下の地図のように、三陸海岸沿いにはかなり多くの賢治の詩碑や歌碑が建てられています(建てられていました)。その中には、「津波ニモマケズ 宮沢賢治の詩碑 耐えた」という東京新聞の記事のような感動的な報道によって、その消息を知ることができたものもありますが、他の碑がどうなっているのか、あまり情報はありませんでした。
未曾有の津波被害を受けた地域の賢治詩碑は、今どのような状況にあるのか……。石碑フリークの私としては、このことが以前から心に引っかかっていたのです。
私は去る11月24日と25日に、宮城県石巻市の医療支援に行っていたのですが、その前後に個人的に時間をとって、津波を受けた三陸地方の賢治詩碑の状態を、一部見てきました。
今回は、塩竃と石巻の詩碑、上の地図では(1)および(2)の碑のご報告です。
昨年3月に、宮城県塩竃市港町の岸壁沿いに「シオーモの小径」という散策路が作られました。塩竃は、日本三景・松島観光の拠点でもあり、明治以来たくさんの文人が訪れて作品に詠みこんでいますが、ここはそれら数多の文学碑を美しく配列した、情緒あふれるスポットでした。正岡子規、北原白秋、若山牧水、与謝野晶子、斎藤茂吉、田山花袋など綺羅星のような石碑群の中の一つとして、賢治の「ポラーノの広場」の一節を刻んだ碑も建てられました。
私は、昨年3月この一角が整備されて間もない頃に、ここを訪ねてみたことがあり、その時の様子は「シオーモの小径」というブログ記事にも書きました。当時の「シオーモの小径」の入口は、下の写真のようでした。
この散策路が「シオーモの小径」と名付けられたのは、もちろん賢治の「ポラーノの広場」において、塩竃をモデルにした街がエスペラント風の「シオーモ」という名前を冠されて登場することに基づいています。この道の名付け親とも言える賢治の碑は、他の誰にも負けぬ意匠と工夫を凝らされた、見事なものでした。 その姿は、「ポラーノの広場」碑のページでご覧いただくことができます。
そして、今回11月23日に訪ねた「シオーモの小径」の入口は、下のようになっていました。
地震によって、地盤が大きく沈下してしまったために、歩道が波打っています。左の石垣の外側には、以前は岸壁があったのですが、これも地盤沈下によって海面下になってしまっていました。
そして、賢治の「ポラーノの広場」碑は、下のようになっていました。
後ろから見ると下のようになっていて、根元に通されている太さ2cmほどの鉄芯が、津波の圧力によってぐにゃりと曲がってしまっているのがわかります。
しかし、「小径」に並ぶ碑には完全に倒れてしまったものもいくつか見られる中で、約40°の角度を保ちしっかりと立つ姿は、何かとてもけなげに思えたりもしました。また、碑の周囲に散乱している敷石は、初代・塩釜駅に敷かれていたもので、賢治の同級生たちもおそらく踏みしめていたものです。
この「ポラーノの広場」碑文に引用されている部分の少し前では、三陸海岸のことは「イーハトーヴォ海岸」と呼ばれていて、レオーノキューストがその海岸地方を旅した時の喜びは、次のように描かれていました。
海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれ ました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞり をたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。
ここには、賢治が三陸地方を旅した時の経験、そこで触れあった「海岸の人たち」の心根も、反映しているのかもしれません。
石巻市の日和山は、この町の歴史的中心に位置する山です。延喜式の式内社として由緒ある「鹿島御児神社」が平安時代から鎮座し、鎌倉時代には石巻城が築かれました。「日和山」という名称は、海運の盛んなこの町において、海に近いその頂きが船の運航に重要な天候を観察するスポットであったことによります。
Wikipedia には、
日和山から日和大橋越しに見る旧北上川河口と太平洋、また、旧北上川の中洲であり、内海五郎兵衛が私財を投じて東内海橋と西内海橋を架けた「中瀬」(なかぜ)の見える風景は、そのまま石巻の成り立ちと市民のアイデンティティを示すものである。
との記述もあります。また春には、桜の名所としてたくさんの市民が訪れます。
日和山とは、石巻においてそういう場所なのです。
15歳の賢治は、盛岡中学の修学旅行において、この山から生まれて初めて海を見るという体験をしました。
この折りに賢治が詠んだ短歌に、
まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。
があり、これを後年になって文語詩化した「〔われらひとしく丘に立ち〕」のテキストを刻んだ詩碑が、この日和山公園に建てられたわけです。
私が前回この日和山公園に来たのは、2000年の8月6日でした。11年ぶりに訪れた公園は、以前よりも立派に整備されていました。そして、さすがに海抜56mほどの丘の上だけあって、津波の被害は皆無でした。
下写真が、今回の「われらひとしく丘に立ち」詩碑です。
この日和山には、他にもいろいろな石碑があるのですが、下写真は、「チリ地震津波碑」です。
碑面には、次のような言葉が刻まれています。
チリ地震津波碑
ほら こんなに
まるで慈母のように穏やかな海も
ひと度荒れ狂うと
恐ろしい残忍な形相となる
海難・ 津波・ 海難と
こゝ 三陸一帯に
無常な海の惨禍が絶えることがない
(後略)
さて、上記 Wikipedia にあったように、日和山からの眺望は石巻市民にとってアイデンティティの一部ともなっているということですが、先の大津波においては、ここからの景観は凄絶なものでした。
下の動画は、日和山から見た津波の様子です。
結局、この山より南の市街地は、すべてが津波で流されてしまったのです……。
ところで、上の動画のような情景を見ていると、
まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。
という、中学生の賢治がこの日和山で詠んだ短歌が、まるで悪い夢になって襲ってきたかのような錯覚にとらわれてしまいます。これは果たして「まぼろし」か「うつゝ」か、誰しもまさに我が目を疑う情景です。
そのような海(わだつみ)が、3月11日に確かに出現したのです。
今、賢治の詩碑の横から南を見ると、下のような景色が広がっています。
震災から8ヵ月後ともなると、津波に流された跡も瓦礫は撤去されて、茶色い地面が広がっています。まるで埋め立て地のように見えますが、震災前はここはすべて住宅地だったのです。中央あたりに残っている比較的大きな白いビルは石巻市立病院で、しっかりと立っているように見えますが、1階は津波に打ち抜かれています。
日和山から下へ降りると、家の土台も撤去された曠野に、真新しいアスファルトの道が通っていました。地盤が沈下しているので、道路は数十cm以上の盛り土をして底上げされています。奥に見える建物は、門脇小学校です。
日曜日のお昼頃、市民の方々は日和山の展望台から、かつて街並みのあった場所を、静かに眺めておられました。
【この項つづく……】
つめくさ
いつもありがとうございます。
「小径」の様子には胸が潰れそうになりました。
シャッターを切る時のhamagakiさんのお気持もさぞやと推察します。
また冬が来ますが、イーハトーブはじめ被災地の方々には、お元気で乗り切っていただきたいと願います。
なべてのなやみを たきゞともしつゝ
はえある世界を ともにつくらん
hamagaki
つめくさ 様、ごぶさたしています。お元気でお過ごしでしたか。
現地へ行って「シオーモの小径」の様子が次第に目に入ってくると、たしかに心がしめつけられそうになりました。
しかし、この場所のすぐ脇には仮設住宅も建てられているのに、遠くから来て石碑のことを心配をしている自分もやるせない気持ちがして、複雑でした。
そうですね。「なべてのなやみを たきゞともしつゝ」・・・。
賢治が贈ってくれた言葉を、胸にしっかり抱いておきたいです。
signaless
「詩碑」はただの石塊ではなく、シンボルであり人の想いが込められたものです。その行方を捜すことは、例えば大切なアルバムを探すのと同じではないか、とふと感じました。
hamagaki
signaless さま、こんばんは。
お言葉をいただいて、自分が三陸に行って詩碑を探さずにいられないというやむにやまれない気持ちが、少し理解できたような感じがします。
ありがとうございました。
つめくさ
hamagaki様 こんにちは。
「あれからずいぶん経ちましたが」という言い表しがはたして今どれくらい適切なのかどうか、かの震災を思うと、まだよくわからないことに気づいてしまいます。ただ、先日、「にっぽん縦断こころ旅」というNHKのTV番組で火野正平さんが東北地方を訪れた時の様子を見た時に、少しホッしました。
「宮澤賢治センター通信」第15号への特別寄稿を拝読しました。「三陸沿岸に建てられてきた二百もの石碑群の一部に、新たにこれらの賢治詩碑も加わり、次の世代に受け継がれていくのです。」というお言葉に感慨を覚えます。ありがとうございます。
それにしても、「想へ惨禍の大津波」のような先人の言葉に対して、われわれ現代人はどういう態度を示してきたのだろうか、と時々考えます。それは、「どんぐりと山猫」の最後で、一郎がやまねことのやりとりを顧みて思う気持ちと少し似ていなくもないのではないかと思ったりします。
hamagaki
つめくさ様、お久しぶりです。こちらは梅雨の最中でうっとうしい毎日ですが、御地では本格的な夏へ向かう、清々しい季節でしょうね。
「宮澤賢治センター通信」の拙文をお読みいただきまして、ありがとうございます。
昨年と今年、三陸地方を旅行して感じた底知れない悲しみ、それにもかかわらずどこまでも美しい風景と、地元の方々の優しさへの感謝など、さまざまな思いがありますが、ブログ記事にもこの「センター通信」への寄稿にも、なかなかうまく書き表せません。
それでもお読みいただいて、何かの「感慨」のきっかけとなれば光栄です。
またこの夏にも、三陸に行きたいと思っています。