四つの「行ッテ」と地涌の四菩薩

 タイトルの「行ッテ」というのは、「〔雨ニモマケズ〕」のテキストに、畳みかけるように出てくる「行ッテ」という字句のことです。

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

 宮澤清六氏の孫である宮澤和樹さんは、東日本大震災以降、全国各地で「〔雨ニモマケズ〕」について講演をされていますが、その際によく取り上げて話をされるのが、この「行ッテ」に込められた意味です。和樹さんは、たとえば次のように語られます。

祖父は私に「この作品は後半が大事なんだ」と教えてくれました。「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ...」と東西南北に書かれたこの部分の「行ッテ」は、特に大事だと言うのです。
活字になると「行ッテ」は三ヶ所ですが原文だと四ヶ所書かれています。「北ニケンクワヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ」には「行ッテ」が入っていません。ところが原文の手帳を見ると「北ニ...」の前のページに赤鉛筆で「行ッテ」が書かれているのです。おそらく祖父は四ヶ所目に「行ッテ」を入れるのを前ページに書かれていたために躊躇したのではないかと思うのです。
この事とは別にしても、「行ッテ」が何故大事なのかというと、賢治にとって「法華経」をこの世で実践することがなにより大事であり、知恵や知識があっても行動しなければ意味がないからです。行動こそ「行ッテ」なのだと思います。(宮沢賢治記念館における宮沢賢治生誕120年記念「雨ニモマケズ」展パンフレットより)

 このように、賢治がとりわけ重要な意味を込めたと思われる「行ッテ」なのですが、和樹さんの言われるように、上に引用した「〔雨ニモマケズ〕」の公式テキストにおいて、「行ッテ」が現れるのは「東」「西」「南」の三か所だけで、「北」には出てきません。しかし、手帳に書かれた原文を見ると、もう一つ(幻の?)「行ッテ」が、確かに赤鉛筆で書かれているのです。
 下の画像では、かなり薄くてわかりにくいのですが、左頁の左上の余白に、薄赤い文字で少し右に傾いて、「行ッテ」と書かれています。 目を凝らして見てみて下さい。

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『別冊太陽 宮沢賢治』(2023)p.6より

 いくら薄くても、作者賢治がここに「行ッテ」と書いているわけですから、「〔雨ニモマケズ〕」のテキストを校訂する際には、これをどう扱うかが問題となります。たとえば、賢治が「ヒドリ」と書いたのだから「ヒデリ」と直さず原文どおり「ヒドリ」のままに残すべきだと主張する原典尊重主義の方々にとっては、現行の作品テキストにこの四つめの「行ッテ」が入っていないのは、由々しき問題でしょう。(しかしこれまで、そのような意見を目にしたことはありません。)
 これについて、『新校本全集』第十三巻(上)の「校異篇」p.137には、「《筆記具》鉛筆・赤鉛筆(五六頁7行上部の戯書「行ッテ」の記入のみ)」と記されており、《異文》の項では触れられていません。つまり、この「行ッテ」は、賢治の「戯書」すなわち「戯れに書いたもの」にすぎず、本文の一部ではないと見なして、テキストには採用しなかったということでしょう。
 まあこれが、常識的で妥当な判断だろうと、私も思います。

 ただここで疑問として残るのは、ではこの四つめの「行ッテ」が賢治の「戯書」だったとしても、賢治はいったい何を思って、ここにわざわざ赤鉛筆で「行ッテ」と書き記したのだろうか、ということです。

 この問題に関する考察は、これまであまり多くはないと思うのですが、『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』の著者でもある小倉豊文氏は、「「ド」と「デ」――「雨ニモマケズ」と「雨ニモマケズ手帳」」(『宮沢賢治3』洋々社, 1983)に、次のように書いておられます。

「行ッテ」とだけ後からの朱鉛筆の書き入れのあるのは「シヅカニ」を「行ッテ」と執筆当時直したのを再考したしるしか。

 すなわち、上の引用画像で、「シヅカニ」を棒線で消し「行ッテ」と直している箇所について、後からもう一度再検討した際の名残りではないか、とする説です。ただ、いったん「行ッテ」と直してしまったわけですから、これを再考するとすれば、「シヅカニ」とか他の字句を書いてみるならともかく、既にそこに書かれている「行ッテ」をもう一度書くというのは、ちょっと意図がわかりにくいところです。

 また近年、田中成行氏は「宮沢賢治「雨ニモマケズ」の教材としての本文決定の意義―井伏鱒二『黒い雨』の「雨ニモマケズ」の引用に注目しつつ―」において、次のように書いておられます。

 そこで、「雨ニモマケズ」の書かれた『雨ニモマケズ手帳』と呼ばれる、縦一三センチ横七、五センチの小さな手帳の、その複製本を見ると、「行ッテ」と同じ赤鉛筆で書かれたと思われる文字が、二ページには次のように書かれている。
「...18 十一月十六日
        就全癒...」
 これは「雨ニモマケズ」が書かれたとされる十一月三日の後の十一月十六日に結核の病状が「就全癒」つまり「全治に向かう」と書く程に回復し十八日にその体調のよさの中で「雨ニモマケズ」を読み直して「行ッテ」を同じ赤鉛筆で書き加えたものと考えたい。
 つまり、結核のため病床に伏していた賢治が、体調が回復して歩けるほどになった十六日以後に、「雨ニモマケズ」を読み直し、「東西南」に「行ッテ」と書いて自らその場に「行く」ことを願っていた時に、「北」に「行ッテ」がないことに気づき、「今なら行ける」という実感の元に、かつて石鳥谷などに肥料相談に自ら行って取り組んだように、
「北ニケンクワヤ
     ソショウガ
         アレバ
 ツマラナイカラ
    ヤメロトイヒ」
の「アレバ」の後にも「行ッテ」を入れようと、空白のある前のページに赤鉛筆の大きな字で「行ッテ」と刻みつけた、と考えたい。
 つまり、「就全癒」という、「結核により病床に伏していて実際には行く事ができないと思っていた体」の体調の回復の実感によって、手帳の「十一月三日」の内容を読み直し、「そういう者に私はなりたい」という「願い」が、今なら「行って」実践できるのではないかという、期待と喜びの思いを表した「行ッテ」であると考えたいのである。
 それ故、「北」においても、「喧嘩や訴訟があればその場に自ら訪ねて行かねばならない」という思いを抱いて読み直した時に、「北」に「行ッテ」が抜けている事に気づき、体調が回復しつつある今、赤鉛筆で余白がある前のページに「行ッテ」と丁寧に書き加えて、自ら「行ッテ」自ら行動する賢治自身のあるべき姿を完成させるために推敲した表現であると考えたい。

 すなわち、賢治自身が、実は「北ニケンクワヤソショウガアレバ/行ッテツマラナイカラヤメロトイヒ」へと、推敲し改めていたのではないかとする説です。
 さらに田中氏は、この「雨ニモマケズ手帳」のpp.121-124に、同じく赤鉛筆で書きつけられた「不軽菩薩」という草稿メモに着目し、次のように述べられます。

 能を大成した世阿弥が『法華経』観世音菩薩普門品の中の言葉「衆人愛敬」を引用し、あらゆる人に愛される芸を目指して、あらゆる宗派の人々や、様々な身分や立場の人々を思いやり、あらゆる人が感動できる芸を追究したように、観念、宗派を越えたところで、賢治も東西南北あらゆるところへ出かけて行って、一人一人を思いやり自分の出来る事を精一杯やろうとし、それを願ったのではないか。そしてそんな思いを、「就全癒」と体調の回復を実感できた「十一月十六日か十八日」に赤鉛筆で日付も刻みつけ、「十一月三日」の「雨ニモマケズ」を見直して「北」の「行ッテ」を書き加え、『法華経』で意味する「四衆」に限定せず、さらに柔軟に、「東西南北」「四方」の「民衆」と言う意味での「四衆」のところに出かけて行きたいと、この赤鉛筆で「不軽菩薩」の詩の文句も、一気に刻みつけたのではなかったか。

 「不軽菩薩」あるいは「常不軽菩薩」とは、出会う人の皆に対して、「私はあなたを敬います」と言って礼拝していたので、全ての信徒(比丘・比丘尼・優婆夷・優婆塞=四衆)から逆に馬鹿にしていると誤解され、罵倒・排撃されたという人です。「〔雨ニモマケズ〕」の「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」という箇所を連想させることから、そのモデルの一つと言われることもあります。
 田中成行氏は、「行ッテ」が合わせて四回出てくることが、この「四衆」にも対応しているのではないかと、考えておられるわけです。

 以上、四つめの「行ッテ」に関する議論を、とりあえず振り返ってみました。

 ところで私は最近、植木雅俊著『100分de名著 法華経』(NHK出版)を読んでいて、たまたま次のような文章を目にして、あっと思いました。

 釈尊ゆかりの地を実際に訪ねることよりも、『法華経』を実践していることこそが大事なのだということです。また、釈尊は上記の言葉を地涌の菩薩たちのリーダー四人、すなわち上行、無辺行、浄行、安立行に対して語っています。四人の名前にはすべて「行」という文字が入っています。人間として立派な行ないをすることこそが大事であり、聖地を訪ねることが目的ではない、そんな主張も読みとれるでしょう。

 そもそも『法華経』全28品のうちで、誰が最大のヒーローかと言うと、釈迦如来はもちろん至高の存在ではありますが、現実に向けた「行動」を重んずる経の基本理念を体現しているのは、釈迦滅後における娑婆世界の弘教のために大地を裂いて召喚された、億千万の「地涌じゆの菩薩たち」であり、中でもそのリーダーである、上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩、の四人です。
 賢治ももちろん、彼らの英雄的な行動を強く尊崇していたはずで、「〔北上川は熒気をながしィ〕」に、「あたらしいクリストは/千人だってきかないから/万人だってきかないから」と書き、また「産業組合青年会」の草稿で、「億の天才ならんで生れ/しかも互ひに相犯さない/あかるい世界はかならず来る」と言っているのは、この「地涌の菩薩」たちを念頭に置いているのではないかと、私は思います。

 地涌の四菩薩の名前は、「上菩薩=卓越した善をなす者」、「無辺菩薩=際限なき善をなす者」、「浄菩薩=清らかな善をなす者」、「安立菩薩=よく確立された善をなす者」となっています。そして植木氏が指摘するように、全てに「」の字が入っているところに、「動」を尊ぶ『法華経』の精神が表れているわけです。
 そしてまさにこのことが、宮澤和樹さんの述べておられる、「「ッテ」が何故大事なのかというと、賢治にとって「法華経」をこの世で実践することがなにより大事であり、知恵や知識があっても行動しなければ意味がないからです。行動こそ「行ッテ」なのだと思います」という言葉に、ぴったり対応するではないでしょうか。
 思えば、「〔雨ニモマケズ〕」が書きつけられた次の頁には、この四菩薩の名前も含んだ「略式曼荼羅」が記されていました。

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『別冊太陽 宮沢賢治』(2023)p.7より(赤丸は引用者による)

 すなわち、最初の画像の欄外に赤鉛筆で書かれていた四つめの「行ッテ」について、私が思うのは次のようなことです。
 賢治は、この手帳に「〔雨ニモマケズ〕」のテキストを書き、さらに「略式曼荼羅」を記した後、いずれかの時期にもう一度「〔雨ニモマケズ〕」を見直していて、そこに図らずも「行ッテ」という字句が三回現れていることに気づき、「あともう一つあれば、地涌の四菩薩の名前に対応した『四つの』になるのだがなあ...」と思って、欄外に赤字で「行ッテ」と書きつけたのではないでしょうか。

 この「地涌の四菩薩」を、四つの概念に対応させるということは、既に日蓮もやっていて、『涅槃経』に出てくる「常楽我浄」という「四徳」を、四菩薩に配当し、次のように言っています。

経に四導師有りとは今四徳を表す。上行は我を表し、無辺行は常を表し、浄行は浄を表し、安立行は楽を表す。二死の表に出づるを浄行と名づけ、断常の際を踰ゆるを無辺行と称し、五住の垢累を超ゆるが故に浄行と名づけ、道樹にして徳円かなるが故に安立行と曰ふなり。(『御義口伝』)

 賢治にも、「東西南北」の四方に「行ッテ」為す善行と、行動実践の象徴たる地涌の四菩薩とを、対応させようというアイディアがふと一瞬よぎったのではないかと、私は思う次第です。