三陸の賢治詩碑の現況(3)

 去る5月3日から6日まで、北三陸海岸に行ってきました。その地に建てられていた賢治詩碑の様子を見てきたのですが、今回はその前半部分の報告です。

 まず、三陸海岸にあった賢治詩碑(歌碑)の一覧を、再掲します。


(マーカーをクリックすると、碑の写真と説明ページへのリンクが表示されます)

 津波の前に、三陸沿岸には上記の9つの賢治詩碑があったわけですが、(1)と(2)の様子については「三陸の賢治詩碑の現況(1)」に、(3)と(4)の様子については「三陸の賢治詩碑の現況(2)」に書きました。
 今回ご報告するのは、(5)宮古市浄土ヶ浜の「寂光のはま」歌碑と、(6)田野畑村島越の「発動機船 第二」詩碑です。


「寂光のはま」歌碑

 賢治は、盛岡高等農林学校3年の1917年(大正6年)7月25日から29日にかけて、「東海岸視察団」という団体に加わって、三陸地方を旅行しました。
 この企画は、1915年(大正4年)11月に岩手軽便鉄道が花巻から仙人峠まで開通して、三陸海岸がぐっと内陸部の経済圏に引き寄せられたことを受け、花巻の有力者たちが観光がてら沿岸部の産業を視察しようとしたものでした。メンバーには、賢治の母方叔父の宮澤直治など宮澤一族の人々や、縁戚関係にある梅津善次郎(後の町長)、瀬川弥右衛門(後の貴族院議員)なども参加しています。いっぽう賢治は、この月初めに盛岡高等農林学校の仲間とともに『アザリア』を創刊し、中旬には保阪嘉内とともに、夜の岩手山登山を敢行したところでした。
 賢治は果たしてどんな思いで、この三陸旅行に参加していたのでしょうか。旅行中に賢治が詠んだ次のような短歌、

ひとびとは
釜石山田いまはまた
宮古と酒の旅をつゞけぬ。

たよりなく
蕩児の群にまじりつゝ
七月末を 宮古に来る。

などを見ると、文学と友情に青春を謳歌していた純真な20歳の若者が、オジサンたちの遊興ツアーに一人ぽつんと混ざっている、というような状況を想像してしまいます。それでも賢治にとっては、16歳の時に修学旅行で初めて海を見て以来、4年ぶりに今度はさらにじっくりと海辺を旅することができたわけで、いろいろと珍しい風物にも触れることができたのではないでしょうか。
 とりわけ、7月27日には宮古で昆布工場を見学したという記録があり、浄土ヶ浜では浜辺にたくさんの昆布を広げて干している情景を目撃しています。初期の童話「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」には、主人公が働く「昆布とり」や「昆布工場」が出てきますが、その発想の端緒は、この時の体験にあったと考えてよいでしょう。
 さらにこの作品が改作されると、主人公の名前は、「てぐす・昆布どり」をもじった「グスコンブドリ」から、「グスコーブドリ」へと変遷していきます。ですから、もしも20歳の賢治がこの旅行で「昆布採り」を見ることがなかったら、今年の夏に公開される映画の主人公ともなる「ブドリ」という名前は、存在しなかったわけですね・・・。

 さて、私は5月5日に三陸リアス鉄道で宮古駅に降り立って、浄土ヶ浜行きのバス乗り場を探していました。すると駅前広場から、レトロなボンネットバス「浄土ヶ浜号」が、なんと無料で浄土ヶ浜まで連れて行ってくれるというではありませんか。この無料バスは、6月30日までの土日祝日に運行しているそうです。

無料ボンネットバス「浄土ヶ浜号」

 若いバスガイドさんが解説を聞きながら10分ほどバスに揺られると、「浄土ヶ浜第一駐車場」です。ここからまた無料バスに乗り換えると、賢治の歌碑がある「奥浄土ヶ浜」に着きました。

浄土ヶ浜(2012.5.5)

 津波被害後は、大量の瓦礫が漂着し、浜の一部も大きく削られて地形が変わってしまったところもあったようですが、今はまた観光地としてきちんと整備されています。被災後まもない時期の浄土ヶ浜については、「うみねこチャンネル」に動画が紹介されています。
 そしてこの浜の奥に、昆布を詠んだ賢治の歌碑があるのです(下写真)。

「寂光のはま」歌碑

うるはしの
海のビロード昆布らは
寂光の浜に敷かれひかりぬ

 この碑そのものには目立った損傷は見られませんが、もともとこの碑の向かって右隣には、賢治がこの短歌を詠んだ状況について説明した「副碑」がありました(下写真は2000年8月撮影)。現在は跡形もなくなっていますが、おそらく津波で流されてしまったのでしょう。

「寂光のはま」歌碑(2000.8.8)

 この後ろの遊歩道を登っていくと、三陸地方随一の威容を誇る「浄土ヶ浜パークホテル」があります。海を見下ろす高台にあるこのホテルは、直接の津波被害はまぬがれましたが、地元の方々の避難所として一時は230名もの方々が生活する場所となり、その後も救援のために全国から派遣されて来る警察関係者の宿泊施設として開放されました。そして今年の3月8日、ついに1年ぶりに通常営業を再開したのです。
 美しい浜の再生、無料バスの運行、ホテルなど地元業者の奮闘など、名勝・浄土ヶ浜に再びたくさんの人を迎えようとする、多くの方々の熱意を感じた半日でした。


「発動機船 第二」詩碑

 北三陸海岸の田野畑村には、賢治が1925年(大正14年)の1月に三陸を旅した時の体験をもとに書いた、「発動機船」三部作の3つの詩碑があります。
 このうちの一つ、三陸鉄道の島越駅前にある「発動機船 第二」詩碑は、津波によって周囲の建物すべてが流されてしまったにもかかわらず、瓦礫の中に碑だけが倒れず残ったために、「奇跡の詩碑」などとして新聞報道でも大きく取り上げられました(「津波ニモマケズ 全壊の島越駅、賢治の歌碑だけ残る」など)。
 私は、去る5月4日に、普代村の金子さんの車に乗せていただいて、大雨の中をこの詩碑に向かいました。

 島越駅は、田野畑駅の一つ南の駅ですが、この間の三陸鉄道線は、津波によって全く壊滅させられてしまいました。駅間距離にして11.5kmの区間を、車で行くと今は何十分もかかります。つづら折りの道を何度も上り下りし、まだ照明の点いていないトンネルや、歩道のてすりの折れ曲がったトンネルを抜けて、視界の開けた島越海岸に出ると、まるで更地のようになった集落跡に、すぐに賢治の詩碑が目に入ります。
 詩碑の左奥は、高架になっていた三陸鉄道の橋脚です。

「発動機船 第二」詩碑

 上の写真でご覧のとおり、コンクリート製の碑体の各所は一部崩れてはいますが、碑そのものはしっかりと立っています。三陸の波をかたどった上辺には、もとは賢治が乗った発動機船をイメージした船のブロンズ像が載っていたのですが、これは消滅しています。

島越駅跡

 少し左の方に目を移すと、上の写真のあたりが、もともと島越駅のあったところです。タイルが橙と黄の市松模様になった部分が駅舎の内部で、奥の方にある空中で途絶えた階段は、コンコースからホームへ続いていたものです。津波の直後には、このあたりは大量の瓦礫に埋もれていたのですが、1年あまりの間に片付けられて、このように地面に固定された構造物だけが残されています。駅舎も線路も、今は跡形もなく消えました。
 さらにその向こうに広がる空き地には、津波の前には、たくさんの家々が立ち並ぶ町がありました。島越にあったすべての民家は押し流され、一つの集落が消滅してしまったのです。

 このような衝撃的な状況において、ただこの詩碑だけが残ったことは、人々に様々な感慨を呼び起こしました。これを、災害の記憶を後世に遺すためのモニュメントにしようという案もあるようです。
 去年6月22日の東京新聞の記事には、この碑の制作者が震災の3ヵ月後に、碑と再会した時の様子が記されています。当初、この碑は駅舎や海岸と平行に設置する案があったが、制作者は「船が海に漕ぎ出していく」というイメージにこだわり、向きを90度変えて、海岸線と直角に立てたのだということです。
 そして結果的に、薄い板のような形状の碑の側面から津波が当たるというこの配置のおかげで、碑は倒れず残ることになったのです。

観光バスで「奇跡の詩碑」を見に来た人々

 5月3日と4日は、三陸地方は記録的な大雨だったのですが、それでも上の写真のように観光バスに乗った多くの人が、この「奇跡の詩碑」を見にやって来ていました。ガイドさんに尋ねると、関東地方や関西地方から来られている人もあるということでした。

 ところで、三陸リアス鉄道の駅には、それぞれに「愛称」が付けられているのですが、田野畑村にある2つの駅の愛称は、いずれも宮沢賢治の作品からとられています。一つ北の田野畑駅は、「カムパネルラ田野畑」、そしてこの島越駅は、「カルボナード島越」と言います。
 これについて、詩碑の左肩の部分には、「駅名<カルボナード島越>の由来」という文章が刻まれています(下写真)。

駅名<カルボナード島越>の由来

駅名<カルボナード島越>の由来
 カルボナードは宮沢賢治の童話「グスコーブドリの伝記」中の火山島の名前です。主人公は燃えるような情熱と意欲を持った青年で、住民を守るために命をささげました。
その行動と勇気は田野畑村の先人そのものです。
島越の「島」にちなんで火山の名を愛称としました。(以下略)

 自分の命を投げうって、イーハトーヴを冷害から救おうとした青年グスコーブドリ。その昔、つらい「昆布とり」の労働をさせられていた少年は、はるかに大きく成長したのです。
 そして、彼の最期の地となった「カルボナード島」に建てられていた「いくつものやぐらや電線」は、ブドリとともに、人工噴火によって微塵となって消えました。
 「カルボナード島越」にも、建物は何も残りませんでしたが、こちらにはその名前の由来を記した詩碑だけは、けなげに立ちつづけていたというわけです。

在りし日の島越駅看板

 上の写真は、2000年8月8日に撮影したものです。洋風のしゃれた駅舎の2階は食堂になっていて、その日はここで昼食をとったのでした。

[つづく……]