狐の笑みと彼岸的救済

 「よだかの星」のよだかの最期の表情と、「土神ときつね」の狐の最期の表情は、何となく似ているように思います。

ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。(「よだかの星」)

そのなみだは雨のやうに狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったやうになって死んで居たのです。(「土神ときつね」)

 よだかはくちばしを曲げて、狐は首を曲げて、そしてよだかは「少しわらって居り」、狐は「笑ったやうになって」いたのです。

 二つのお話に共通する、この死に顔の「笑み」の意味は、いったい何なのでしょうか。

 まず「土神ときつね」に関しては、以前に「諂曲なるは修羅」という記事において考えてみました。このお話に登場する土神と狐は、対照的なようでいて両者がそれぞれに賢治の分身であり、土神は「修羅の闘諍的側面」を、狐は「修羅の諂曲的側面」を象徴する存在なのではないかと、私には思われました。
 すなわち、ある時期の賢治は詩「春と修羅」に記しているように、「おれはひとりの修羅なのだ」と自覚していたのでしょうが、仏教において(とりわけ日蓮の考えによると)「修羅」の属性には、攻撃的で相手と闘い争おうとする「闘諍」的な側面と、相手に媚びへつらい自分を曲げてでも取り入ろうとする「諂曲」的な側面が、あるとされています。賢治は、同僚の堀籠文之進に対する己れの態度にこの二つの面を自覚し、その認識を「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」に記したのではないかと考えたのです。

 「土神ときつね」のストーリーにおいては、土神も狐も、それぞれが代表している上記のような二つの修羅的属性を、自分ではどうにも制御することができず、幕切れへ向けてそれらを加速度的に露呈しながら、突き進んでいきます。
 土神は、樺の木のことを恋しく思いながらも、粗暴な振る舞いで彼女を怖がらせてばかりで、むしゃくしゃすると何の落ち度もない木樵をいじめたりしていました。そして終盤、狐に対する怒りの感情は爆発的にエスカレートし、遂には相手を殺してしまうのです。
 狐は、樺の木に取り入ろうと巧みな弁舌を振るいますが、その口から次から次へと嘘があふれ出すのを、止めることができません。自分の「研究室兼用」の書斎には、「日本語と英語と独乙語の(美学書)なら大抵あります」と言ったり、「あっちの隅には顕微鏡こっちにはロンドンタイムス、大理石のシィザアがころがったり……」などと自慢していますが、本当は彼の住む穴は、「がらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかり」なのです。最後には、ありもしないツァイスの望遠鏡を樺の木に見せると約束してしまって自らを窮地に追い込み、「もうおしまひだ、もうおしまひだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」と焦燥に駆られて逃げ出します。

 そんな狐の表情が、最後の場面で「笑ったやうになって」いたことから私が感じるのは、かくも逃れられない己れの宿業から、やっとのことで解放されたという、一種の安堵感のようなものです。たとえ彼が殺されずにすんで、望遠鏡は修理に出したとか樺の木にはまた嘘をついてごまかしたとしても、自分は生きているかぎり相手に媚びへつらい嘘を重ねてしまうのだ、その「諂曲」という習性からは逃れられないのだということを、彼は身に沁みてわかっていたのでしょう。
 狐が背負っていた(諂曲的)修羅性から救われるには、死ぬ以外に道はなかったということになります。

 ところで、「土神が狐を殺した」という出来事は、形としてはもちろん他殺事件ですが、先に見たように実は土神も狐も、それぞれ賢治の中の一面を象徴する存在であり、賢治にとってはどちらの修羅も、己れの中の一部分だったのです。
 だとすれば、別の見方をすればこれは他殺ではなくて、「自分が自分を殺した」という自殺でもあった、ということになります。

 一方、こちらは確かに自殺を遂げた、「よだかの星」のよだかはどうでしょうか。

 よだかは、鷹という強い鳥から一方的に理不尽な形で改名を迫られ、言うとおりにしないと殺すとまで脅されても、なすすべのない弱い存在です。
 しかしこのよだかを、「修羅」の象徴として理解することも可能です。たとえば下記は、梅原猛氏の『地獄の思想』の一節です。

 私はこの『よだかの星』という童話は、近代日本文学が生みえたもっとも美しい、もっとも深い、もっとも高い精神の表現ではないかと思う。
 すべての生きとし生けるものの世界は殺し合いの世界、修羅の世界である。甲虫や羽虫がよだかに殺される。よだかもまた鷹にたったひとつしかない命をうばわれようとしている。それが賢治の現実の世界にたいする根本直観である。賢治は、くりかえしくりかえし、こういう修羅の世界をテーマにして童話をつくる。『なめとこ山の熊』は、熊との間に、憎悪より愛情をいだき合いながら、生活のために熊をとらざるをえなかった小十郎が、熊に殺されることによって救われる話である。『二十六夜』は、人間の子供のいたずらによって殺された、罪のないふくろうの子供の話である。ふくろうの世界にも仏道があり、菩薩がある。こういうふくろうの世界の菩薩心を背後にしながら、残虐きわまりない人間の姿を賢治はみせる。『注文の多い料理店』は、動物を虐殺することを趣味とする鉄砲をかついだ英国紳士風の二人の東京人が、山のおくで山猫に食われようとする話である。ここで賢治は、殺し合いの文明に警告を発している。修羅のなかの修羅、殺人者のなかの殺人者、汝人間よ、やがて汝も食われ、殺されようとしているのではないかと。
 『よだかの星』は、こうした修羅の世界をテーマにした童話のなかでも、もっとも美しく、もっとも深く賢治の思想が表現されている童話である。(中公文庫『地獄の思想』P.223-224)

 つまり、一見するとよだかはいじめの被害に苦しむ弱者のようですが、実は毎晩たくさんの虫を殺す、修羅の一員でもあるのです。お話の大部分では、めそめそと泣いてばかりいるように見えても、最後に天空へと上っていく際には、「まるでたかが熊を襲ふときするやうに、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだて」、「キシキシキシキシキシッと高く高く叫び」、他の鳥たちを震え上がらせるような激しさも見せます。

 さらに萩原昌好氏は、玄奘作「大婆娑論」の阿修羅の説明に「非天、非端政、非同類(天部に属さず、姿形が端正でなく、天部に同類がいない)」とあることと「よだかの星」の描写を比較し、よだかの「みにくさ」がことさら強調されているのは「非端政」を象徴しており、仲間の鳥たちから嫌われ排斥されているところは「非同類」に該当すると、指摘しておられます(萩原昌好「『よだかの星』私見」,『国文学 解釈と鑑賞』1984年11月)。
 実は賢治は、よだかの設定や描写において、意図的に修羅性を際立たせているとも言えるのです。

 よだかが自ら空へ上って死んだ理由としては、これ以上虫たちを殺さないための「自己犠牲」だと解釈する向きもありますが、あまりにも死に急ぐその様子からは、この世界に絶望した結果という印象の方が、強く漂います。虫たちのために自分を犠牲にするのならば、何も苦労して天を目ざさなくても、食べることをやめて飢えて死んでも、鷹に殺されても同じなわけですが、ことさら「この地上を捨てて彼方に向かう」というところに、現世に対する深い絶望が感じられます。
 結局、修羅としてのよだかにとって、己れの修羅性から救われる道は、死んで「あちら側の世界」へ行くこと以外になかった、ということになるのかと思います。「土神ときつね」の狐が、やはり死によってやっと救われたこととの共通性が、ここに感じられるのです。

 ところで梅原猛氏は、上の二つ以外に修羅の世界をテーマとした童話として、「なめとこ山の熊」と「二十六夜」を挙げていますが、ここで各々の最後の場面を見てみましょう。

 思ひなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのやうにえして何か笑ってゐるやうにさへ見えたのだ。(「なめとこ山の熊」)

 ほんたうに穂吉はもう冷たくなって少し口をあき、かすかにわらったまゝ、息がなくなってゐました。(「二十六夜」)

 やはり、「なめとこ山の熊」の小十郎も、「二十六夜」の穂吉も、「何か笑ってゐるやうに」、「かすかにわらったまゝ」、死んでいたのです。

 「修羅」性をテーマにしたと思われる賢治の四つの童話のいずれにおいても、その最後の場面で死に行く者が「笑み」を浮かべているという事実は、あらためてこの「笑み」の持つ意味を、示唆してくれます。
 四つの修羅的な生き物は、いずれも最後に至ってやっとのことで、それまでの「業」から解き放たれと言えます。「二十六夜」で語られる説教の言葉で言えば、「悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る」という己れの宿命から、ここで初めて救い出されたのです。

 それぞれの死に顔に浮かんでいた「笑み」は、「救われた者」のみに許される、安息の印だったのでしょう。

 ところで「よだかの星」には、「厭離穢土・欣求浄土」という浄土教的な志向性が色濃くあるという指摘が、これまでも多くなされてきました。また「二十六夜」でも、梟の坊さんによって説かれるお経は、阿弥陀如来への信仰を下敷きにしているように思われますし、最後の場面で、穂吉のお迎えに「疾翔大力」が「爾迦夷」「波羅夷」を供に連れてやって来るところは、聖衆来迎における「阿弥陀如来」「観音菩薩」「勢至菩薩」の三尊を、彷彿させます。

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浄土寺木造阿弥陀如来及両脇侍立像(ウィキメディア・コモンズより)

 「死によって救われる」という彼岸救済的な考え方は、本質的に浄土信仰のものですが、すでに深く法華経に帰依していた賢治の心の深層から、時にこのような昔の信心が顔をのぞかせることもあったのかと、興味深く感じられます。

 さて、賢治が「土神ときつね」を書いたのは、草稿に用いられている用紙(「10 20」原稿用紙)等から、1922年後半~1923年夏頃までの間だろうと推測されるのですが、ここで彼が狐という(諂曲的)修羅の象徴に対して、最後に「死」という救済を与え、それを狐も笑みをもって受容しているということは、賢治の修羅観の変遷をたどる上で、重要なポイントではないかと思います。
 というのは、賢治はその次の時期に用いられた「丸善特製 二」原稿用紙上の草稿においては、「たっひとつのたましひと」一緒に行くことを否定し、「万象といっしょに至上福祉にいたらうとする」ことによって、己れの修羅性を克服するとの考えに至っているからです(「小岩井農場」詩集印刷用原稿など)。
 そしてこの方向性こそが、「娑婆即寂光土」を説き、彼岸ではなく此岸における救済を謳う、法華経的・日蓮的な考え方に合致するものでしょう。

 賢治が、「〈みちづれ〉希求」に由来する己れの修羅的な葛藤を、このように普遍的救済に向けて昇華しえたのは、やはり1923年の秋以降のことで、それは彼岸的救済に終わる「土神ときつね」の段階からすると、さらに大きな一つの前進だったのだと思われます。