賢治は三浦参玄洞とは会わなかった

 「賢治生誕120周年」の2016年が終わりましたが、今年は「中外日報創刊120周年」にあたるのだそうです。

 『中外日報』は、真渓涙骨が1887年(明治20年)に京都で『教学報知』として創刊した仏教関係の新聞で、1902年(明治35年)に『中外日報』と改題して、現在も「宗教・文化の新聞」として継続されています。「近代日本の宗教ジャーナリズムの礎を築いた」と評されるこの新聞は、宮澤賢治よりも1歳年下だったわけですね。
 さらに、われわれ賢治ファンにとってこの新聞は、賢治の父・政次郎が購読していたことによって、賢治の目にもしばしば触れていたであろうことが推測される上に、1921年(大正10年)4月の父と二人の関西旅行の際には、二人で京都の本社を訪れたことが、父の回想によって記録されています。
 この京都における父子の中外日報社訪問については、以前に「「中外日報社」のあった場所」と「「中外日報社」旧社屋は現存していた!」という記事に書いたことがあり、私にとっても印象深いものがあります。
 そもそも、生前の賢治が確かに見ていた建物が、それなりの改修はされているにせよ当時のままの外形で現在も残っているなどというのは、花巻では「旧菊池邸」や「旧稗貫郡役所」(大迫に移設)、盛岡では「旧盛岡高等農林学校本館」や「岩手銀行」、奥州市の「旧水沢緯度観測所」、東京の「旧帝国図書館」など、全国的にもごく限られているのです。その一つが、なんと岩手から遠く離れた京都にもあったというのですから、それを知った時の喜びは、私にとっては格別でした。
 ちなみに、この「旧中外日報社屋」の状況は、私が上の記事を書いた後にもさらに変化して、現在は建物の前の庭がコインパーキングになってしまって、建物そのものは逆に正面からは見えやすくなっています。しかし、以前の記事をご覧いただいたらわかるように、この前庭もなかなか魅力的なものでしたから、これが消失したのは寂しいことです。
 下の写真が現在の状況で、Googleマップのストリートビューからキャプチャしたものです。

旧中外日報社屋
Googleマップより

 それはさておき、元日付で発行された『中外日報』の新春特別号では、創刊120周年を記念して、「中外日報を彩った文化人」という特集が掲載されていました。ここでは、「新村出と真渓涙骨」、「藤本義一と今東光」、「小笠原登と小笠原秀実」、「司馬遼太郎と青木幸次郎」というコンビとともに、「宮沢賢治と三浦参玄洞」が取り上げられているのです。

 三浦参玄洞は、1884年(明治17年)に奈良県宇陀郡政始村(現・宇陀市)の農家に生まれ、早稲田大学や仏教大学(現・龍谷大学)に学ぶも中途退学し、得度を受けて奈良県南葛城郡掖上村(現・御所市)の誓願寺の住職となりました。三浦は当初から、差別の問題に強い関心を持って運動にも拘わっていましたが、1922年(大正11年)の「全国水平社」設立にあたっては、その中心メンバーの一人だった西光万吉を、強力に支援しました。
 しかし、小作争議で小作人の側に立ち地主の檀家総代と対立したことを契機に、三浦は「出寺」(還俗)して大阪に移り、『中外日報』の記者・主筆として、仏教界や社会問題に対し鋭い筆を揮うようになります。

 この三浦参玄洞が、1935年(昭和10年)1月の『中外日報』に、「第四次元世界への憧憬」と題して、賢治を紹介・顕彰する文章を4日間にわたって連載し、さらに同年3月には「岩手の天才、第二の啄木、宮沢賢治の詩」と題する文章を3日間連載しているのです。
 彼の賢治に対する讃辞は最大級のもので、たとえば次のような文章に表れています。

とにかく此第三巻(引用者注:文圃堂版『宮沢賢治全集』第三巻)に集められた多数の童話を通じて宮澤氏のいかに「人間」を眺め「社会」を考へたかは――それをいま紹介しようとするわたしの胸に不思議なときめきを与へるくらゐ――ずば抜けて高次的なのである。(「第四次元世界への憧憬」1935)

 にも拘わらず、わたしはこの詩や童話から離れる気にはどうしてもなれないのはどういふものかと、そこには確かに他人にはない別な世界からきたにほひが漂ふてゐるからであらう。すなはち第四次元の世界に直接して居られた宮澤さんの特異な人格がわたしを引張りよせて下さるのであらう。ともかくわたしはまだ多くの人々が知らない宮澤さんを、割合にはやく知り得たことを、読み書きして活きる果報の中のいちばん尊いものだと感謝してゐる。(「宮澤さんからうける香ひ」1939)

 宮澤賢治に対して強い執心を抱いてゐるわたしは、彼が三十八年の息を引取るまで何をいつたか、何をこの地上に残しておかうとしたかを知るべくこの数年間彼の作品に親しみつづけて来た。(「善意の探求(手記)」1941)

 この三浦参玄洞が、賢治の父の政次郎氏と文通を行っていたということは、参玄洞自身が書いています。

 これは過日宮澤さんの御父さんに差上げた手紙の中でも申上げたことであるが、今回、草野心平氏の御骨折りで出版された「宮澤賢治研究」を読み行くうち、わたしは佐藤勝治氏の「くわご」に至つて涙とめどもなく落ちて傍人(私は電車以外あまり多く読書の時間を持たぬ)に隠すのに困つたくらゐであつた。(「宮澤さんからうける香ひ」1939)

 となると、最初に触れたように父と賢治の関西旅行の折りに、「叡福寺への道順を尋ねる」という目的のために、わざわざ中外日報社を訪問した背景には、政次郎氏にとって中外日報社には誰か知人がいたのではないか、それはひょっとして三浦参玄洞ではなかったろうかという推測を、どうしてもしたくなってしまうのです。(たんに「寺への道順を尋ねる」だけなら、回り道をして新聞社を訪ねなくても、途中のどこかの駅で聞くなど、他にいくらでも時間を節約する方法はあります。)

 それに、『「雨ニモマケズ」の根本思想』(龍門寺文蔵著, 大蔵出版)という本の冒頭は、次のように始まっています。

賢治と『中外日報』社
 宮沢賢治が京都の宗教新聞『中外日報』社を訪ねたのは大正十年四月上旬のことである。この年は比叡山伝教大師第一千一百年遠忌が、三月十六日から四月四日まで行われた。東塔根本中堂の前で賢治は、
   ねがはくは妙法如来正遍知
      大師のみ旨成らしめたまへ
と詠み、その日は日暮れて京都三条橋畔に投宿。翌日、厳父政治郎(ママ)と賢治の二人は七条大橋東詰下ルの中外日報社を訪ねている。
 賢治の父、政治郎(ママ)は『中外日報』の愛読者であり、主筆の三浦参玄洞(大我)と面会した。二十五歳の賢治は紺カスリの羽織ハカマ姿で初対面の挨拶をした。
 三浦参玄洞は、後に熱心な賢治ファンになり、「関西宮沢賢治友の会」をつくった。昭和十年一月五日から八日まで、同氏が『中外日報』に連載した「第四次元世界への憧憬」は、賢治文学を紹介した名文で、彼は関西における最古の賢治礼賛者として有名である。
 『雨ニモマケズ手帳研究』『雨ニモマケズ手帳新考』の著者、小倉豊文は、『中外』紙上に三浦参玄洞の紹介する賢治に深く感動して、一生を捧げて賢治研究に没頭したのだから、賢治と中外日報社の縁は深い。

 ここには、三浦参玄洞に対して「二十五歳の賢治は紺カスリの羽織ハカマ姿で初対面の挨拶をした」と、見てきたような具体的な様子が書いてありますので、賢治がこの時三浦参玄洞に会っていたという根拠が、何か実際にあるのだろうかと思ってしまいます。

 しかし、今回の『中外日報』120周年記念新春特別企画の「宮沢賢治と三浦参玄洞」を見ますと、三浦参玄洞が『中外日報』入社は1921年(大正10年)6月で、同年4月に賢治父子が訪問した時にはまだ入社していなかったのだということです。それに、上にも引用した「善意の探求(手記)」をあらためて確認すると、次のような一節があります。

しかし考へることは考へてみても生前彼と一回も会うたことのないわたしには、どうも作品だけでは真実彼が考へたところを的確につきとめることの困難にしばしば直面してゐる。

 ということで、三浦参玄洞自身が、「生前彼と一回も会うたことのないわたし」と書いているのです。もちろん、賢治父子の『中外日報』社訪問の時点では、賢治は無名の青年ですから、たとえ参玄洞が会っていても、その時の記憶と、後年の読書から知った「宮澤賢治」がつながらなかったということは、可能性としてはありえます。しかしもしそうだったとしても、後に父政次郎と参玄洞は手紙のやり取りをしていたわけですから、その中でそのつながりは判明したはずです。

 ということで、やはり生前の賢治と三浦参玄洞が顔を会わることはなかったのだと考えておくべきでしょう。
 下の画像は、今回の『中外日報』120周年記念新春特別企画「宮沢賢治と三浦参玄洞」の一部で、やはり「父子と接した可能性は低い」と記してある部分です。私も、以前に『中外日報』社の社屋について触れていた上記の記事のご縁で、今回の企画に際しては、同社の記者さんとお話をする機会があったのでした。

『中外日報』2017年新春特別号より
『中外日報』2017年新春特別号より