昨年夏に花巻で行われた「第4回宮沢賢治国際研究大会」には残念ながら参加できなかったのですが、その際に行われたシンポジウム「イーハトーブは今どこにあるのか」における各演者の発表内容が、つい先日送られてきた宮沢賢治学会の「会報第54号」に掲載されていました。
その中でも、とくに岡村民夫さんの「潜在力の設計者、宮沢賢治」という文章を、とても興味深く読ませていただきました。
この中で岡村さんは、次のように述べておられます。
「竜と詩人」という作品は、インドを舞台とした仏教説話のような体裁をとっています。詩の大会でスールダッタという新進詩人が一位になって、それまで最優秀詩人の座にあった老詩人が退位する。そのとき老詩人はスールダッタを讃えて、こんな即興詩をうたいます。
風がうたひ雲が応じ波がならすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ
星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する
あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる予言者、設計者スールダッタふつう詩人は「設計者」とは考えられていないのに、ここでは「設計者」と呼ばれています。賢治にとっての詩人、賢治的な詩人とは、「設計者」なのです。そしてこの「設計者」は、既存のモデルを一方的に環境に対して押し付ける者ではなく、環境自体に潜んでいる「潜在力」を、望ましい形で実現しようとするデザイナーを意味しています。これは「イーハトーブ」という概念に深く関わってきます。(「宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第54号」p.23より)
ここで岡村さんが指摘しておられる、「設計者」としての詩人、すなわち「環境自体に潜んでいる「潜在力」を、望ましい形で実現しようとするデザイナー」としての詩人という賢治独特の考えは、たとえば詩断章「〔生徒諸君に寄せる〕」においても、次のように描かれています。
新たな詩人よ
嵐から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ
ここにおける「新たな詩人」は、「人と地球にとるべき形を暗示」するという仕事をしますが、これは「竜と詩人」の方では、「あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくり……」というところに相当するわけです。その意味で、やはりこちらの詩人も、「設計者」です。
しかしそれと同時に、これらの詩人は、岡村さんが書いておられるように「既存のモデルを一方的に環境に対して押し付ける者」ではありません。たとえどんなに偉大な詩人でも、その詩にうたうという行為によって、世界を自分の「設計」のままに自由に改変できるなどということはありえません。
スールダッタは、「風がうたひ雲が応じ波がならすそのうたをたゞちにうたふ」ことによって、「星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する」、その「覚悟」の内容を、誰よりも速く正しく知ることができます。また「〔生徒諸君に寄せる〕」の「新たな詩人」は、「嵐から雲から光から/新たな透明なエネルギーを得」ることによって、「とるべき形」を構想することができるのです。
この側面は、「竜と詩人」で「予言者、設計者スールダッタ」と呼ばれているうちの、「予言者」に相当する側面です。詩人は、自然の変化を素早く「感じとる」ことができるのです。
しかしここでちょっと考えてみると、「予言者」であるということと、「設計者」であるということは、本来は相容れないことであるはずです。
「予言者」というのは、自分の意志の関与しない未来の現象に対して、その成り行きをあらかじめ知ることができる人です。
これに対して「設計者」とは、自分の意志にもとづいて、実現すべき未来を能動的に構想する人のことです。
たとえば、もしも予言者が、「いついつ、これこれの事件が起きる」ということを前もって言っていて、そのとおりに事件が起こったら、予言は正しかったということで予言者の評判は上がるでしょう。しかしその後、実はその事件はかの予言者が自分で計画したものだったことがバレてしまったら(つまり実は「設計者」であったなら)、もはやその人は「予言者」ではなく、「詐欺師」だったということになってしまいます。
二つを区別するのは、出来事を起こした「意志」が、対象の側か自分の側か、どちらにあったのかということです。自分の意志と無関係に、対象の側の意志や法則で起こる出来事を言い当てたら、それは「予言者」ですし、その出来事を自分の意志で企画したら、「設計者」になります。
ですから、一つの出来事について「予言者」であり、同時に「設計者」であるということは、概念的にはありえないことなのです。
しかしそれならば、いったいなぜスールダッタは、この二つの名で同時に呼ばれうるのでしょうか。
その謎は、「竜と詩人」の続きを読めば解けてきます。詩の大会で自分のうたった詩が、実は老竜チャーナタの歌をぬすみ聞いたものではないかという噂を耳にしたスールダッタは、竜のもとに許しを乞いに来ますが、これに対して竜は次のように答えます。
スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考へたのであるか。おまへはこの洞の上にゐてそれを聞いたのであるか考へたのであるか。
おゝスールダッタ。
そのときわたしは雲であり風であった。そしておまへも雲であり風であった。詩人アルタがもしそのときに冥想すれば恐らく同じいうたをうたったであらう。けれどもスールダッタよ、アルタの語とおまへの語はひとしくなくおまへの語とわたしの語はひとしくない韻も恐らくさうである。この故にこそあの歌こそはおまへのうたでまたわれわれの雲と風とを御する分のその精神のうたである。
つまりここで、詩人スールダッタという存在は、雲や風と同一化しており、竜もまた雲や風と同一化しており、それらすべてが渾然一体となっていたというのです。
もしも、詩人がうたった内容が、「星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する」ことだけ、すなわち「自然の意志」のみであったなら、詩人は「予言者」ではありますが、「設計者」ではありません。一方、詩人が「あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる」のみであれば、そこに反映しているのは「詩人の意志」だけであり、詩人は「設計者」ではあるが「予言者」ではありません。
ところが、ここで老竜チャーナタが言っているのは、これは「自然の意志」であるとともに、同時にまた「詩人の意志」でもあるという、不可分の融合状態が実現していたのだということです。
ここでは、詩人は自らの「主体」を放棄して、自然の中に完全に溶解してしまっているのです。あるいは、自らの「主体」の中に自然を吸収包含して、自らが自然そのものと化してしまっているのです。
賢治における、このような自己と自然との一体化を典型的に表現しているのは、いつも引用しているところですが、「種山ヶ原」の下書稿(一)第一形態に出てくる次の一節です。
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
ここで賢治は、大好きな種山ヶ原の自然の中で恍惚として、「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と感じます。まさに、自然に溶解しつつ一体化しているのです。
そしてこのような自己と自然との一体化こそが、彼の「心象スケッチ」という方法論を基礎づけるものでした。
彼は、『春と修羅』の「序」の中で言います。
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
賢治は、この世界における現象は、すべて「こゝろのひとつの風物」=「心象」なのだと考えていました。だからこそ、「心象」を克明に「スケッチ」することが、この世界の科学的な「記録」にもなりうると考えていたのです。
しかし、それならば賢治の認識論は、この世界には自分の「こゝろ」しか存在しないという「独我論」だったのかというと、そうではありません。上の引用部の最後の、(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という箇所に表れているように、賢治にとって「こゝろ」は、世界全体を包含するとともに、世界の中の小さな一部でもあるからです。
無論そう言われても、簡単にはぴんときません。世界を包含しながら、同時にその小さな一部でもあるという存在様式は、形式論理的にはありえないことだからです。
どうしてこんな不思議な事態が起こるかというと、賢治の「自己」は、とても境界が薄くて、自由自在に伸び縮みする性質を持っており、ある時は世界そのものと一体化するほど大きく拡散するけれど、またある時は小さく縮むというものだったのです。
その様子は、たとえば下のアニメーションスライドのようなものです。
「世界の一部である」自己が、このように、ある時は世界全体を包含してしまうのです。
ところで一般に、人間の精神活動は、「知」「情」「意」という三つの側面に分けて考えられます。
賢治にとって、「心象スケッチ」という手段が世界記述の方法として成立する根拠は、「自己の心象についての認識は、世界についての認識に一致する」ということにありました。つまり「知」の領域において、「自己と世界の一体化」が表れていたわけです。上のアニメーションをご覧いただくと、自己が膨張して世界と一体化している時には、「心象スケッチが世界のスケッチである」ということが、一目瞭然だと思います。
そして今回見たように、「予言者でありかつ設計者である」という詩人スールダッタのあり方は、「自己の意志が、世界の意志でもある」という構造に基づいていました。これはつまり、「自己と世界の一体化」が、「意」の領域で表れているということになります。
残りの一つの「情」において、「自己と世界の一体化」が表れると、「自己の感情と世界の感情が一致する」ということになります。これは、生前の賢治が示していた、「他者に対する並はずれて鋭敏な共感性」というものに相当するでしょう。
「農民芸術概論綱要」の中の次のような言葉は、こういう「自己と世界の一体化」という観点も併せることで、真に理解されるものだと思います。
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
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