お正月に、大谷栄一著『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』を読みました。
日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈 大谷 栄一 講談社 (2019/8/22) Amazonで詳しく見る |
600ページ以上もある大部な本ですが、明治時代の半ばから太平洋戦争突入に至る国家主義の勃興とその暴走のプロセスを、宗教思想の面から鮮やかに跡づける内容で、面白く一気に読み終えました。
印象に残る記述もいろいろありましたが、内村鑑三と田中智学という同じ年の生まれの二人の宗教者を挙げて、「「ふたつのJ(JesusとJapan)」を愛した内村にならえば、智学は「ふたつのN(NichirenとNippon)」のために生きた」と評した言葉は、言い得て妙だと思いました。
また、戦前~戦中日本の対外侵略のスローガンとされていた「八紘一宇」という言葉は、日本書紀の字句に基づいて田中智学が考え出したものと従来は言われていましたが、著者の最近の調査によれば、この言葉を最初に用いたのは、田中智学・本多日生とともに「日蓮主義の三大家」と呼ばれた清水梁山という宗教家だったということです。 田中智学による最初の用例は1913年(「神武天皇の建国」)であるのに対し、清水梁山は1910年に「日韓合邦と日蓮聖人」と題した講演およびその記録冊子において、「八紘一宇」という言葉を用いていたとのことです。
そして本書では、宮澤賢治とその宗教思想についても、9ページほどを費やして論じられています。著者大谷氏の賢治に関する見解は、次の箇所に要約されていると言えるでしょう。
では、賢治の日蓮主義的な法華信仰の特徴はどのようなものだったのだろうか。「日蓮聖人の国体観」と「予言」を中核とする石原(莞爾)の日蓮主義信仰にたいし、賢治の場合は「国土」を重視する。 (p.308)
大谷氏は、賢治が「この国土を常寂光土にする」という思想を重視していた根拠として、没年である1933年の年賀状に、「我此土安穏/天人常充満」という如来寿量品の自我偈を引用していることや、1918年の父親あて書簡44に、「或は更に国土を明るき世界とし印度に御経を送り奉ることも出来得べくと存じ候」と書いていること、さらに同年の保阪嘉内あて書簡102aに、「しばらくは境遇の為にはなれる日があつても、人の言の不完全故に互に誤る時があつてもやがてこの大地このまゝ常光土と化するとき何のかなしみがありませうか」と書いていることを挙げておられます。
言われてみれば、賢治にはその名も「国土」と題した文語詩もあり、そこでは見渡す山々の地中に、法華経の文字を一字ずつ記した石が埋められているところを想像しています。
国土
青き草山雑木山、 はた松森と岩の鐘、
ありともわかぬ襞ごとに、 白雲よどみかゞやきぬ。一石一字をろがみて、 そのかみひそにうづめけん、
寿量の品は神さびて、 みねにそのをに鎮まりぬ。
この文語詩「国土」以外にも、賢治には「国土」という言葉が出てくる作品がいくつもあり(「〔鉄道線路と国道が〕下書稿(一)」、「〔行きすぎる雲の影から〕下書稿(一)」、「葱嶺先生の散歩」、「装景手記」)、彼が「国土」というものに何らかの思いを寄せていたのは確かなようです。
ただ、その賢治が思う「国土」が、はたして田中智学が言うような意味での「国土」と同じだったのかどうかということについては、あらためて考えてみる必要があるかと思います。
※
まず前提として、仏教的な意味で「国土」という場合には、それは「仏国土」のことであり、すなわち「すべてのものが救われる世界として、仏が建設する国」のことです。つまりここにおいて「国」とは、日本とかアメリカとかいう政治的な意味での「国家」のことではなくて、宗教的・普遍的な概念です。
これに対して田中智学は、『本化妙宗式目講義録』において、次のように述べています。
所謂〔大谷註:『法華経』の〕本門は国土成仏を以てその特色として居る、故に〔大谷註:日蓮〕大士の誓願もまた閻浮統一である、全世界の成仏である、娑婆即寂光土である。
そして大谷栄一氏は、この部分について次のように説明します。
智学の現実認識は、個人―国家(国体)―世界の三者関係から成り立つが、個人成仏を国土成仏に包含し、全世界の国土の本国土化を訴えた。その「国土成仏の票本」として、国民国家・日本の本国土化を最優先した。
つまり、田中智学が描いたプログラムは、まずこの日本という一つの現実的な「国家」が、法華経に帰依して宗教的に「本国土化」し、次の段階でその日本が世界を「道義的に統一」して、全人類が法華経を信仰するようになることで、遂にこの地球全体が「仏国土=寂光土」となる、というものだったのです。智学によれば、日本という国がそのような世界的な特別使命を帯びている理由は、神武天皇が太古この地に王統を垂れて以来世界に類のない万世一系の「国体」を有し、また日蓮がこの地に生まれて法華経を正しく解釈し説法を行ったからだ、というわけです。
すなわち、田中智学が「国土」と言う場合には、最終的には「全世界」のことになりますが、当面はこの日本という国民国家の領土としての「国土」を指しているのです。本来の「仏国土」という宗教的意味を最終目標には置きながらも、現実的・政治的な意味での「日本の国土」へと、意味を巧みに引き寄せているわけで、これを「国体」という概念とセットで論じることにより、日本中心的・国家主義的な色彩が、さらに強められる形になっています。
智学は「本化宗学より見たる日本国体」において、次のように述べています。
予が日本の国体を本国土妙で説くと本国土妙は霊界の問題だ、現実の国家を論ずることはどうだかうだとか言ふ学者がある。けれどもこれはどうする。予より以前に六百何十年前に日蓮といふ人が日本国を法華経の本国土妙の娑婆世界だと言はれた。えらい人だ。
ここでは、日本国こそが仏の本国土であるという、智学独自の日蓮解釈が述べられています。
そこで賢治に戻って考えてみると、賢治が作品の中で「国土」という言葉に込めている意味が、「日本という国家の領土」というものだったかというと、そのようなニュアンスは非常に薄いと言わざるをえません。
上の「国土」という作品で何より印象的なのは、、「寿量の品」を、「一石一字をろがみて、そのかみひそにうづめけん」という、名もなき人の秘やかで切実な法華経信仰の姿であり、国家の権威や天皇の威光を笠に着ようとした田中智学の思想とは、対極にあるように思えます。
また、「葱嶺先生の散歩」の書き出しの部分は、次のようになっています。
葱嶺 先生の散歩
気圧が高くなったので
昨日固態の水銀ほど
乱れた雲を弾いてゐた
地平の青い膨らみも
徐々に平位を復するらしい
しかも国土の質たるや
それが瑠璃から成るにもせよ
弾性なきを尚ばず
地面行歩に従って
小さい歪みをつくること
あたかもよろしき凝膠なるごとき
これ上代の天竺と
やがては西域諸国に於ける
永い夢でもあったのである
賢治が見ているのは、日本岩手県の風景ではありますが、彼の想像は天竺や西域へと自由に飛翔し、地上の国境線などに縛られていません。
このように、少なくとも賢治の作品に表れている「国土」は、田中智学=日蓮主義的な意味での「国土」観を反映しているとは感じられず、そこに大谷氏が指摘するような、「日蓮主義的な法華信仰」を見ることはできないのではないかと思うのです。
大谷氏が指摘するとおり、賢治が「この国土を常寂光土にしたい」と考えていたのはそのとおりだと思いますし、これは実際いくつかの作品にも表れていますが、この思想は何も田中智学が唱導した日蓮主義に限ったものではなく、もともと「法華経」や日蓮遺文から読みとれるものでしょう。
あるいは作品以外に、賢治の書簡等に表れている内容を見ても、田中智学が最も力を入れて説いていた「国体」とか、「日本国という国家のあり方」などという問題に対して、賢治はほとんど関心を払っているようには見えません。
1920年9月、国柱会は念願の日刊新聞『天業民報』を創刊し、賢治ももちろんこれを購読して、多くの人に見てもらうために自宅の道路側に掲示板を作ってそこに貼り出したり、友人たちにも強く勧めたりしました。そもそもこの『天業民報』という名称は、田中智学が上記のような意味で唱える「世界統一の天業」から採られたものであり、この11月からは目玉記事として、智学による「日本国体論」が連載されていたのです。
賢治と同年に国柱会に入った石原莞爾は、この頃は中国の漢口に赴任していましたが、本国から送られてくる『天業民報』と、そこに掲載されている智学の国体論を「拝見」することを、待ち焦がれていたということです。智学が独自の日蓮遺文の解釈によって、「世界の大戦争」が起こり「日本による世界統一」が達成されると説いた国家主義的なヴィジョンをもとに、石原は「世界最終戦争」を構想し、着々とその戦略を立てていきます。関東軍の謀略に端を発した「満洲国」の建国も、そのための橋頭堡だったのです。
この石原のような優等生的な日蓮主義者に比べて、賢治は『天業民報』を愛読し宣伝はしていましたが、その具体的内容の何かに感銘を受けたというような様子は、どこにも残されていません。本当に、田中智学の言う「世界統一という天業」を信奉していたのだろうかと、心配にもなってしまいます。これは、賢治が家出をして東京で布教活動に携わっていた期間についても同様です。
この頃の智学の主張の根幹は、「日本国体」と「法華経」および「日蓮」を国家主義的に関連づけるというところにありましたが、賢治が「国体」という言葉を作品や書簡やメモ等に書いているのは、後の短篇「大礼服の例外的効果」における1回きりで、そこでもこの言葉が意味するところは、明らかにされないままです。
賢治は、法華経には心底から感銘を受け、生涯の導きとしていましたし、日蓮遺文も座右に置いて味読していました。田中智学が、法華経と日蓮について当代一流の論客だったのは確かでしょうし、日蓮主義は当時の知識人の間で大流行をしていたのも事実です。それはそうだとしても、なぜ賢治は、他にもあった日連系の教団には入らず国柱会を選び、一時は家出までして布教活動をしたのでしょうか。
本書の「あとがき」に、大谷氏は次のように書いておられます。
今をさかのぼること、十四年前、二〇〇五年九月のことである。ある研究会の場で「戦前期日本の日蓮仏教にみる戦争観」と題した報告をした。
田中智学の日蓮主義、石原莞爾の日蓮信仰、妹尾義郎の新興仏教について概説し、三人の戦争観や平和思想について説明した。発表終了後の質疑応答の際、「なぜ宮沢賢治が日蓮主義に魅了されたのか?」という質問を受けた。石原も賢治も同じ大正九年(一九二〇)に入会した国柱会信行員だった(妹尾は智学の影響をうけつつも、本多日生に師事した)。
この質問には、好戦的で右翼的な傾向があるとみられている日蓮主義に、そうしたイメージとはほど遠い賢治がなぜ影響を受けたのか、という意図があったと思う。けっきょく、このときはきちんとした答えを返すことができずに研究会が終わったことを今でも覚えている。
日蓮主義とはなんだったのか。なぜ、多くの人びとに影響を与えたのか。
この問いに答えるために執筆したのが、本書である。
この大谷栄一氏の著書は、「日蓮主義とはなんだったのか。なぜ、多くの人びとに影響を与えたのか」という問題については、非常に生き生きと詳細に解き明かしてくれています。ただ、その執筆の端緒となったという「なぜ宮沢賢治が?」という疑問に関しては、読後の私にもまだ謎として残っているのが現状です。
※
賢治は、智学の全5巻の大著『妙宗式目講義録』を5回も通読したと言われていますし、1920年夏にはやはり智学の『本化摂折論』等からの抜き書きを集めた「摂折御文 僧俗御判」という一種の学習ノートを作成しています。
ただ、ここに写されたテキスト中に、智学自身が書いた文章は全く含まれておらず、全てが経典や日蓮遺文の抜粋で構成されているのです。これでは、賢治にとって智学という存在は、法華経や日蓮に近づくための単なる「足場」に過ぎず、「踏み台」として利用していただけのようにも見えてしまいます。本当に賢治が、智学自身のオリジナルな思想に共感していたのなら、どこかにその痕跡が残っているはずだと思うのですが、まだ私にはそれはわかりません。
また、上田哲氏の著書『宮沢賢治 その理想世界への道程』の「I 賢治と国柱会」の章は、国柱会側の資料や文献も詳細に調査したもので、賢治と国柱会の関わりを知る上では非常に重要なものだと思います。ここで上田氏は、国柱会と賢治の関係を様々な側面から明らかにしておられますが、これを読んでも私には、思想としての「日蓮主義」と賢治のつながりというものは、まだ見えてこないのです。
正直なところ、現時点で私が感じているのは、賢治が国柱会に入ったのは、その具体的な思想内容に魅了されてというような「内的」な事柄によるのではなくて、もっと偶然かつ「外的」な事情によるのではないか、というようなことです。
賢治がそれ以前から「法華経」に心酔していたことは、もちろん最重要前提ではありますが、その土台に立って、青年期になった彼が父親と対決し「家」の超克を試みるための強力な拠り所として、また賢治より先に国柱会を知っていた親友保阪嘉内を〈みちづれ〉に、一緒に乗り込むための一つの「船」として、賢治がとにかく切実に「何か」を必要としていた時に、たまたま圧倒的な存在感を持って現れたのが、田中智学と国柱会だったのではないか、というようなことを今は思っています。
しかし、このように考えざるをえないのは、賢治と国柱会の間の「内的」なつながりがまだ私にはよく見えていないからであって、これについては今後も考えていく必要はあるのだと思っています。
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