『「風の電話」とグリーフケア』の刊行

 岩手県大槌町の佐々木格さんは、「風の電話」による震災被災者支援の活動により、2015年に「イーハトーブ賞奨励賞」を受賞されましたが、この「風の電話」によって提供されているケアの内容について、心理学や精神医学の専門家が考察やエッセイを寄せた本、『「風の電話」とグリーフケア: こころに寄り添うケアについて』(風間書房)が、このたび出版されました。

「風の電話」とグリーフケア―こころに寄り添うケアについて 「風の電話」とグリーフケア: こころに寄り添うケアについて
矢永由里子・佐々木格 編著
風間書房 2018-10-31
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 その目次は下記のとおりで、たいへん充実した内容になっています。

  まえがき 「風の電話」―グリーフワークをひもとく(佐々木格)

 序章「風の電話」におけるグリーフケアについて(矢永由里子)
   第1節 グリーフケアについて
   第2節 「風の電話」の成り立ちとその場を訪ねる人々

第1部 「風の電話」を訪れる人々について―なにが人々を惹きつけるのか
 第1章 「風の電話」を訪れる人々
   第1節 「風の電話」を訪れる人々について(井上志乃)
   第2節 「風の電話」の体験について(塚本裕子)
 第2章 大切な人の死を悼む―お二人の語りより(矢永由里子)
   第1節 インタビュー1
   第2節 インタビュー2
   第3節 グリーフワークについて考える―インタビューを振り返って
 第3章 風の電話の近況(佐々木格)
   はじめに
   第1節 ある男性との出会い―どん底の人生を乗り越えて
   第2節 震災とフランクルについて
   第3節 まとめ

第2部 「風の電話」と考察
   はじめに(矢永由里子)
 第4章 精神科医より1 閉じられつつ開かれた場所(浜垣誠司)
   第1節 「風の電話」を訪ねる
   第2節 死別という心的外傷(トラウマ)からの回復
   第3節 死者との対話
 第5章 精神科医より2 「風の電話」で悼む(クレイグ・ヴァン・ダイク)
 第6章 教育者より 「風の電話」ハーバードにゆく(イアン・ジャレッド・ミラー)

第3部 「風の電話」とそれぞれの活動
   はじめに(矢永由里子)
 第7章 現地活動の専門家より 「風の電話」を語る
   1.「風の電話」 いのちとことば(鈴木満)
   2.「風の電話」で亡き人と話せなかった人へ(長谷川朝穂)
   3.「風の電話」によせて(中田信枝)
 第8章 若手心理臨床家より 「風の電話」からの学び
   1.「ペースを守る」ことの大切さ(井上志乃)
   2.「想像力」の大切さ(塚本裕子)
 終章 まとめ 「風の電話」の体験とグリーフケアを考える(矢永由里子)
   第1節 「風の電話」という場について
   第2節 「風の電話」の体験について
   第3節 われわれは「風の電話」から何を学ぶか

   註
   あとがき(矢永由里子)

 「風の電話」という「心のインフラ」において、これまで実践されてきた活動について、その主宰者であるところの佐々木格さんの思いの記述と、早くからこの活動に心理士として関わってこられた矢永由里子さんらによる客観的な分析とが相まって、この稀有な営みがとても多角的にとらえられていると思います。

 私も、3年前に「風の電話」を訪ねたご縁によって、この本の第4章を執筆させていただきました。
 その章全体の流れとしては、「第2節 死別という心的外傷トラウマからの回復」が本題になるのですが、ここでは賢治のことに触れた第1節と第3節を、以下に抜粋して掲載いたします。


閉じられつつ開かれた場所―「風の電話」と喪の作業
                         浜垣 誠司
一、「風の電話」を訪ねる

 私は精神科医として町なかの診療所で仕事をする一方、宮沢賢治が昔から好きだったもので、賢治の作品を題材としたウェブサイト(宮澤賢治の詩の世界)を作ったり、作品ゆかりの地を一人で巡ったりしていた。生まれも育ちも西日本の私だったが、賢治の故郷である岩手県に足繁く通い、同好の士にお会いすることを続けるうちに、いつしか岩手は私の第二の故郷とも言える場所になっていた。賢治が何度も旅して作品に残した三陸地方も大好きになり、以前からよく訪ねていたもので、幸いこの地にも賢治を愛する仲間がたくさんできていた。

 そんなある日、東日本大震災が起こった。当初の私には、報道などで被災地の様子を見ては、ただ知人の安否を気づかうことしかできなかったが、少し状況が落ち着いてくると、精神科診療所協会のボランティアとして石巻の医療支援に入ったり、三陸沿岸に点在する賢治の詩碑の被災状況を調べて、自分のウェブサイトに載せたりした。
 宮沢賢治の作品には子供の頃から親しんできた私だったが、震災を境にして、その読み方が変わってしまった。これほどの災害や原発事故が起こった日本に、今もしも賢治が生きていたら、どんな発言をしどんな行動をとっただろうと考え、また賢治自身も個人的に深刻な喪失体験を抱えていたのに、いったいどうやってそれを受けとめ乗り越えられたのか、何とかして彼の心の奥底を理解しようと頁を繰った。

 人生において愛する大切な人を失うという出来事は、誰にとっても大きな衝撃となりうるものだが、とりわけその死が予想外の理不尽なものだったり、あまりに早世だったりすると、残された人の苦悩も深刻である。その喪失の悲しみが極端に大きすぎると、心のバランスを崩してしまって、もうこれ以上生きていけないというところまで追い詰められてしまうことさえある。

 しかし人間は多くの場合、そのような悲嘆のどん底からもまた何とかしてはい上がり、苦しみを乗り越えていく力を持っているものだ。一度は死も考えた人が、いったいどうしたらまた生きる力を取り戻していくことができるのか、思えばそれはとても不思議なプロセスである。その回復の過程において、人はいろいろなことを感じ、考え、周囲との相互作用をしていくことになるが、その際に人間の心の中で自ずと営まれている働きのことを、「喪(悲嘆)の作業グリーフ・ワーク」と呼ぶ。悲しみに閉ざされ、凍りついたように思える心の内部でも、知らないうちに実は様々な作業が進められていて、その過程ではしばしば人間の持つ驚くべき力が発揮される。

 宮沢賢治の場合は、最愛の妹トシを亡くした後、年余にもわたり深い苦悩にとらわれることになったのだが、その間に書いた切実な作品群には、図らずも彼独自の「喪の作業」が表現されることとなった。震災後の私は、それらの作品を何度も読み返しながら、賢治が妹の喪失という悲嘆のトンネルを、いったいどうやって通りぬけていったのか、どのような心の作業によって再び安寧を取り戻すことができたのかということについて、始終思いを巡らすようになったのである。

 実は私はかなり以前から、精神科医として犯罪被害者支援センター等に関わっていたので、深刻な死別体験を抱えた方の治療や支援、すなわち「グリーフ・ケア」には多く携わっていた。従って、震災を機に宮沢賢治の「喪の作業」に強い関心を抱くようになったというのは、私の仕事と個人的な趣味の領域が、たまたまここで交叉したということでもあったわけである。
 そんな中である時私は、岩手県大槌町の佐々木格さんが、「風の電話」という独自の方法によって、大切な人を亡くした被災者の方々を支援しておられることを知った。当時、佐々木さんは大槌で宮沢賢治研究会の設立を準備し、またこの地に賢治の詩碑を建立する計画も進めておられるということだったので、ここで私にとっては、三陸、宮沢賢治、グリーフ・ケア、詩碑、などという個人的に強く惹かれていたキーワードが、奇しくも一挙に重なり合って現れたのである。

 そこで私は矢も楯もたまらず、二〇一五年の二月に佐々木さんに突然のメールを差し上げて、「風の電話」を訪ねさせていただくことにした。

 朝早く京都を出て、飛行機や鉄道やバスを乗り継ぎ、大槌町の郊外にある「ベルガーディア鯨山」と名づけられた佐々木さんの庭園に着くと、もう日は傾きかけていたが、佐々木さんご夫妻とともに、岩手県立大槌病院の心療内科医である宮村通典さんも、一緒に私を迎えて下さった。庭内にある「森の図書館」という石造りの家で、佐々木さんから「風の電話」の活動についていろいろお聞きし、また幸いなことに、そこにいた四人みんなが好きだった宮沢賢治についても、あれこれ話が弾んだ。
 妹トシが死んだ日に、賢治が書いた「無声慟哭」という三部作の詩のことや、そして実際にその日から半年あまりにわたって、一篇の詩も残せなかった賢治の「無声」の時期のこと。あるいは一九二五年の一月に、賢治が一人で酷寒の三陸地方を旅した時、大槌のあたりではどの道を歩いたのだろうかという考察など……。

 話に花が咲くうちに、いつしかあたりは真っ暗になっていたので、その日は佐々木さんに車で海辺のホテルまで送っていただいた。

 翌朝は、また佐々木さんが早い時間に車でホテルまで迎えに来て下さって、「ベルガーディア鯨山」にやって来た。奥様が入れて下さったコーヒーをいただいた後、私は初めて「風の電話」を体験させてもらった。

 「風の電話」の電話ボックスは、全面が美しい白い枠にはめられたガラスで囲まれていて、どのガラスも綺麗に磨かれている。緑色の三角形の屋根も付いていて、外から見ると、可憐で愛らしい感じのするボックスだ。

風の電話

 ドアを開けて中に入り、またドアを閉めると、中は予想以上に静寂の空間だった。私はそれまで「風の電話」という名前から、ボックスの中でも風の音や鳥のさえずりなど自然の音が聞こえるのだろうかと何となく思っていたのだが、これはもともと本物の電話ボックスだったわけだから、通話のためには当然ながら、防音性能はかなり高いのだ。
 ボックスに入って正面には、私たちの世代にとっては懐かしいダイヤル式の黒電話が置かれている。

「風の電話」内の黒電話

 またその横には、利用者が自由に思いを書きつけることのできるノートや筆記具や、ボランティア団体から寄贈されたという小さな陶製のお地蔵さんも並べられている。電話ボックスの中からは、周囲四方のガラスを通して、佐々木さんが丹精を込めた美しい庭園の風景が見えている。そしてその庭園を越えてはるか下の方に目を転ずると、三陸の海も望むことができる。

電話ボックス内から望む太平洋

 さて、「風の電話」のボックスに入って、まず私が感じたことの一つは、この丁寧に手入れされた電話ボックスや、それが置かれている庭園や、さらにそれを取り囲む雄大な自然によって、あたかも自分が「守られている」というような感覚だった。
 そして、それとともにもう一つ、自分自身を何か大きなものに「委ねる」というような感情が、自ずと心の奥から湧いてくるようにも感じた。

 あらためて振り返ってみると、この時の私自身は、ガラス張りのほんの小さなボックスに入っていたのに対して、その周りには、北上山地に連なる深い森や太平洋までもが一望できる、雄大な景色が広がっていた。そこは、自分が大自然の中のちっぽけな存在であるということを、身をもって実感できる環境であるとともに、同時にそのボックス内は周囲からある意味で隔離され、あたかも「静寂のカプセル」に入っているような感じにもなる空間だった。目では周囲のパノラマ風景が三六〇度見渡せる「開かれた」場所でありながら、耳には何も聞こえない「閉じられた」場所でもあるという、パラドキシカルな感覚に私は誘い込まれた。

 佐々木さんは、何も「風の電話」をそのような特別な環境として設定しようと意識されたわけではないのだと思うが、図らずも生まれたこの稀有な空間のおかげで、人は自らが何か大きなものに「守られている」と感じるともに、それに自分を「委ねる」というような気持ちに導かれるのかもしれない。実際に「風の電話」を体験させていただいて、私はそんな風に感じた。

二、死別という心的外傷トラウマからの回復

〔略〕

三、死者との対話

 ところで先に、心的外傷が痛みや苦しみを伴っている理由は、大きく分けて二つあると書いたが、残りのもう一つは、外傷的な出来事は多くの場合、当事者にとって取り返しのつかないような「喪失」を伴っているという、厳しい現実である。例えば死別体験の場合には、いくら心の癒しを図ったとしても、亡くなった人は二度とこの世には戻って来ない。こればかりは、周りの人々がどんなに暖かく支えても、専門的な治療者が手を尽くしても、どうしようもない事柄である。

 しかし、多くの場合人間は、たとえ時間がかかってもこの苛酷な現実と折り合いをつけて、また生き続けていくことができている。人間にこのようなことが成し遂げられるのは、その底知れない生命力のおかげとしか言えないように私は思うのだが、それを可能にしているのは、たとえ不可逆的な喪失を抱えていても、その新たな状況をもう一度自分に対して位置づけ直し、そこに新しい方向性を見出していくことができるという、人間の力である。
 ただ、そのような位置づけや方向性というものは、それぞれの人が自分の体験に即して個別につかみ取っていくものなので、どうすれば見つかるとかどう考えれば答えが出るとかいう、決まった方法があるわけではない。言葉でうまく表現するのは難しいが、その人が自らの喪失体験を含めた一連の経験全体に新たな「意味」を与え、過去から未来へ向かう自らの人生を、一つの大きな「物語」として紡ぎ出す作業なのだ、という風にも言えるかもしれない。それは例えば、亡くなった人が自分に与えてくれた「何か」に気づき、それをバトンのようにしっかりと受け取って引き継いでいくということかもしれないし、あるいはその人の死の意味を問い続け、社会全体に共有していくということかもしれない。

 埋めようのない「喪失」を、このようにして自分の中にあらためて意味づけ受け容れていくというプロセスも、「喪の作業」のもう一つの重要な側面なのである。

 ここで、喪失体験の持つ「意味」を探し、「物語」を織り上げていくという作業において、しばしば重要な役割を果たすのが、亡くなった人との「対話」である。
 死んだ人と対話するなどと言うと、オカルトじみて聞こえるかもしれないが、しかし皆さんも、亡くなった人に何かを問いかけてみたり、こんな時あの人だったらどう言ってくれるだろうかと、想像してみたりすることはないだろうか。これらも十分に立派な、「死者との対話」である。本稿の最初の方で私は、震災や原発事故の後に「宮沢賢治だったらどうしただろう」と考えたと書いたが、これも今は亡き賢治と、私との対話である。また青森県の恐山には、死者の言葉を伝えてくれる「イタコ」という人々がいるが、日本人が古来そのような場所を守ってきたのも、死別体験を昇華するために、そういう対話を必要としたからだろう。

 宮沢賢治も、妹トシが死んだ翌夏、妹と「通信」を交わしたい一心で、一人北を目ざして樺太まで旅をした。その道中で苦しみつつ綴った「青森挽歌」という詩では、「なぜ通信が許されないのか/許されてゐる、そして私のうけとつた通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ/どうしてわたくしはさうなのをさうと思はないのだらう」などという独白が記されており、賢治が亡き妹との「通信」を、いかに切実に求めていたかがにじみ出ている。

 「風の電話」が、まさに「電話」であることの本質的な意味も、このような「死者との対話」の場を提供してくれるところにあるのだろう。できることならもう一度、亡くなった人と話をしたいと願う人は多いだろうが、恐山へでも行かないかぎり、普段の生活ではなかなかそんな状況はありえない。いつまでも死んだ人のことばかりを考えていてはいけないと、自分でも思い、周囲から言われることもあるだろうが、しかし本当は心の中には、その人に問いかけてみたいことは、山ほどあるはずなのだ。「風の電話」という舞台設定は、こういった方々にとって、大切な故人と一対一で、誰にも邪魔されず、安心して向き合える場所を、提供してくれているのである。

 カプランというアメリカの心理療法家は、『声は決して消えない』と題するその著書の中で、「人間の死別体験とは、死者との持続的で終わることのない対話である」とも書いている。私が精神科の臨床で出会った多くの方々も、そのような対話を通して、故人から自分の人生に新たな意味を与えてもらったと感じたり、あるいは真の意味で「生存者の罪悪感サバイバーズ・ギルト」から解放されたと、私に語って下さった。

 すなわち、亡くなった人の存在は、生きている人々の中にはずっと生き続けており、跡形もなく消えてしまうものではない。私とその人との関係は、その人がまだ生きていた時の間柄とは、違ったものにならざるをえないが、しかしそれでも二人の関係は、今も続いているのだ。

 「風の電話」とは、そのような新たな関係を仲立ちしてくれる基点であり、それぞれの「喪の作業」を助けてくれる場所なのだと、私は感じている。


【参考文献】

 文中に引用した、カプラン著『声は決して消えない』は、邦訳はされていませんが、親子のあいだで死後も続く「対話」について、アメリカの著名な心理療法家が生き生きと描いたものです。

No Voice Is Ever Wholly Lost No Voice Is Ever Wholly Lost
Louise J. Kaplan
Diane Pub Co (1995/6/1)
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 ところで、1916年のフロイトの論文「喪とメランコリー」以来、精神医学や心理学の理論においては、重要な他者の喪失の悲嘆から回復するためには、「死者の不在」という現実を理性的に受け容れ、それまで故人に備給されていたリビドーを撤収することが肝要であるとされてきました。しかし、このような古典的な考え方に対して近年は、実際に大切な人を失った人々はその後も故人と何らかの関係性を保ちつつ、様々な「対話」を行っているということが明らかにされ、グリーフケアにおいても死者との間の「持続する絆(Continuing Bonds)」というものが、重視されるようになっています。
 上のカプランの『No Voice Is Ever Wholly Lost』も、そのようなスタンスの嚆矢ですし、私が以前に「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」という論文で書いたことも、そのような考え方に基づいていました。
 上の文章で私が「三、死者との対話」に書いたことも、結局はそういうことですが、このようなアプローチに関する最も基礎的で包括的な文献が、下の2つです。

Continuing Bonds: New Understandings of Grief Continuing Bonds: New Understandings of Grief
Dennis Klass (編集)
Routledge (1996/2/1)
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Continuing Bonds in Bereavement Continuing Bonds in Bereavement
Dennis Klass (編集), Edith Maria Steffen (編集)
Routledge (2017/11/14)
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 2冊の編者である心理学者デニス・クラス氏は、日本を訪れた際にどの家にもある「仏壇」を見て、そしてそこで日本人が日常的に手を合わせて「死者との交流」を持っているのを目にして感嘆し、これが後に「持続する絆(Continuing Bonds)」という概念に結実していきます。上の1996年の編著では、日本において死者が生者のもとに帰還し、ともに暫しの時を過ごす「RITUAL TIME: O Bon」についても、興味深く紹介されています。