先週の5月21日に、苫小牧で除幕式が行われた「牛」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。
碑石は、幅2.7m、高さ1.3mもあるという立派なもので、日高産の蛇紋岩だそうです。独特の存在感のある形をしているので、題材の「牛」にちなんで、「これは大きな『ベゴ石』のようだなあ」と言っている人もいました。
私は、前日土曜の夜遅くに飛行機で新千歳に着いて、その晩は苫小牧市にいる古い友人と一緒に、街のお寿司屋さんでホッキ貝やらツブ貝を食べて、当日の朝は、苫小牧名物という「ホッキカレー」を、駅の建物にある「カフェ駅」でいただきました。
右の写真のように、ホッキ貝の身がゴロゴロとたくさん入ったカレーで、貝らしい歯ごたえも旨みも、心地よいものです。
それから、賢治が夜に一人散策して「牛」を着想した場所と推測される、「前浜」地区へ向かいました。
私はこの浜辺には、ちょうど10年前の2007年5月にも来たことがあったのですが、当時は幅の狭い砂浜しかなかったところが、今は「ふるさと海岸」と名づけられてきれいに整備され、広々とした砂浜も復活していました。
遊歩道沿いには、上のような「木柵」も設けられていますが、もちろん今は牧場の跡形もありません。
ふるさと海岸から、除幕式の行われる旭町3丁目7まで歩いて戻ると、大通りに面した会場には、もうたくさんの人が集まっていました。
右のような「除幕」に続いて、詩「牛」の朗読、詩に曲を付けた歌の披露、来賓の挨拶、用地を提供された不動産会社の社長さんへの感謝状贈呈などがあり、30分ほどで式は終わりました。
この後、会場をグランドホテルニュー王子に移して、宮澤和樹さんの講演、宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事の富山英俊さんや、地元で賢治に関する活動に取り組んでおられる方々によるシンポジウムがありました。コーディネーターの斉藤征義さんの、「一番好きな賢治の作品は何ですか?」という質問に、富山さんが「青森挽歌」を挙げられたのが印象的でした。
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ところで賢治が、苫小牧で夜の浜辺に出て、「海鳴り」に記されたような苦悩を体験したのは、1924年5月21日の晩でした。
そしてその翌晩には、彼はもう室蘭港から青森へ向かう船中の人となっていたのです。前回「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「海鳴り」と「〔船首マストの上に来て〕」との間に賢治の心境の大きな変化があったとすれば、これは実質的には1日の間に起こったことだったわけです。
この室蘭―青森航路のように、「夜をずっと船上で過ごし、目的の港に着く直前に夜明けを迎える」というのは、賢治にとってはその前年に宗谷海峡を渡った稚泊連絡船以来のことです。(修学旅行往路の青森―函館は、昼間の便でした。)
稚内から大泊に渡った時の状況は、あの「宗谷挽歌」に一部が記されていたわけですが、9か月ぶりの夜の船上では、宗谷海峡における「挑戦」とはまた大きく方向性の異なった、心の動きがあったのでしょう。
賢治の心境変化の上で、「宗谷挽歌」と同じ「夜の船上」という環境が、何か大きな役割を果たしたのではないかとも思ったりします。
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