「烏の北斗七星」碑

p_026.jpg

1.テキスト

あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝようにはやくこの世界がなりますように、そのためならば、わたしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません

2.出典

「烏の北斗七星」(『注文の多い料理店』)

3.建立/除幕日

1965年(昭和40年)7月1日 建立

4.所在地

盛岡市材木町 光原社 中庭

5.碑について

 碑のテキストは、童話「烏の北斗七星」のなかで、山烏との戦闘を終えた「烏の少佐」の独白として語られる言葉です。これは 宮澤賢治の「反戦思想」を表すものと見なされて、よく引用もされます。

 しかし、彼の作品を見ていると、ほんとうはこの人はけっこう「軍隊」や「出征」が好きだったのではないかと思わせられる描写が、数多くあります。
 生物の命が失われることに対する悲しみは、人一倍持っていた賢治ですが、一方では国家主義団体「国柱会」の会員でもあったわけですし、思想として「反戦」を考えていたわけではなかったと思います。
 マルサスの影響を受けてか、父あての書簡の中には、「戦争は人口過剰の結果その調節として常に起るものに御座候」などという文も見えます。

 賢治が高等農林学校を卒業した1918年、おりしも第一次世界大戦のさなかでしたから、父は徴兵を逃れるために研究科に残ることをつよく勧めましたが、賢治は父への手紙で、次のように答えました。
 「今晩等も日露国交危殆等と折角評判有之、定めし御心痛の御事と奉察候へども総ては誠に我等と衆生との幸福となる如く吾をも進ませ給へと深く祈り奉り候…」
 すなわち、「我等と衆生との幸福」のために、戦場に行かせてくれと言うのです。許嫁を残して戦いに赴いた、烏の大尉のような意気込みです。
 ただ、このときの賢治は、勇んで徴兵検査を受けましたが、結果は「第二乙種」(補充兵相当)で、兵役につくことはありませんでした。
 もしもこの頃の賢治の身に万一のことがあったら、今の私たちは彼の作品に触れることはなかったわけですから、徴兵に落ちてくれてよかったですが、それにしてもほんとうにあぶなっかしい人です。

 この碑のある「光原社」とは、賢治が生前に童話集『注文の多い料理店』を出版した出版社で、その光原社という名前も、賢治の命名だそうです。
 現在は、喫茶店兼みやげ物屋のようなお店になって、繁盛しています。