自宅の録画機に、たまたま「ネバーランド」という映画が自動録画されていたので、とくに期待もせずに連休の深夜にぽーっと見始めたのですが、これがとても感動的な作品でした。
物語は、戯曲「ピーター・パン」を書いたイギリスの劇作家、ジェームズ・バリの生涯における一コマを、実話をもとに描いたものです。
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作品の不評や妻との不仲に悩んでいた劇作家バリは、ケンジントン公園を散歩している時に、4人の男の子を連れた未亡人シルヴィアと出会います。彼は母子家庭の苦労を放っておけず、子供たちの良き遊び相手になりながら、未亡人を支え始めます。様々な困難を抱える家族でしたが、とくに三男ピーターは、父の死の悲しみに閉じこもりがちで、なかなか心を開きませんでした。しかしバリが彼に、「書くこと」の素晴らしさを伝えようとするうちに心の交流が生まれ、またバリ自身も4人の子供たちにインスピレーションをもらいながら、新作劇「ピーター・パン」を制作していきます。
完成した「ピーター・パン」の初演は、大成功でした。子供たちも劇場に招待されましたが、少し前から重い病に伏せっていたシルヴィアは、その舞台を見に行くことはできませんでした。
しかしバリは、シルヴィアの自宅の居間で、「ピーター・パン」の特別上演を行います。シルヴィアは念願の「ネバーランド」を目にすることができたのですが、まもなく彼女は世を去ってしまうのでした。
またしても喪失の悲しみに打ちひしがれる少年ピーターでしたが、映画の最後で、そのピーターとバリが、初めて出会ったケンジントン公園のベンチで、彼女の死について言葉をかわします。(上のDVDのカバーの場面ですね。)
このラストシーンが本当に素晴らしくて、Amazon のレビュー欄を見ても、「巻き戻して見た」「涙が止まらなかった」というコメントがたくさん並んでいます。
とうとうピーターは、父に続いて母も亡くしてしまったわけですが、実はジェームズ・バリも、子供時代に両親を亡くしていたのです。そしてまたバリにとっては、いつしか深く心の支えとなっていたシルヴィアを失ったことも、さらなる喪失体験でした。
映画のラストは、この「大切な人を失う」という、人間にはどうしようもない悲しみをめぐる対話です。
ピーター: まさか、母さんがいなくなるなんて。
バリ: 僕も思ってなかった。
でも、ほんとうは……、
お母さんは今もいる。
だって、お母さんは君の心の、全部のページに
いるんだから。
いつだって、そこにお母さんはいる。
いつだって。
ピーター: でも、どうして母さんは死んじゃったの?
バリ: わからない。
でも、君のお母さんについて考えると…、
僕はいつも、あの人がなんて幸せそうだったかを
思い出すんだ。
居間に座って、
自分の家族についての劇を見ていた。
大人にならない子供たちの劇……。
お母さんはね、ネバーランドに行ったんだ。
そして君は、いつでも好きな時に、
お母さんに会いに行ける。
ただ君が、自分でそこへ行きさえすればいいん
だ。
ピーター: どうやって行くの?
バリ: 信じることでだよ、ピーター。
信じるだけ。
ピーター: 僕、母さんが見える。(完)
(こちらのページに掲載されている台本原文からの私訳です。)
(画像は、東芝エンタテイメント(株)発売のDVDより)
※
ピーターの質問、「どうして母さんは死んじゃったの?」に対して、そのまま答えるとすれば、「病気のため」ということになりますが、バリはそうは答えず、「わからない」と言います。ピーターの質問の真意は、「母の死因」などという表層的なところにはないことを、バリーもわかっていたからです。きっと、ピーターがもっと大きかったら、「僕の母が、理不尽にも、『死』などという運命を甘受しなければならなかったのは、いったい何故なのか?」、あるいは「どうして僕は、大切な父に続いて母までも、この『死』というものによって奪われなければならないのか?」と問いかけたかもしれません。
バリを心から信頼するようになったピーターは、父の死以来ずっと自分の心の最も内奥にあった、この最も重大な問題を、最後に意を決してバリに投げかけたのです。そして、バリはこの問いに、いったん「わからない」と言いましたが、次いで自分とともに永遠にいるであろうシルヴィアの姿について語ります。そして、「お母さんはね、ネバーランドに行ったんだ」と答えるのです。
「ネバーランド(Neverland)」とは、劇中でピーター・パンたちが暮らしている場所の名前ですが、その意味は、「どこにもない土地」です。「ユートピア(utopia)」という言葉が、ギリシア語の「どこにもない場所」という意味の造語であるのと、同じ成り立ちですね。
ですから、バリがピーターに答えた、「お母さんはネバーランドに行った」というのは、「どこにもない土地に行った」ということで、これは言いかえれば、「お母さんは、どこに行ったかわからない」というのと、同じことを言っているのです。
ここで私は、賢治の「薤露青」の、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という一節を、連想せずにはいられません。
ある時から、賢治にとってトシも、「どこへ行ってしまったかわからない」からこそ、逆に「どこにでもいる」存在になったのです。バリやピーターがシルヴィアについて、「いつだって、そこにお母さんはいる」「いつでも好きな時に会いに行ける」「母さんが見える」と言うのと同じように、賢治も「薤露青」や「〔この森を通りぬければ〕」に記したように、そこかしこからトシの声が聞こえるようになったのです。
そしてこれによって賢治は、トシの喪失の悲嘆から、真の意味で救われていったのでした。
大切な人との「死別」をテーマとしたこの映画は、私の思うところでは宮澤賢治が妹トシに対して持つに至ったと同じような、「死者との関係性」について描いているように感じられました。
それにしても、ジョニー・デップという俳優の、奥の深さというか引き出しの多さには、あらためて感嘆しました。ここでもバリという人物の持つ悲しみ、ユーモア、葛藤などを、本当に素敵に表現していました。また、少年ピーターを演じた子役のフレディ・ハイモアも可愛くて切なくて、心に残りました。すっかりフレディに感心したジョニー・デップは、自分が「チャーリーとチョコレート工場」の主役に決まった時、「チャーリー役はフレディに」と監督に強く推薦したのだそうです。あと、劇場支配人のダスティン・ホフマンも、年を経ていい味ですよね。
これは、お薦めの映画だと思いました。
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