賢治と現代日本の死生観

 以前に「千の風になって」という記事において、賢治がトシとの死別の苦悩から救われていったのは、1924年7月頃になって、「死んだトシの存在を身近に感じられる」という心境に至ったことによるのではないか、ということを書いてみました。
 この記事では、当時の賢治が到達した心境が、現代日本の死生観にも共通するものがあるという例として、ひと頃流行した「千の風になって」という歌の歌詞や、哲学者の森岡正博氏が東日本大震災後に書いた「私たちと生き続けていくいのち」という文章を引用しました。森岡氏の文章の一部を再び引用させていただくと、「死者」についての氏の考えは、下の部分に最も象徴されています。

 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。

 この中で、死者が「私たちの外側にもリアルに生き続ける」というところが、何より特徴的で印象的です。「死者が生き続ける」という表現が、単なる「比喩」ではないということを明らかにするために、わざわざ「リアルに」という言葉が用いられていますが、同じような事柄を、死者の側から歌っているのが、「千の風になって」だったわけです。

 最近、さまざまな形でこのような死生観――死者がこの世で私たちと一緒にいるという意識――に触れることが多いように感じるのですが、とりわけ現代の葬送儀礼の変化に、それは典型的に表れていると思います。

 日本では、江戸時代に幕府によって「檀家制度」が整えられて以来、葬式はそれぞれの「家」が所属する「檀那寺」が執り行い、遺骨は定まった墓地に埋葬するという方式が、昭和の時代までほぼ一貫していました。しかし最近になって、そのような枠組みにとらわれないさまざまな形の葬儀や遺骨の扱いが、行われるようになっています。

 たとえば、「手元供養」という方法は、遺骨(遺灰)の一部または全部を墓に納骨せずに遺族が手元にとどめ置いて、亡き人を偲ぶよすがにするというもので、納骨容器に入れて自宅の居間や仏間に安置するという方法もあれば、遺骨を入れたペンダントや、遺骨の一部を七宝焼きのように焼成したアクセサリーを身につけるというものもあります。たとえば「おこつ供養舎」という会社の「手元供養品」というページを見ていただくと、さまざまな種類の「遺骨アクセサリー」が掲載されています。
 いずれも、故人を「遠くに葬り去る」ということに抵抗感があったり、「いつも故人と身近にいたい」という気持ちが強い場合に、その思いを具現化する方法として行われているようです。
 こうすれば、折々に「墓参」をする時だけではなく、年中つねに「手元」で故人を感じていられるというわけですね。

 あるいは、最近は遺骨を墓地に埋葬せずに粉砕して散布する「散骨」という方法も、かなり一般的に行われるようになっています。海に撒く「海洋散骨」というのもあれば、ロケットに乗せて宇宙空間に打ち上げるという「宇宙葬」というものまであって、「小さなお葬式」という会社の「海洋散骨」のページでは、全国各地の海域に散骨するプランが提供されていますし、「銀河ステージ」という会社のサイトを見ると、「宇宙飛行プラン」「人工衛星プラン」「月旅行プラン」「宇宙探険プラン」などという各プランと、その料金も書かれています。

 ところで一見すると、遺骨をつねに見える身近な場所に置く「手元供養」と、遺骨を広大な場所に散布してしまってどこに行ったかわからなくする「散骨」とでは、全く正反対の方向を目ざしているように思えますが、実はこの二つが心の奥底ではつながり合っていることが、「千の風になって」の歌詞に表れています。

  千の風になって
              新井満(訳詩)
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

 歌詞の一番は、死んだ人はお墓にはおらず、「大きな空を吹きわたって」いるということを言っていて、これはまさに「散骨」のイメージですが、二番になると、そのように空間全体に行き渡っているからこそ、雪や、鳥や、星になって、「いつも生者のすぐ傍らに」いることができるのだ、ということが歌われています。
 「特定のどこにもいない」からこそ、「どこにでもいる」のです。

 これはちょうど賢治が、「トシの行方」を必死になって探しても何も得られず、結局「薤露青」において、「どこへ行ってしまったかわからない」ということを受け容れるとともに、トシの「声」をあちこちから聞くことができるようになったことと対応しているようで、興味深いところです。

 「手元供養」「散骨」「千の風になって」に表れている現代日本の死生観は、死後はまた六道のいずれかの世界において輪廻転生を繰り返していくという伝統的な仏教のそれとは、大きく異なっています。まあ、現代日本で仏教色が薄れているのは無理もないところかと思いますが、しかし、仏教を篤く信仰していたはずの賢治が、亡きトシに対して抱いていたであろうイメージが、仏教ではなくこの現代日本の死生観に近いというのは、とても不思議なことです。
 それはいったい何故なのだろうと考えたりしていましたが、その理由として最近一つ思うのは、どちらも「彼岸における故人の生」について、あまり考えようとしないところが共通しているのではないか、ということです。

 まず現代日本では、今も葬式の大半は「仏式」で行われており、故人が亡くなってまもない頃には、「今ごろはあの世でお父さんに会って思い出話をしてるかな」などと、「あの世」について話題にすることもあります。
 しかし、本当に「地獄」や「極楽浄土」や「天界」などというものがあって、人間が死んだらそのどこかで新たな生を送るのだと心から信じている人は、今やごく少数になっているのが現状でしょう。多くの現代人が「死後」について抱いているイメージとしては、せいぜい「安らかに眠っている」というくらいで、「彼岸」や「あの世」の存在と、そこで死者が送っている「生」を、具体的に思い描いている人は、はたしてどれくらいいるでしょうか。

 そもそも、仏教にかぎらずキリスト教でもイスラム教でも、その他ほとんどの宗教では、生きているうちに良いことをした人は死後に「天国」のような素晴らしい場所に行ける一方、悪いことをした人は「地獄」のようなひどい場所で苦しい目に遭う、という教えがあります。このような教えが果たしている役割の一つは、「だから悪いことはせず、良いことをしましょう」と、生きている人に倫理を説くということがあるでしょう。そして、良いことをしていると自覚している人にとっては、この教えは「死の恐怖」を軽減してくれる効用もあります。
 それに加えてもう一つ、宗教がこのように死後の世界を想定することの効用としては、「遺された人の悲しみを和らげる」ということもあるように思います。大切な人を亡くしてしまって、遺族や親しかった人たちは悲しくて仕方がないけれども、故人はきっと天国に行って新たに安らかな生を送っているに違いないと信じることができれば、遺された人としては、「それならば自分は辛くてもこの人の死を受け容れよう」と思うことができるわけです。「別世界における死者の幸福」という救いによって、喪失の苦しみを緩和するのです。
 ところが、前述のように現代日本では、たとえ遺族であっても、「故人があの世で幸福に暮らしている」ということを、昔ほどには実感をもって信じることができなくなっているでしょう。このため、昔の人のように「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の悲しみに耐えるということができません。
 そこで現代人はその代わりに、「別世界」ではなく「この世界」に死者がとどまって、自分たちと一緒にいると想定することによって、死別の寂しさを乗り越えようとしているのではないでしょうか。

 翻って、宮澤賢治の場合も、トシの死後しばらくはその喪失の苦しみに打ちひしがれ、サハリンまで旅行をしたこともありましたが、その途上の「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という考えに思い到ります。そしてこれ以後は、トシが天界に往生するように祈ったり、トシの次生における幸福を願ったりすることを、自らに禁じてしまったのです。この思想は、「〔手紙 四〕」のテーマとして引き継がれ、「銀河鉄道の夜」の底にも流れています。
 すなわち、ここで賢治もまた、「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の苦しみを和らげるということができなくなったわけです。そして、このために彼もまた、「別世界」ではなく「この世界」にトシの存在を感じることによって、最終的には救われていったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治としては、何もそのように意図したわけではなかったのでしょうが。