先日来、「美しい医院のあるじ(1)」「美しい医院のあるじ(2)」という記事において、賢治の「〔この医者はまだ若いので〕」という作品のモデルとなった医師は誰だったのかということについて、一人であれこれと考えていました。
そうしたところ、私が記事中でモデルの候補の一人として勝手に名前を挙げさせていただいた、星多聞という医師のご子息が、記事へのコメントやメールを下さるとともに、下のような写真を送って下さったのです。
(写真をクリックすると、別窓で拡大表示されます。)
これは、1924年(大正13年)か1925年(大正14年)あたりに、「星医院」の入口にある倉庫の前で撮影された、家族と医院スタッフの記念写真だということです。
後列の左から、人力車夫、星多聞医師。
前列の左から、星医師の奥様、父上、母上、とのこと。
みんなが、それぞれ真摯な表情で写っているのが印象的です。1922年(大正11年)の医院開業から2-3年が経って、熱心な診療で近隣の人々の信頼を集め、家庭ではお子さんも2人生まれて、星医院も星家も、まさに順風満帆という一コマなのかと思います。
何よりも、後ろで皆をまとめるように中央に立つ、星多聞院長の凛々しく爽やかな顔立ち・・・。
ご子息によれば、この星医院があった場所は、当時の住所では「里川口110地割」で、現在は「御田屋町」の北東端、下の地図の(星)のマーカーの地点だったということです。
そして、このたび星医師のご子息から教えていただいた情報のうちで、最も重要なポイントは、「医院から、岩手軽便鉄道の瀬川の鉄橋がよく見えた」ということでした。下記は、いただいたコメントより。
星医院の場所は、御田屋町の円城寺のほぼ眞向い、医院と居宅は裏通りに接していました。裏は下に池と田んぼがあって東公園になります。北東方向に写真の懐かしい瀬川の鉄橋が見えました。
子供の頃歩いてよく渡り小舟渡の方へよく行きました。賢治の短編の「山地の陵」もこの背景です。
父は夜は殆ど毎日呼び出され往診でした。
「医院から軽便鉄道が見えた」ということは、もちろん「軽便鉄道もから医院が見えた」ことになります。そして、「〔この医者はまだ若いので〕」の中には、
こゝを汽車で通れば、
主人はどういふ人かといつでも思ふ
という一節があって、ここに描かれている医院は、確かに「汽車」から見えたらしいのです。
ちなみに、上の地図の赤い線は、その昔に岩手軽便鉄道が走っていた路線です。医院の北の方で赤い線が川を横切っている場所に、「瀬川の鉄橋」がありました。
引用したコメントで星医師のご子息は、子供の頃にこの鉄橋を歩いて渡っていたと書いておられますが、賢治の初期短篇「山地の稜」にも、まさに賢治がこの鉄橋を歩いて渡るシーンが出てきます。
渡れ渡れ、一体これではあんまり枕木の間隔がせますぎるのだ。大股に踏んで行かれない。もう水の流れる所も通ったし、ずゐぶん早い。この二枚の小さな縦板は汽車をよける為のだな。こゝで首尾よくよけられるだらうか。もし今汽車がやって来たらはねおりるかぶら下るかだ。まづすばやく手帳と万年筆をはふり出すことだ。それからあとはもう考へなくてもいゝぞ。
すぐ向ふ岸だ。砂利の白や新鮮なすぎな。
着いた。立派な野菜だごぼうや何か。
すなつち。
すでに農学校教師をしていた賢治にとっても、歩いて鉄橋を渡ることには上のような緊張が伴ったのですから、子供にとってはさぞスリルに満ちた冒険だったでしょうね。
岩手軽便鉄道・瀬川の鉄橋(『写真集 宮澤賢治の世界』より)
◇ ◇
「〔この医者はまだ若いので〕」という作品について詳しく見てみると、この医師や医院について、いくつかの特徴を読みとることができます。
ここでは、星多聞医師あるいは星医院が、その作品上の特徴とどれくらい合致しているかについて、検討してみましょう。
なお右の画像は、『岩手県医師会史』(岩手県医師会編)の下巻のp.99から、星多聞医師の説明箇所です。この記載内容のうち、「福岡市出身」とあるのは、「福島市出身」の間違いであると、ご子息からご指摘を受けました。
(1) 開業時期: 1926年~1928年から近い過去
「〔この医者はまだ若いので〕」という作品は、書かれている詩稿用紙の種類やその作品内容から、いわゆる羅須地人協会時代(1926年~1928年)に書かれたのではないかと、私は思っています。
作品が書かれた時点で、賢治は医師や医院に対して好奇心を抱きながらも、まだ医師とは面識がなかった(「主人はどういふ人かといつでも思ふ」)ことから、開業からさほど長い年月は経っていないのだろうと思われます。
星医院の開業は、右のように1922年(大正11年)ですから、作品が書かれた時点からは4~6年前ということになり、やや年数が経っている感はあります。しかし、日中に忙しい仕事をしている男同士というのは、近くに住んでいながら数年間顔を合わせないということも、まあありえなくはないでしょう。
(2) この医者はまだ若い
作品内容から、この医師はまだ若かったことがわかりますが、星多聞医師は開業当時28歳で、賢治が作品を書いたと推測される時期により近い上の写真を見ても、「若い」という条件は十分に満たしていると言えます。
星氏は賢治よりも2歳年上で、賢治の方から「まだ若い」と言うのは不自然ではないかという考えもあるかもしれませんが、当時の花巻の医師の中では明らかに若い部類であり、またその様子の「若々しさ」という点でも、こう表現しておかしくはないと思います。
(3) 夜もきさくにはね起きる
作品には上のような表現があり、夜中に起こされても気さくに診療をしたということですが、今回のご子息のコメントによれば、「父は夜は殆ど毎日呼び出され往診でした」ということですから、この点はまさにぴったりと符合します。
90年近くも昔のことになると、この種の事情は後から調べてもなかなか客観的にはっきりしないことが多いものですが、直接のご子孫からの情報のおかげで、今回確認できたポイントです。
(4) 医院は汽車から見える
90年もの年月が経つと、町並みの建物もすっかり変わってしまいますから、ある建物が汽車から見えたかどうかについては、これも確定できない場合も多いのですが、前述のようにこの点に関しても、直接の肯定的な証言が得られたわけです。
しかし、医院の場所があまりにも賢治生家と近いということが、私としてはちょっと気になるところです。「こゝを汽車で通れば、/主人はどういふ人かといつでも思ふ」とありますが、賢治が自宅から朝日橋に出るとすれば星医院の前を通ることになりますから、現実には汽車から見るよりも、歩いていて直接目にすることの方が、多かったのではないでしょうか。「こゝを汽車で通れば…」とことさら書くのは、やや不自然な感じもします。
(5) ベースボールなどもやりたさう
この作品の下書稿初期形には、この医師の描写の中に「ベースボールなどもやりたさう」という言葉が出てきます。賢治がこの医師の風貌を見て、スポーツが好きそうだとか、何かそういう印象を受けたのだと思いますが、確かに上の写真を見ると星多聞医師は、若々しくスポーツマン的に見えます。実際、『岩手県医師会史』の下巻p.104を見ると、星多聞医師の説明の中に、「趣味 スポーツ」と書かれています(下記参照)。
このベースボール云々の一節は、賢治がばくぜんと感じたイメージを書きとめただけなのかもしれませんが、それは現実の星多聞医師の人となりと一致していたわけです。
ただしこの説明を見ると、この時点で星多聞医師は、「郡医師会理事」を務めておられるようです。賢治が作品中で、「郡医師会の講演などへ行っても/たゞ小さくなって聞いてゐるばかり」と書いた人柄とは、ちょっと異なったのかもしれません。
まあ、医師会で本当に「小さくなって」いるかどうかということを、賢治が直接確認したわけではないでしょうから、これもばくぜんとしたイメージにすぎなかったのでしょう。たとえば、星多聞氏がとても謙虚そうな人柄に見えたために、このように書いてみたのかもしれません。
(6) カメレオンのやうな顔
賢治はこの作品の終わり近く、この「美しい医院のあるじ」について、
カメレオンのやうな顔であるので
大へん気の毒な感じがする
と、書いています。
実際にモデルがおられるとすればちょっと失礼な話で、もしも賢治がこの作品を公表するとなれば、その際には削除などしたのではないかと思われる箇所です。しかし、賢治の本音が表れているかもしれない表現でもあります。この点は、どう評価するべきでしょうか。
右に、ご子息から送っていただいた写真から、星多聞医師のお顔の部分を再掲します。
これは、誰から見てもとてもハンサムで精悍なお顔立ちでしょう。一般的には、このような容貌の方に対して「カメレオンのよう」と形容することはあまりないと思います。
しかしだからと言って、もしも様々な人間の顔の集合から、「カメレオン的」な顔というものを取り出すとすれば、その中に含まれる可能性もまた、否定することはできないのではないかと思います。
くるっとして丸く少し離れた目、逆八の字形の眉、全体的な敏捷そうな感じなどが、そう思わせるのでしょうか。
でもこれに関しては、モデルだったという説の補強材料として、プラスのポイントともマイナスのポイントとも、カウントするのは難しいでしょうね・・・。
◇ ◇
このたび、ご子息がご教示下さった情報には、他にも興味深いことがいろいろとありました。
中でも、宮澤家と星家との間には、かなりの交流があったという事実は、もしもこの作品のモデルが星医師だったとすれば、鑑賞の上でも新たな感興を添えてくれます。
父(引用者注:星多聞氏)は賢治から送られたものか、賢治の文集を読んいた記憶があります。亡母の話からは当医院に2~3度顔を出したと思います。賢治の母堂と親交あったよう。(7月11日コメント)
父多聞は診察室で賢治の文集をよんでました。(7月11日コメント)
大正末期、昭和初期、星家の祖母、母(私の)は賢治の母堂イチさんと交流してたようで、イチさんのお上品さのことよく聞きました。(ここまでは事実です。)この時点で賢治は、優れた才能と優しさは知る人ぞ知る、殆ど無名で村民、町民には「宮澤家の賢治は変わり者だね」と見られていたと思います。特に母は賢治を尊敬してました。
そういう状況から、飛躍しますが賢治は星多聞のこと、この「医院のあるじ」を書いた時点では、会った事ないわけですが星家と交流のあったイチさんから話だけは聞いていて関心があったのではと・・・想像ストーリーですが。(7月14日メール)
星多聞氏の奥様は、賢治の母イチとかなりの交流があり、また賢治のことを「尊敬」もしていたとのことです。
さらに賢治自身が、医院に2~3回は顔を見せた可能性があり、星多聞氏に何かの本を贈った可能性もあるということです。しかも、多聞氏は診察室で、その賢治の文集を読んでいたような記憶があるとのことです。
以前にも書いたように、「〔この医者はまだ若いので〕」という作品においては、後の「〔雨ニモマケズ〕」にも通ずるような賢治の深い共感が、この医師に対して示されていると思います。
作品が書かれた時点では、賢治と医師の交流はまだなかったようですが、もしもその後、賢治が医院を訪れたり、文集を贈ったりするような間柄になったとすれば、二人の間でどのようなやりとりがあったのかということには、強い関心を惹かれます。
とりわけ、「すっかり村の人の気持ちになって/じつに渾然とはたらく」という、賢治も理想として目ざしたであろう献身のあり方について、二人は何か言葉を交わしたことはあったでしょうか?
◇ ◇
さて、今回思わずも「候補」のご子息がもたらして下さった貴重な情報のおかげで、私が一人で勝手に考えていた問題は、また新たな展開を見せました。いくつもの事柄が明らかになりましたが、現時点でまだ私としては、この作品のモデルは星多聞氏だったと断定することは、できない気持ちです。とくに医院が賢治の家からあまりに近い点は、どうしても気になります。
しかし、星多聞氏がその最も有力な候補の一人であるということは、はっきりと言えるようになったと思います。開業の大まかな時期、実際に岩手軽便鉄道から医院が見えたこと、そして「夜は殆ど毎日呼び出され往診でした」という若々しく献身的な多聞氏の仕事ぶりは、作品にぴったりの条件です。
それはさておき、多聞氏がこの作品のモデルであったかどうかという問題の答えは別にして、賢治がこのように魅力的な同世代の青年医師と交流を持っていたこと、また冒頭に掲げた写真のような真摯な人々が、一丸となって当時の花巻の町民の健康を守ろうと懸命に働いていた事実を知ることができて、私は深く胸を打たれました。
尊いお写真や情報を快く寄せて下さった星多聞氏のご子息に、心から感謝申し上げたいと思います。どうもありがとうございまいした。
【追記】
記事中では最初、お子さんの数を「3人」と書いていましたが、写真において星多聞氏の隣にいる少年は、近所の子供さんだということをご子息からご教示いただき、「2人」に訂正させていただきました。
それにしても私はこの事情を聴いた時、医院の大切な記念写真において偶然そこにいた近所の子を呼び寄せ、その肩に手を置いて撮影をしたという星多聞氏の大らかさに、あらためて人間的な魅力を感じたのでした。
星勇二
小生の昔話をとりあげていただき、ありがとうございます。もう一つ追加させてください。
賢治は桜に移った頃(1926)御田屋町の長久寺の住職と敬意をもって交流しており、よく長久寺をたずねていたと(教え子照井謹二郎氏のご息女談)。星医院の向かい、やや「しもちょう」よりが長久寺の入り口で「この辺を通るたび」に医院の入り口あたりは見えたと思います。そして医院は表通りから奥にあり、入り口から人家(家主さん)あり医院に用事がないと入りにくいので、極端にいえば道路からは見え難
い位地にありました。
尚宮澤家は浄土真宗で、長久寺(臨済宗)と宗派は違いますが、僧正と交流あったとのこと。
以上これも周辺情報で、確証とは全く関係ありませんがプラス方向の昔話になればと記しました。
hamagaki
星勇二様、重ね重ね、貴重な情報をありがとうございます。
つまり、星医院は通りから少し奥まったところにあって、長久寺などへ行くために前を歩いた場合、医院の入口は見えたとしても、その建物は通りからは見えなかっただろう、というわけですね。
となると、「美しい医院」と賢治が言っているのは、医院の建物が美しいと解釈するのが一般的でしょうから、賢治がその美しさに触れることができたのは、通りを歩いている時ではなくて、岩手軽便鉄道の車窓から医院の裏側が目に入る時であった、ということにもなりえますね。
それならば、上に書かせていただいたような私の疑問も消えて、「こゝを汽車で通れば、/主人はどういふ人かといつでも思ふ」という言葉にも納得がいきます。
ところで、星医院の建物というのは、当時どんな感じだったのでしょうか。
ことさら美意識に敏感だった賢治が、それを「美しい医院」と呼んていたとすれば、いったいどんな建築だったのだろう、という興味が湧いてきます。