先日の「「ほんたうのさいはひ」を求めて(2)」という記事では、「銀河鉄道の夜」の「初期形一」→「初期形二」→「初期形三」→「最終形態」と、推敲が重ねられて行くに従って、作品の志向性が、「個別的幸福と普遍的幸福のどちらも実現しよう」というスタンスから、「個別的幸福から離れて普遍的幸福のみを求めよう」とする方向へと、舵を切っていくように思えるということを書きました。
実際、賢治自身の伝記的側面から見ても、たとえば『春と修羅』の前半頃までの彼の詩には、自分自身の恋愛をほのめかすような記述も散見されるのに対して、晩年の書簡下書252aでは、「私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから」などと書いていて、やはり彼は己れの個別的幸福は放棄して、ただ普遍的幸福の実現に目標を絞って、進んで行ったようにも見えます。
しかし、いくら賢治といえども、そんなに簡単に自分の感情を割り切ってしまえるわけでもなかったようで、たとえば「〔はつれて軋る手袋と〕」(「春と修羅 第二集」)には、次のような箇所があります。
丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる
ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて
笹がすこうしさやぐきり
たとへばねむたい空気の沼だ
かういふひそかな空気の沼を
板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ
……眼に象って
かなしいあの眼に象って……
あらゆる好意や戒めを
それが安易であるばかりに
ことさら嘲けり払ったあと
ここには乱れる憤りと
病ひに移化する困憊ばかり
これは、賢治が岩根橋の発電所まで行った帰り道、深夜に20kmほどの距離を花巻まで歩いている状況での心象スケッチですが、ここ出てくる「ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする」というのは、慎ましやかな夫婦のひと時の描写のように読みとれます。
そして、「さういふやさしいことを/卑しむこともなかったのだ」と回顧しているのは、自分がそのような夫婦のささやかな幸せというものを、蔑んで拒否していたことに対して、苦い悔恨を吐露しているのではないかと、感じられます。彼は、周囲からそのような幸せを薦める、「あらゆる好意や戒めを/それが安易であるばかりに/ことさら嘲り払った」というのです。
ところで、「〔はつれて軋る手袋と〕」の「下書稿(一)」や「下書稿(二)」には、上のような夫婦の情景は存在せず、これが現れるのは、黄罫詩稿用紙(22系)に書かれた「下書稿(三)」以降のことです。杉浦静氏の『宮沢賢治 明滅する春と修羅』(蒼丘書林)によれば、黄罫詩稿用紙(22系)の使用時期は、昭和6年(1931年)頃と推定されるということですから(同書p.245)、この頃になって賢治は、自分が過去において個別的幸福(≒結婚?)を放棄したことに対して、ふと悔恨を抱くことがあったのかもしれません。
また、1931年(昭和6年)の秋以降に書かれた「雨ニモマケズ手帳」には、「10.29」の日付のもとに、「厳に日課を定め/法を先とし/父母を次とし/近縁を三とし/社会農村を/最后の目標として/只猛進せよ」と書かれています。ここでは、「法」すなわち仏教を第一としながらも、「社会農村」よりも父母や近縁者の方を優先するというわけですから、上に挙げた書簡下書252aの考えとは、趣を異にしています。彼が一時は避けていた節のある「家族的な幸福」をも、あらためて積極的に肯定しようとしていたのかもしれません。
ただ、もしもこの時期に、このように「個別的幸福」も大切にしようという思いが彼の心をよぎったとしても、もう一方ではこの後も「銀河鉄道の夜」の推敲は続けられ、そこでは先に述べたように「個別的幸福よりも普遍的幸福を」という方向性が推し進められていたのですから、賢治の晩年の考えを、「個別も普遍も」か「個別より普遍を」のどちらか一方に限定するということはできないでしょう。
彼の心の中では、ずっと両者が葛藤していたのだと思います。
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