宮澤賢治 『永訣の朝』の授業 トシへの約束 石黒 秀昭 幻冬舎 2016-11-22 Amazonで詳しく見る |
高校における「永訣の朝」を題材とした国語授業を収めた、石黒秀昭氏の『宮澤賢治『永訣の朝』の授業 トシへの約束』(幻冬舎)は、「風林」に対するとても興味深い解釈を提示しています。
石黒氏は、まず生徒たちに、プリントで配布した「風林」を読ませます。
風林
(かしはのなかには鳥の巣がない
あんまりがさがさ鳴るためだ)
ここは艸があんまり粗く
とほいそらから空気をすひ
おもひきり倒れるにてきしない
そこに水いろによこたはり
一列生徒らがやすんでゐる
(かげはよると亜鉛とから合成される)
それをうしろに
わたくしはこの草にからだを投げる
月はいましだいに銀のアトムをうしなひ
かしははせなかをくろくかがめる
柳沢の杉はなつかしくコロイドよりも
ぼうずの沼森のむかふには
騎兵聯隊の灯も澱んでゐる
《ああおらはあど死んでもい》
《おらも死んでもい》
(それはしよんぼりたつてゐる宮沢か
さうでなければ小田島国友
向ふの柏木立のうしろの闇が
きらきらつといま顫えたのは
Egmont Overture にちがひない
たれがそんなことを云つたかは
わたくしはむしろかんがへないでいい)
《伝さん しやつつ何枚、三枚着たの》
せいの高くひとのいい佐藤伝四郎は
月光の反照のにぶいたそがれのなかに
しやつのぼたんをはめながら
きつと口をまげてわらつてゐる
降つてくるものはよるの微塵や風のかけら
よこに鉛の針になつてながれるものは月光のにぶ
《ほお おら・・・・・・》
言ひかけてなぜ堀田はやめるのか
おしまひの声もさびしく反響してゐるし
さういふことはいへばいい
(言はないなら手帳へ書くのだ)
とし子とし子
野原へ来れば
また風の中に立てば
きつとおまへをおもひだす
おまへはその巨きな木星のうへに居るのか
鋼青壮麗のそらのむかふ
(ああけれどもそのどこかも知れない空間で
光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
・・・・・・・・・・・・此処あ日あ永あがくて
一日のうちの何時だがもわがらないで・・・・・・
ただひときれのおまへからの通信が
いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)
とし子 わたくしは高く呼んでみやうか
《手凍えだ》
《手凍えだ?
俊夫ゆぐ凍えるな
こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい》
俊夫といふのはどつちだらう 川村だらうか
あの青ざめた喜劇の天才「植物医師」の一役者
わたくしははね起きなければならない
《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》
《川村》
やつぱりさうだ
月光は柏のむれをうきたたせ
かしははいちめんさらさらと鳴る
そして、この詩について、教師の石黒氏は生徒たちに問いかけ、次のような対話か行われます。
教師 この詩の中にトシの(Ora Orade Shitori egumo)の言葉の前に、賢治とトシが交わしたと思われる会話がある。それを抜き出しなさい。
生徒 16行目の《ああおらはあど死んでもい》と17行目の《おらも死んでもい》
教師 そうですね。《ああおらはあど死んでもい》はトシがいった言葉でしょう。《おらも死んでもい》はその言葉を聞いた賢治が言ったのです。そして、その賢治の言葉にトシが答えたらしい言葉がある。何行目ですか?
生徒 32行目の《ほお おら・・・・・・》
教師 そうです。32行目の《ほお おら・・・・・・》の・・・・・・は何かが省略されている。何が省略されているのでしょうか?
生徒 (Ora Orade Shitori egumo)「わたしはわたしひとりでいくもん」とトシは言った!
教師 そうです。32行目のトシの言葉《ほお おら・・・・・・》の・・・・・・で何を言ったのか隠されていますが、実際に言ったのが(Ora Orade Shitori egumo)でしょう。つまり、トシは「私は一人で死ぬもん」と言ったのです。
石黒氏は、「風林」に出てくる《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という会話は、トシと賢治の間で実際に交わされた言葉を、賢治がここで思い出しているのだと、解釈しておられるわけです。
この「風林」という作品は、トシの死から約6か月後の1923年6月3日に、賢治が農学校の生徒たちを引率して岩手山に登った際のスケッチであると推定されています。時刻は夕方のたそがれで、生徒たちは草原に一列横になって休憩しています。賢治も、「草にからだを投げ」て、休みながら景色を眺めています。
するとそこに問題の、《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という言葉が現れるのです。ここで賢治は、妹トシとの会話を回想しているのでしょうか。
しかし、この言葉の次の行には、「それはしよんぼりたつてゐる宮沢か/さうでなければ小田島国友」とあり、そのつながりを見ると、この二重括弧《 》で囲まれた言葉は、この時賢治が実際に耳にしたものであり、それを言ったのが「宮沢」か「小田島国友」かどちらだろうか?と、賢治が推測していると考えるのが自然ではないでしょうか。数行後に出てくる、「たれがそんなことを云つたかは…」という言葉も、この《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という会話の「話者」のことだと思われます。
ちなみに、『新校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇のp.116-117に掲載されている「稗貫郡立農蚕講習所・稗貫農学校・花巻農学校在職時指導生徒卒業生名簿」を参照すると、ここに「宮沢」とあるのは、大正14年3月卒業生の「宮沢(臼崎)吉太郎」のことかと推測され、「小田島国友」は、大正13年3月卒業生です。(大正14年卒業生は、この詩が書かれた時点では第1学年、大正13年卒業生は第2学年にあたります。)
あと、この作品に出てくる生徒名を上記名簿で探すと、「佐藤伝四郎」は大正13年卒業生におり、《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》《川村》と出てくるのは、字が一つ違っていますが、大正13年卒業生の「長坂(川村)俊雄」と推測されます。「どっちの俊夫」とあるのは、同じ学年に「高橋俊雄」もいるためでしょう。「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」という「堀田」は、やはり大正13年卒業生の「堀田昌四郎」と思われます。
このように、作品中の名前は、すべて現実の生徒と対応しているのです。
また、作品32行目に出てくる《ほお おら・・・・・・》も、その次の行に「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」とあるところから、堀田伝四郎が実際に言った言葉だと考えられます。石黒氏は、やはりこれはトシの言葉だと解釈し、この「・・・・・・」の部分は賢治が省略したのであって、実際にはここに(Ora Orade Shitori egumo)が続いたのだと考えておられますが、この解釈では次の行の「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」が、意味不明になります。
石黒氏が、賢治とトシの会話であると解釈しておられる上記の言葉以外にも、この作品には二重括弧《 》で囲まれた会話文が、いくつも出てきます。それは、25行目の《伝さん しやつつ何枚、三枚着たの》、50-53行目の《手凍えだ》《手凍えだ?/俊夫ゆぐ凍えるな/こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい》、57-58行目の《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》《川村》、の三か所です。これらはいずれも、生徒たちが実際にしゃべった言葉と思われます。
そのような中で、もしも《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》《ほお おら……》に限っては、トシと賢治の会話を賢治が回想しているのならば、他の作品における賢治の表記方法から推測すると、ここは二重括弧ではない別の記号で表すはずだと、私は思います。
すなわち、すべてが同じ二重括弧で表記されているところからも、《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》《ほお おら・・・・・・》は、それ以外と同じく生徒の言葉だったと考えるのが妥当だろうと、私としては思うのです。
ただしかし、この《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》《ほお おら・・・・・・》という言葉が、トシの死に臨む賢治の気持ちの一側面を「代弁」するものだったのだろうということは、私も強く感じるところです。
《ああおらはあど死んでもい》に関しては、「噴火湾(ノクターン)」の中で、実際にトシが述べた言葉として、回想されています。
七月末のそのころに
思ひ余つたやうにとし子が言つた
《おらあど死んでもいゝはんて
あの林の中さ行ぐだい
うごいで熱は高ぐなつても
あの林の中でだらほんとに死んでもいいはんて》
トシがこれを言った7月末のある日、これに対して賢治がどう言ったかは記されていません。《おらも死んでもい》と言ったのかもしれませんが、そうでなかったのかもしれません。
ただし、賢治がそれを口にしていようといまいと、その心の中には、今後どこまでもトシに付き添って行ってやりたい、「死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらう」という気持ちが強くあっただろうということは、私も以前からいくつかの記事で書いてきたとおりです。
そして、そのような賢治の気持ちを「否定」したトシの言葉が、「永訣の朝」における(Ora Orade Shitori egumo)だったのです。だからこそ、このトシの言葉は、ここだけローマ字で表記されなければならないほど、賢治にショックを与えたのです。
石黒氏は、この本の「あとがき」に、次のように書いておられます。
「先生の解釈は汚らわしい。」
もう何年も前の話だが、私は同僚の国語教師に『永訣の朝』の(Ora Orade Shitori egumo)の授業を見せた。妹トシが(Ora Orade Shitori egumo)と言ったのは、兄の賢治が自分も死ぬと言ったからだと授業をした。それに対して、同僚はこうコメントしたのである。
その時ばかりではない。私は国語教師の仲間たちと国語の教材の勉強会を毎月行っていた。私が『永訣の朝』の(Ora Orade Shitori egumo)の解釈を披露したところ、仲間たちが激しく怒り出した。そんな解釈があるはずはない、お前の解釈はオカシイと。だが、彼らの反発は私の解釈のどこがどう間違っているのかを指摘するものではなく、ただ、ただ、感情的にそんなことがあり得るはずがない、賢治がそんなことを妹のトシに言うはずがないという、非論理的な反発だった。
石黒氏の解釈は、一般に流布している宮澤賢治という人の、聖人君子的なイメージにはそぐわないので、こういう反発を受けるのでしょう。賢治が実際にトシに向かって、トシが死んだら自分も死ぬと言ったのかどうかについては、私にはわかりませんが、しかし少なくとも心の中では、そのように思いつめていたのだと、私も石黒氏と同じように思います。
そして、たとえ賢治が口に出して言っていなかったとしても、トシには兄の考えがはっきりとわかっていて、だからこそ彼女は、“Shitori egumo”=「(兄さんと一緒ではなく)一人で行くもん」と言ったのだと、私も思います。
この点については、私も石黒氏の説に、深く共感する者です。
※
さて、「風林」に戻りますが、この岩手山登山において、十代半ばの生徒がふと、《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》などという会話をしたというのは、たしかにちょっと異様なことではあります。
たとえ若者でも、辛くて苦しくて「死にたい」と言うことはありえますが、この作品における《死んでもい》は、いい意味で、感動して出た言葉でしょう。人間は、何か人生をかけるほどの願いがかなった時、あるいは恍惚として我を忘れた時、ひょっとしたら「ああ俺はもう死んでもいい」とつぶやくことがあるかもしれませんが、まだ人生もこれからという思春期の少年が、「死んでもいい」などと口にする状況は、はたしてどんなものだったのでしょうか。仲間と一緒に岩手山に登り、雄大な景色に心を奪われて、この言葉を発したということでしょうか・・・。
私にはちょっとどのような状況だったのかはわかりませんが、しかしそれをふと耳にした賢治にとっては、この言葉は心に非常に大きな波紋を引き起こしたことでしょう。これはまさに、前年の7月末にトシが言った言葉に、ぴったりと重なるからです。
動揺した賢治は、いったい誰がこんなことを言ったのだろうと、一瞬考えようとしますが、しかしすぐに、「たれがそんなことを云つたかは/わたくしはむしろかんがへないでいい」と思い直します。
その言葉の話者は、生徒の誰かでもあるとともに、賢治にとってはトシでもあるからです。
《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という会話を耳にした直後、賢治は「向ふの柏木立のうしろの闇が/きらきらつといま顫えた」のを見ますが、それを賢治は、「Egmont Overture にちがひない」と感じます。
ベートーヴェンの「エグモント序曲」で、「闇がきらきらっと顫える」という感じの箇所としてどこがあるだろうかと考えてみましたが、序奏の冒頭の、どーんと重厚に強奏が響くところは、トシの言葉を思い出した賢治のショックを表すにはいいですが、「きらきらっと」という感じではありません。序奏のもう少し後の木管の掛け合いのところとか、提示部に入って第二主題の後半のやはり木管の奏する部分とかだと、「きらきらっと顫える」感じもします。
一方、原子朗さんの『定本 宮澤賢治語彙辞典』を見ると、音楽の響きというよりも、「エグモント」というゲーテの戯曲の内容と、この時の賢治の心理の関連性の方が、ここでは重要だったのかと思えてきます。ゲーテの「エグモント」によれば、アルバ公爵という圧制者に対して抵抗したエグモント伯が、公爵に捕えられ、死刑を宣告されます。そして、エグモントの恋人クレールヒェンは、エグモントを救おうとするもかなわず、絶望して自殺してしまいます。その幕切れで、刑場に向かうエグモントは、「最愛の者を救うために、喜んで命を捨てること、我のごとくあれ」と叫ぶというのです。
死を運命づけられたエグモントよりも、クレールヒェンは先に死んでしまうのですが、しかしここには、トシに対して「死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらう」と思いつめていた賢治と、相通ずるものがあります。生徒たちの《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という言葉から、賢治が自分とトシを連想した時、このエグモントとクレールヒェンも、一緒に心に現れたのかもしれません。
ふと私は、ここで賢治はトシの(Ora Orade Shitori egumo)という言葉を思い出して、その語尾の“egumo”から、“Egmont”を連想したのかもしれないということも想像しましたが、さすがにこれはこじつけでしょうね。
※
下の、クルト・マズア指揮ライプチヒゲヴァントハウス管弦楽団による演奏は、東ドイツの「平和革命」の20周年を記念したものだそうです。ゲーテとベートーヴェンというこの国を代表する芸術家によって作られた、「圧政からの解放」という主題に基づいた作品は、まさにこの演奏会の趣旨にふさわしいものですね。
nakashonobuo
ご無沙汰しています。「風林」と言う詩は私の射程にはなかったので、改めて読んだのですが、この解釈はとても納得できるものだと思います。こじつけとして退けていらっしゃいますが、"egumo"→"egmont"の連想も十分あり得ると思います。詩人の創作の中で、音が響き合い、ゲーテの戯曲が重なり合って、言葉が紡ぎ出されてくる、その微妙な繋がりが其処にあります。因みに感情的に新解釈を排斥する同僚の教師は、ありがちな一場面ではありながら、だからこそ一冊の本に結集する力となったのかも知れません。
hamagaki
nakashonobuo 様、コメントをありがとうございます。
この「風林」という作品は、トシが亡くなった1922年11月27日の日付を持つ「永訣の朝」等の三部作の後、半年あまりの沈黙を破って久々に詩集に現れたものですが、作品の中ほどに出てくる(言はないなら手帳へ書くのだ)という言葉は、まさにこの半年間の賢治が、自分自身に対して言ってきたことなのではないかと思います。
彼は、トシを失った苦悩を、人前ではさほど口にしなかったでしょうが、きっと手帳にはこの間にたくさんの言葉が書きつけられていたはずだと思います。
ただし、それが作品化されたのは、この「風林」からでした。
ところで、あらためて考えてみれば、"egumo"→"egmont"というような、音韻のつながりを介したテキストの展開は、能の謡でもなじみ深いものですね。
この本の著者の方にとって、周囲からの反発が、「一冊の本に結集する力」になったのかもしれないというご指摘には、私も共感します。
コバヤシトシコ
「風林」は、私の好きな詩のひとつです。
トシを失った悲しみが心に沈潜しているのに、不思議に明るいですね。
「風」にも関心があったので、「エグモント」に象徴される風も不思議な魅力があります。
いま所属する会でちょうど「風林を取り上げていて、詩中の生徒の名前を調べていました。
お話の中に〈するここに「宮沢」とあるのは、大正14年3月卒業生の「宮沢(臼崎)吉太郎」のことかと推測され〉とございますが、この〈宮沢〉は改姓後のものではないでしょうか。
名簿の中で、長坂(川村)となっていて、〈長坂〉が改姓後の姓です。
もしこの考えが違っていたらごめんなさい。 私たちも、この〈宮沢〉が誰なのか疑問に思っています。お教えいただければ幸いです。
hamagaki
コバヤシトシコ様、鋭いご指摘を、ありがとうございます。
実は、私もここは気になっていた箇所なのですが、ちょっと煩雑になるかと思ったので、上の記事中では触れずに済ませてしまいました。
ご指摘のように、「宮沢(臼崎)吉太郎」とある「宮沢」は、改姓後の姓で、元の姓は「臼崎」と思われます。「長坂(川村)」もそうですし、以前に「福田パン」の話で取り上げた「福田(及川)留吉」も、あるいは「沢里(高橋)武治」も、そうです。
宮沢(臼崎)吉太郎は、大正14年3月卒業で、この頃の花巻農学校の修業年限は2年だったことから、入学は大正12年4月と推測されます。「風林」が書かれた1923年(大正12年)6月の時点では、入学してからまだ2か月です。
作品中で「宮沢」と呼ばれているのがこの生徒だとすると、4月に「臼崎吉太郎」として入学し、2か月後の6月の時点で、もう「宮沢吉太郎」と改姓していたということになるわけです。
これは、絶対にありえないこととは言えませんが、可能性としては低いことだと言わざるをえません。
また、作品中に出てくる生徒は、他はすべて2年生なのに、宮沢吉太郎だとすれば一人だけが1年生なのも、気になるところです。
《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という会話は、どちらが宮沢かはわかりませんが、同級生どうしのような感じがします。
つまり、「風林」に出てくる「宮沢」が「宮沢(臼崎)吉太郎」のことだと推測することには、いくつか問題があるわけです。
しかし、卒業生名簿を見るかぎりでは、この「宮沢(臼崎)吉太郎」以外に該当する生徒は存在しません。
当時は別の「宮沢」が在校していたが、中退するなどして卒業しなかったという可能性も考えられますが、ちょっと苦しい仮定です。
上の記事中では、宮沢(臼崎)吉太郎が改姓した時期が不明である以上、「風林」の時点で「宮沢」だった可能性はありえるし、他の可能性を示唆する具体的な根拠はないことから、とりあえず「宮沢(臼崎)吉太郎」としました。
しかし、上記のようにこの推測にもかなり問題があることから、ここで別の可能性を考えてみることも、許されるかもしれません。
一つの仮説としては、これは賢治が「声」を聴き、「しよんぼりたつてゐる」姿を見た、「宮沢トシ」の幻影だったのではないか、という考え方もありえるでしょう。
あるいは、賢治は幻影を見たり聞いたりしたわけではなく、《ああおらはあど死んでもい》は小田島国友の声だと思ったが、あまりにもトシの言葉を彷彿とさせたので、創作として「宮沢か」と書いたのか、と考えてみることができるかもしれません。
コバヤシ様や会のお仲間の方のお考えがありましたら、お教えいただければ幸いです。
コバヤシトシコ
早速、コメントいただき有り難うございます。
一番、納得がいくのは、〈中退していた生徒〉ですが、お話のように確かに苦しい仮定かもしれません。
〈創作として「宮沢か」と書いた〉というお考えは納得できます。トシの幻影そのままなら、〈宮沢〉とは云わない気がしますから。
些末なことを申し上げてすみません。
会の人たちとも話をしてみたいと思いますし、何か伝記資料を見つけられればいいと思います。