく同じこの9月21日に、旅館の人が友人の菊池武雄に連絡したことから、菊池が八幡館に駆けつけました。旅館としても、重病人にそのまま寝込まれて何かあっては困るでしょうから、知人を呼んで何とかしてもらおうと、賢治につてを尋ねたのではないでしょうか。下記は『新校本全集』年譜篇の記述です。
この日と記憶する菊池武雄の談話によると、旅館から勤務先の四谷区四谷第六小学校へ電話があり、「宮沢さんという人が風邪で熱を出して寝ているのできてください」ということであった。菊池は午後三時すぎ学校を出、市電で神保町下車、主婦之友社うらの路地の商人宿をさがしだした。床の間もない殺風景な六畳間にぬれ手ぬぐいを額にのせ、赤い顔をして寝ており、菊池を見るとすぐ手ぬぐいをとり微笑した。ひどい熱だということなので、「花巻のおうちへしらせよう」というと強い口調で「いやそれは困ります。絶対帰りません。しらせないでください」というので菊池はあっけにとられた。「なあに風邪です。すぐよくなります」という。そして「よくなったら、ここから墨染の衣をきて托鉢でもしてまわりますよ」という。また和本やレコードのことを「形見みたいなものだ」ともいう。(p.468)
やはり重要なところは、花巻には「絶対帰りません。しらせないでください」と強く言明しているところで、これが「なぜすぐ帰ろうとしなかったのか」という本日の問題につながります。彼はどうしてこのように頑ななのでしょうか。
9月23日には、病気を知らない鈴木東蔵から手紙が届き、大阪までの出張が無理なら名古屋までは行ってほしい、西ヶ原農事試験場の場長のところも訪問しておいてほしいという、仕事の依頼がきています。
そして9月23~24日頃には、親切な菊池武雄がまた八幡館を訪れ、次のようなやりとりがあったということです。
一方菊池武雄は賢治のことばを考え、花巻へ帰りたくない、東京で療養し、暮らしたいのだろうと判断、自分の住む吉祥寺界隈ならば武蔵野の風情も濃く、空気もよし、療養にもってこいと夫婦ともども相談、手ごろな小さな貸家をさがしまわり、その報告をもって再度八幡館を訪れた(二一日から二、三日後との菊池の記憶)。賢治は相変わらず赤い顔をして寝ており、健康で病気知らずの菊池には赤い顔ならさほど悪いとは思えず、手ごろな家が見つかったとしらせた。すると賢治は「菊池さん、そんなにわたしのことを心配してくれなくてけっこうです。第一それほどご厚意をいただくほどあなたと深い関係じゃないのですから」と言った。菊池は一瞬ムッとした。花巻へは絶対帰りません、と聞いたからせっかく探したのである。(年譜篇p.469)
菊池ならずとも、賢治がいったい何を考え、どうしたかったのか、理解に苦しむところです。
そしておそらくこの少し後の時期ではないかと思うのですが、賢治は「兄妹像手帳」に、自らの今後の身の振り方についての方針を、下のようにメモしています。
これを横書きでテキスト化すると、下記のとおりです。
廿八日迄ニ熱退ケバ
病ヲ報ズルナク 帰 郷
退カザレバ費ヲ得テ
(1) 一月間養病
(2) 費ヲ得ズバ
走セテ帰郷
次生ノ計画ヲ
ナス。
すなわち、もしも9月28日までに熱が引いたら、病気のことは伏せたまま帰郷する。
もしそれまでに熱が引かなかったら、(1)金が工面できたら1か月間(東京で)療養する。(2)金が工面できなかったら急いで帰郷し、次生の計画を立てる、というわけです。
「9月28日」を判断の分岐点にしているのは、「恐らく持参した旅費の関係」だろうというのが『新校本全集』年譜の見方で、実際(1)(2)の分岐も、金の工面ができるか否かにかかっています。9月21日に菊池に「托鉢でもしてまわりますよ」と言ったのも、別に酔狂ではなくて、そうでもして金の都合を付けないと、長く東京滞在ができなかったからでしょう。この時の闘病は、時間と金との戦いでもあったようです。
ここでも注目しておくべきは、もしも熱が引いたら、病気のことは伏せたまま帰郷する、としている点です。やはり病気を秘密にすることに、とにかく賢治はこだわっているのです。
しかしこの方針に少し変化が起こるのは、9月25~26日に鈴木東蔵にあてた書簡395です。
実は申すも恥しき次第乍ら当地着廿日夜烈しく発熱致し今日今日と思ひて三十九度を最高に三十七度四分を最低とし八度台の熱も三日にて屡々昏迷致し候へ共心配を掛け度くなき為家へも報ぜず貴方へも申し上げず居り只只体温器を相手にこの数日を送りし次第に有之今后の経過は一寸予期付き難く候へ共当地には友人も有之候間数日中稍々熱納まるを待ちてどこかのあばらやにてもはいり運を天に任せて結果を見るべく恢復さへ致さば必ず外交も致し或は易にありし様十一月頃は多分の注文を得るやも知れず小生のことはどうせ幾度死したる身体に候間これ以上のご心配はご無用に、且つ決して宅へはご報無之様願上候
ここでは従来の態度をやや軟化させて、初めて鈴木東蔵に病気のことを知らせるのですが、「申すも恥しき次第乍ら……」という言葉が目を引きます。賢治は自分の病に対して、相当の「恥の意識」を抱いている様子なのです。そして、自宅の方には、「且つ決して宅へはご報無之様願上候」と、やはり絶対に知らせないようにと釘を刺しています。
「どこかのあばらやにてもはいり……」と書いているのは、上の手帳に記した方針メモの、「(1)一月養病」という部分に該当しそうですし、さらに9月23~24日に菊池武雄が提案してくれた、「小さな貸家」を借りるという方法にも沿っています。
ここで、菊池から貸家を提案されたことと、手帳に「費ヲ得テ/一月養病」と方針をメモしたことと、どちらが時間的に先だったのかと考えてみると、もしもすでに1か月療養という方向性を考えていたところに、菊池が吉祥寺の貸家の物件を教えてくれたのなら、まさに渡りに船ですから、あれほど無碍に断らなかったのではないかと思います。したがって菊池の提案の時点では、まだ貸家のことは賢治にとって想定外だったのではないかと推測します。
また9月21日までさかのぼると、菊池に「ここから」托鉢でもしてまわると言っているので、賢治は当初は旅館から出て部屋を借りるとは考えていなかったところ、菊池の提案を聞いてあらためて考えてみると、1か月も滞在するなら旅館の連泊よりも貸家の方がはるかに安いことに、思い至ったのではないでしょうか。
また、手帳メモでは、もしも9月28日までに熱が引けば病気のことは伏せて行動することにしていたのに、9月25~26日の鈴木東蔵あての書簡395で病気のことを知らせているのは、手帳に記した当初の方針を転換したことになります。鈴木に告げた後に、手帳に「病ヲ報ズルナク」という方針を書くことはありえませんので、手帳メモの方が書簡395よりも、時間的に先だったということになります。
以上から、賢治が手帳に「廿八日迄ニ熱退ケバ……」の方針メモを書いた時期を推測してみると、それは9月23~24日の菊池の訪問よりは後で、25~26日の鈴木東蔵あて書簡395を書いたよりは前だったのではないでしょうか。
そしておそらく9月26日には、八幡館で医師の往診を受けたことが、八幡館から鈴木東蔵あての書簡から推測されています。賢治の様子から考えると、自分から希望して受けたというよりも、旅館側が見るに見かねて手配したのではないかと想像します。医師からは、花巻の家に帰って治療を受けるよう勧められたということで、当然のアドバイスかと思われます。
そしてついに、9月27日の昼頃、賢治は旅館から花巻の自宅に電話をかけ、「もう私も終りと思いますので最後にお父さんの御声を……」と言ったのです。当然ながら父政次郎は、すぐに帰って来るように厳命し、昔からの友人の小林六太郎に依頼して寝台車の手配をしてもらいました。小林夫人の美代子氏は後に、「……花巻からの電話で、主人と下宿先にいきました。ひどい熱でたいへん衰弱していました。花巻に帰る時は、私も上野まで送りましたが、賢さんは、ほんとうにかわいそうでしたよ……」と語ったということです(年譜p.471)。
この時賢治が、帰ってこいという父の指示に素直に従ったのか、多少はごねたのかはわかりませんが、もうこの時点では、手帳の方針メモにある「廿八日迄ニ熱退ケバ」が実質的に不可能と判断され、かつこの時までに金の工面もできていませんでしたから、フローチャートに従うと「(2) 費ヲ得ズバ」の方の選択肢となり、すなわち「走セテ帰郷」という行動を取ったのだろうと解釈できます。賢治としては、手帳に記していた方針のとおりに動いたとも言えます。
それにしても、父に電話をかけてから24時間後には、もう花巻の自宅で横になっていたというのは、文字どおり「走セテ帰郷」の早業で、これは父や小林氏の迅速な連係プレーのおかげです。
しかしこの間、発熱してすぐに帰郷した場合と比べると、ほぼ1週間が旅館の一室で費やされてしまったわけです。速やかに帰って治療に専念した方が体にはよいと、おそらく賢治も理屈ではわかっていたはずだと思うのですが、この問題が本日のテーマです。
2.帰郷が遅れた理由の推測
ここでは、賢治の帰郷が遅れた理由について、いろいろ仮説を立てて検討してみます。
(1) 回復を期待して待っているうちに長引いた
一つの可能性としては、当初賢治は病状をあまり深刻にとらえておらず、明日になれば良くなるのでは……などと思って様子を見ているうちに、予想外に病状が長引いて、帰郷が遅れてしまったということが考えられます。賢治自身、9月21日には菊池武雄に「なあに風邪です。すぐよくなります」と言っていて、もしも本気でこのように考えていたのなら、判断が遅れるということもありえるでしょう。
しかし、同じ9月21日に賢治は両親あての遺書と弟妹あての別れの手紙を書いており、また菊池武雄に渡した土産のことを、「形見みたいなものだ」と言っています。すなわち賢治は、自分の病状が深刻である可能性を、十分認識していたはずなのです。たとえ軽く済む可能性もあるにしても、少しでも重症化するおそれがあるのなら、大事を取って安全策を選び、治療を最優先に帰郷するのが本来は望ましい行動で、賢治もそのような判断力は持ち合わせていたはずです。
(2) 重症で動けなかったので遅れた
あまりに高熱が続いていると歩くのも大変で、重い荷物を持って駅へ行き、列車に12時間以上揺られるというのはかなりの負担です。無理をすると、病状を悪化させるおそれもあるでしょう。このように、病状の重さのために帰郷が困難だったので、遅れてしまったという可能性も考えられます。
しかし、駅への移動には円タクを使えばよいわけですし、菊池夫妻や小林夫妻など、依頼すれば手伝ってくれる人は東京にもちゃんといます。列車は、小林氏がしてくれたように寝台車を取れば、問題はないはずです。
つまり、病状が理由で帰郷が1週間も遅くなったという可能性も、ちょっと考えられません。
(3) 今回の東京出張が命を懸けるほど重要と考えていた
賢治は、「自分の命を投げ出してでも、他の生き物のために尽くす」という行為を尊び、そのような自己犠牲的な話を多くの作品で描きましたし、自らもそういう考えで生きていたと思われます。
今回の東京出張で、もしも賢治がすぐに帰郷してしまうと、東京で予定していた東北砕石工場の仕事は何もこなせず、会社にとってはマイナスの影響があるでしょう。そこで賢治は、仕事をせず帰郷して会社に迷惑をかけるよりは、無理にでも東京に留まって仕事を進め、たとえそれで自分の命が縮まってもかまわないと考えて、花巻に帰ろうとしなかったのかもしれません。
これはまるで「グスコーブドリの伝記」のような話ですが、ブドリの行動でたくさんの人々の命が救われた物語とは異なって、この時の東北砕石工場の用件が、一人の人間の命を懸けるべき内容のものだったとまでは思えません。この時まで工場の経営はかなり苦しく、化粧石材の販路が東京で開拓できれば一定のプラスにはなるでしょうが、人の命に関わるほどの違いがもたらされるわけではありません。
したがって、賢治がこの時の仕事に命を懸けていて、それで死んでもよいと思っていたから帰郷しなかったのだ、という理由でもなさそうです。
(4) 仕事のためでもなくただ自ら死のうとした
おそらく賢治は子供の頃から、人の痛みに対する鋭敏な感受性や共感性とともに、自分の家が貧しい農民から搾り取った金利で生活していることに、深い罪悪感を抱いていた節があります。このような負い目の意識を、見田宗介氏は〈存在の原罪〉と呼び、それを浄化するためには、自らの存在を焼き尽くさなければならないという〈焼身幻想〉を持つに至ったと、論じておられます(見田宗介『宮沢賢治―存在の祭の中へ』)。
このような心性は、自己犠牲を扱う彼の物語の中に織り込まれるだけでなく、独居自炊生活における極端な粗食・過労や、まだ体調万全ではないままに東北砕石工場技師として無理を重ねるなど、自己破壊的とも思える生活に自らを追い込んだ生き方の底流にも、潜在していたような気がします。今回の東京出張においても、自分の病気の治療をおろそかにするような行動をとってしまった背景には、このような「自分はいつ死んでもよい」という自棄的な衝動が働いているのだと、考えることもできるでしょう。鈴木東蔵あて書簡395にも、「小生のことはどうせ幾度死したる身体に候間これ以上のご心配はご無用」などという言葉を書いています。
たしかに賢治の心の奥に、こういった自分を省みない心性があるのは否めませんし、今回の東京での行動で、菊池武雄に対する対応などを見ても、どこか自棄的な、投げやりな感じも受けてしまいます。
しかし、なかなか東京から花巻に帰ろうとしなかった主な理由が、自ら死のうとしていたからだ、とまでは言えないでしょう。前述の手帳メモを見ても、八幡館で病臥していた賢治の願いは、そこでそのまま死ぬことではなく、熱が引いて何事もなかったかのように花巻に帰れることが、何より最優先だったと思われます。その目的のために、旅館の仲居さんの世話を素直に受け、無理はせぬよう安静を保ち、医師の往診を受けるなど、東京でできる範囲ではなるべく養生を心がけていたのであって、何も意図的に病気をこじらせるようなことをしていたわけではありません。
(5) 親に心配をかけたくなかったから
この「親に心配をかけたくない」という心理は、実際に賢治の中にはかなり強くあったのだろうと思います。
菊池武雄が9月21日に「花巻のおうちへしらせよう」と言った際にも、「いやそれは困ります。絶対帰りません。しらせないでください」と強く断っていますし、9月25~26日頃の鈴木東蔵あて書簡では、鈴木に病気のことを告白した後でも、「決して宅へはご報無之様願上候」と念を押し、とにかく家族に知られることを警戒している様子です。「兄妹像手帳」に書いた今後の方針メモにも、まず冒頭に「廿八日迄ニ熱退ケバ/病ヲ報ズルナク帰郷」とあり、「病ヲ報ズルナク」ということが、何より重要視されているように見えます。
賢治は子供の頃から、病気のことではいろいろ親に心配をかけてきました。自分を看病した父までもが病を得たことは、ずっと父への負い目にもなっていたようです。また賢治が今回の東京出張に出る直前まで、「母イチは体を心配してやめるよう説得するがきかない」(年譜p.464)という状況だった経緯があり、結局このような結果になってしまっては、「あれほど言ったのに」と両親から注意されるのは、目に見えています。2年あまりの深刻な闘病生活から、この年やっと抜け出して両親も安堵したところなのに、また高熱で臥せってしまっては、父母の落胆も相当なものでしょう。
ですから賢治がこの時、自分がまた病気になってしまったことを、できれば両親に知らせたくないと痛切に思っていたのは、確かなことだろうと思います。
ただしかし、いくら親に知らせたくないと言っても、隠し続けることで病状を悪化させたり、命まで危うくしたりするようなことまで、賢治が意図的に行うとは思えません。たとえ隠していても、いずれは明らかになることですし、その時にはお互いにもっと辛い思いをするのだということは、賢治も十分わかっていたはずです。
ということで、いろいろ考えてみた(1)から(5)までの仮説は、賢治がすぐに花巻に帰らなかった理由としては、どれも不適切あるいは不十分なように思われます。
※
……などと書き連ねているうちに、今日は相当長くなってしまいましたので、現時点で私が考えている理由(6)については、また次回にまわしたいと思います。
賢治も、こんな状態になってしまったからには、一刻も早く親に知らせて家に帰った方がよいのだと、頭ではわかっていたはずなのです。それなのに、何かの葛藤を抱えつつ、どうしても親には言えず、帰ることもできないままに、八幡館の殺風景な六畳間で寝込んでしまい、はや1週間が経ってしまったのです。
賢治のその葛藤の中身について、皆さんでしたらどのように推測されるでしょうか。
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