「北鴎碑林」の賢治詩碑

 金子鴎亭(1906-2001)という、近現代日本を代表する書家がおられました。
 鴎亭は、北海道松前町に生まれ、函館師範学校を卒業後、1932年に上京して「現代書道の父」と呼ばれた比田井天来に師事しつつ、従来の日本の書を革新すべく「新調和体論」を唱え、「近代詩文書運動」を興します。
 鴎亭が1936年に著した『書之理論及指導法』では、次のように訴えかけています。

過去及び現代の書道界は漢詩句をあまりにも偶像視した。これでなければ書の素材とならぬかの如く考へた者が多いが偏見も甚しいもので大いに排撃しなければならない。今後の日本書道界はその表現の素材として、我等日常の生活と密接の関係にある口語文・自由詩・短歌・短誦・翻訳詩等をとるも差支はない。古典を望むならば我国の古典を採るべきで、源氏物語・枕草子・万葉集・徒然草皆書の素材として恰好のもののみである。異国趣味の清算は時代の意欲である。書そのものを現代のものとすると同時にその素材をも亦現代の希求する国語となすべきである。
〔中略〕
打てば響を生じ、切れば鮮血の迸しり出る切実なる魂の叫び、印象的な夢幻の情緒、スピードに加ふるにスピードを以てする尖鋭化された都会人の感覚、自由闊達な明朗感、活発なる活動性、極りない変化と統一とをもつた律動、或は人生の裏面をも深刻に眺めようとする北方人の憂鬱、或は甘美に而も情熱的な南国風等。この様な多角的近代人の感覚や、情緒的傾向、感情を内包さしてこそ始めて国語による新素材を盛るに適した書となり、時代人の心奥と相ふれる普遍性をもつ事となる。斯くしてこそ明日の書道界が明るく、若き人々の為に洋々たる前途が展開し、観者には清新な香と響が齎らされる。(『書之理論及指導法』pp.192-193)

 30歳の青年による、まさに「切れば鮮血の迸しり出る」ような文章だと思いますが、それまでの正統的な書道では漢詩や漢文ばかりを取り上げていたのに対して、鴎亭は日本の近現代の詩文を題材として、上記の後半に書かれているような現代人の感覚をこそ、表現すべきであると提唱したのです。
 このようにして鴎亭は、日本の書道界を改革してそれを長く牽引し、1967年の日本芸術院賞、1987年の文化功労者に続き、1990年には文化勲章も受章しました。

 金子鴎亭の出身地である北海道松前町は、1990年に名誉町民の称号を贈り、1994年には銅像建立、2008年には鴎亭の書による石碑13基と門人たちによる石碑71基を集めた「金子鴎亭記念 北鴎碑林」を建設しました。この碑林には、2013年にさらに石碑36基が追加され、現在は総計120基を有する日本最大級の碑群となっています。

 この「北鴎碑林」の中に、宮澤賢治の詩碑もあると聞きましたので、先日の連休後半に、松前町に行って来ました。

20230521m.jpg まず5月3日に函館まで飛行機で行き、夜は函館駅前で塩ラーメンをいただきました(右写真)。
 翌4日朝は、7時前に五稜郭駅から第三セクターの「道南いさりび鉄道」に乗りました。約1時間で終点の木古内駅に着いて、ここでバスに乗り換え、さらに1時間半ほど揺られると、目的地の松前町です。

 松前は、北海道唯一の城下町で、この連休は桜の開花時期にも当たっていました。下写真が、松前城です。

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 町の西部を、松前藩屋敷を目ざして北に向かいます。

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 すると左手に、「松前藩屋敷」という一種のテーマパーク?があります。

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 今回は藩屋敷の中には入らず、横を通り抜けてさらに北に進むと、「北鴎碑林」に到着します。

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 中央の銅像が、金子鴎亭氏です。その両側に、鴎亭の書による石碑が並んでいます。

 「北鴎碑林」には、下の配置図のように、120基の石碑が建てられています。まさに「碑の林」と呼ぶにふさわしく、碑石が林立しているのです。

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 さてこの中に、一つは賢治の「早池峰山巓」の碑があります。

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 中田大雪という方の書で、下のように刻まれています。

早池峰山巓
山巓の岩組を 雲がきれぎれ叫んで飛べば
露はひかってこぼれ釣鐘人蔘のいちいちの鐘もふるえる
                    大雪

 題字は、早池峰山のごつごつとした岩肌を感じさせるような、力強い書です。
 「山巓の岩組を雲がきれぎれ叫んで飛ぶ」という壮大な絶景と、「釣鐘人参ブリューベルのいちいちの鐘もふるえる」というミクロで繊細な観察とを、一望のもとに把握するのが賢治のこの一節の真骨頂だと思いますが、碑の文字の大と小、剛と柔の対照にも、そんな趣があります。

 もう一つの賢治詩碑は、「林と思想」より、「ふきの花でいつぱいだ」です。

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ふき
の花
でいつ
ぱいだ

 賢治の詩 緑巣

 これを書かれた我妻緑巣という方は、『我妻緑巣の書業 1991-2004 宮澤賢治をたずねて』というご本も出しておられるようで、おそらく賢治について造詣が深くていらっしゃるのだと思いますが、どのような思いで「林と思想」のこの箇所を選んで書かれたのだろうかと、興味深く感じます。
 この一節だけを取り出すと、特に賢治らしい独自の詩句というわけではありませんし、同じ作品の中ならこの直前の、「あすこのとこへ/わたしのかんがへが/ずゐぶんはやく流れて行つて/みんな/溶け込んでゐるのだよ」の方が、ずっと魅惑的です。
 一方この「ふきの花でいつぱいだ」の箇所は、そういう幻想の世界からふと現実に戻ったような、生々しくも懐かしいような手ざわりがあります。

 この書にも、そのような身近に迫ってくるような、実体感がありました。

 以上、金子鴎亭氏が「近代詩文書運動」によって、近現代の詩文を本格的な書にするという運動を興してくれたおかげで、この「北鴎碑林」には、賢治の他にもたくさんの詩歌を素晴らしい書によって刻んだ厖大な碑群が並んでいます。

 一般に文学碑というのは、活字体のものも含めて、様々な書体で彫られているものですが、ここにある碑はどれも、文字の姿が深い芸術的な佇まいを見せています。
 そしてまたその文字の彫り方にも、独特の雰囲気があります。こちらのページの説明によれば、通常の日本の石碑は機械彫りで、文字の底部は丸く断面はU字形になっているのに対し、この「北鴎碑林」の碑は、文字の底部がV字形になる「薬研彫り」という方法で彫られているのだということです。上の碑では、たとえば「早池峰山巓」の文字などに、その「V字形」という感じが見てとれます。
 現代の日本には、このような手彫りの石彫ができる職人は少なく、もしも国内で製作すると莫大な費用がかかってしまうため、この「北鴎碑林」の碑は、全て中国に特注し、2年半の歳月をかけて彫られたものだということです。
 そういう意味でも、ここはなかなか他では見られない、見事な石碑を観賞できる場所なのです。

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 「北鴎碑林」を後にすると、昼ご飯は国道沿いの道の駅にある「うみかぜ食堂」で、名物の「本鮪丼」を食べようかと思っていたのですが、連休とあって駐車場は車であふれ返り、食堂にも長蛇の列ができていました。残念ながら本鮪丼はあきらめて、売店で松前漬などを買い、店の前からまたバスに乗りました。

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 帰途は、木古内駅から北海道新幹線→東北新幹線に乗り、盛岡まで1時間半ほどで着きました。

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 それにしても、こんな辺境の場所から海底をくぐって、たった二駅で直接盛岡に行けてしまうというのが、何となく不思議な感じでした。
 盛岡で見た詩碑については、また次回にご報告します。

 また本日、「石碑」のコーナーに、「早池峰山巓」詩碑「林と思想」詩碑をアップしました。これで当サイトに掲載している賢治の文学碑は、計162基になりました。