盛岡松園寺碑群
1.テキスト
野をはる
紫波の城の 二本の杉
かゞやきて 黄ばめるものは
そが上に 麦熟すらし
宮沢賢治詩 丘 の一節より
森の上のこの神楽殿いそがしくのぼり立てば
かくこうはめぐりてどよみ松の風頬を吹くなり
宮沢賢治
うらゝかに野を過ぎり行くかの雲
きみがべにありなんものを
宮沢賢治
雨ニモマケズ風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
宮沢賢治
せ
花散りはてし盛岡を
めぐる山々雪は降りつゝ
賢治
2.出典
「丘」より(文語詩未定稿)
「〔雨ニモマケズ〕」より(補遺詩篇Ⅱ)
歌稿〔A〕485
3.建立/除幕日
不明
4.所在地
盛岡市上米内松木平78-57 松園寺
5.碑について
盛岡市の北東郊外にある曹洞宗の松園寺は、昭和62年落慶という比較的新しい寺院ですが、ここには「盛岡大仏」と呼ばれる、奈良の大仏に匹敵する大きさの青銅製の阿弥陀如来像が鎮座しています。訪れる人も少ない山あいのお寺に、驚くような立派さです。
この大仏は、松園寺を創建した樋下建設株式会社社長の樋下正光氏が、幼い頃に母を亡くされたことから、母親への思慕と冥福への祈りを込めて、建立したのだということです。
またこの松園寺のもう一つの特徴は、寺院の周囲や境内のあちこちに、厖大な句碑・歌碑・詩碑が建ち並んでいることです。寺の説明によれば、その数は「五百基に及ぶ」ということで、全てを見てまわるのもなかなか大変な量です。
碑の多くは、厚さ5cmほどの花崗岩の石板に、黒い塗料で文字を書いて、そのまま地面に挿して立てたものです。その様子は、たとえば下の写真のような感じで、両側に延々と碑が続く坂を登っていくと、何か異界に続く道を歩いているような気さえしてきます。
碑の中には、「正光」との署名の入った句碑も数多くあることから、これらの厖大な碑群は、樋下正光氏が思いの向くままに揮毫しては、どんどん建てて行かれたものかと思われます。
この碑の中に、賢治の詩および短歌を記したものも含まれていますので、それらの写真を冒頭に掲げました。
文語詩「丘」によるものが3基と、「〔雨ニモマケズ〕」、それから歌稿〔A〕485の「せはしくも花散りはてし盛岡をめぐる山々雪は降りつゝ」の歌碑です。
文語詩「丘」による碑が3つもあるのは、樋下氏の好みの反映なのでしょうか。樋下氏が書いた下記の文章を読むと、この「松園の丘」という場所への強い思いが溢れていることから、賢治の「丘」にも思い入れがあったのかもしれません。「せはしくも花散りはてし盛岡をめぐる山々雪は降りつゝ」に関しても、「盛岡をめぐる山々」という箇所に、やはりこの丘とのつながりを感じます。
下に、樋下正光氏がこの寺と大仏に込めた思いを綴った文章を、掲載させていただきます。
盛岡市 樋下正光
幼き 日両親 亡く育ち
太田橋を手をつなぎ歩く子等 を見るたび
いつも羨ま しいと思っていた
成人し大橋を 建立し
松園寺の丘に亡き両親 を祀り大仏を 建立したいと念願していた
それは少年 の日の夢であった
夕陽の輝く丘に大仏建立が実現し
県都の栄えるを見守り
しあわせを願って見下ろす大仏は
さ迷える緑墓地を祀り僧 の心で人々に尽して
生きたいと思い
亡き両親 の墓に祈る時魂 の鎮もるを祈り
県都の夜の灯 にいつまでも
大仏が見下ろし
人々のしあわせを祈り建立した瑠璃 空にうかぶ大仏 は
私の生涯の心の灯であった社会 の人々のしあわせは
とこしえに大仏 が見守り
祈り続け輝け松園寺 の丘よ魂 を祈り夕映えの丘に立つ時
このゆるがぬ大仏の沙羅 の花咲く丘
亡き人々の無縁 の魂よ
御仏の前に生きたいと思う
輝け松園寺の丘よ
大仏に祈り鐘撞 き堂の鳴りわたり少年 の日のエピソードは
走馬灯のようにめぐるのである
日々心の生きる道標 になりたいと思う
安らけく眠る魂よ野花 の野辺 の萩の花よ
いつまでも咲くを祈り風よ 、魂の 祈り星よ 輝くを祈り 松園よ輝け……