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たとえ明日世界が滅びようとも…

 とくに有名な作品でもありませんし、評論などで取り上げられているのも見たことはないのですが、「口語詩稿」として分類されている作品群の中に、「〔あしたはどうなるかわからないなんて〕」と仮題を付された一篇があります。

あしたはどうなるかわからないなんて、
百姓はけふ手を束ねてはゐられない
折鞄など誰がかゝえてあるいても、
木などはぐんぐんのびるんだ
日が照って
うしろの杉の林では
鳩がすうすう啼いてゐる
イギリスの百姓だちの口癖は
りんごなら
馬をうめるくらゐに堀れ
馬をうめるくらゐに堀れだと
遠慮なくこの乳いろの
花もさかせ
落葉松のきれいな青い芽も噴けだ。
そのうちどうでも喧嘩しなければいけなかったら
りんごも食ってやればいゝ
そのときの喧嘩の相手なんか
なにをいまからわかるもんか
くさったいがだの
落葉を燃やす青いけむりは
南の崖へながれて行って
そのまんなかで
かげらふも川もきらきらひかる

 このテキストだけを読むと、どういう状況を描いているのか、今ひとつわかりにくい感じですね。屋外にいるらしい作者は、ここで何の作業をしているのでしょうか。
 「あしたはどうなるかわからないなんて」という冒頭の言葉は、一見心細さを感じさせるようでもありますが、全体を読むと何か妙に前向きであるとともに、苛立ちのようなものも漂ってきます。「喧嘩」などという穏やかならぬ語も出てきますが、どんな事情があってのことなのでしょうか。

◇          ◇

 その疑問は、上のテキストの先駆形にさかのぼると、かなり明らかになってきます。その「下書稿(一)」の初期形の全文は下記のとおりで、「廃屋手入」というタイトルも付けられています。

   廃屋手入

いきなり窓から飛び出したのは
小友から来た大工弟子
たゞ二足で
松の下まではねて来て
釘をつまんではらかけに入れ
また一つまみは口に入れ
たちまち窓へ飛び込めば
日が照って日が照って
うしろの杉の林では
鳩がすうすう啼いてゐる
くさったいがや松葉を燃やす
ぼそぼそ青いけむりの列は
南の崖へながれて行って
その向ふでは
かげらふも川もきらきらひかる
となりの桐のはたけでは
もゝ引ばきの幸一が
りんごを植える穴を掘る
イギリスのお役人たちの口癖通り
馬をうめる位に掘れ
馬をうめる位に掘れと
じぶんでじぶんに云ひながら
一生けん命掘ってゐる
あしたはどうなるかわからないといって
今日は洋々たる春の希望
落葉松の青い芽も
苹果の乳いろの花も咲けだ
こっちの枯れた萱ばでは
めいめいに火をうつして行って
赤い髪をした子どもらが
蘭の花だの羊歯の芽を
一列ならんでくつくつ煮る
家の中では小友から来た大工の弟子が
軒を裏からはげしく叩く

 つまりこの日の賢治は、大工に入ってもらって、「廃屋」のリフォームをしているようなのです。賢治が廃屋の手入れをするというと、連想するのはもちろん「あの家」ですね。
花巻農業高校「賢治先生の家」 祖父喜助が脳出血後遺症の療養のために建て、その死後は空き家となり、5年後には妹トシの療養場所とされてまたその死後は空き家となり、さらに4年後に賢治が農学校を辞めて一人移り住んだ、下根子桜の宮澤家別宅です。

 同じく「口語詩稿」の印象的な作品に、「憎むべき「隈」辨当を食ふ」というのがありますが、その初めの方にはやはりこの別宅が「廃屋」と表現されて出てきます。

きらきら光る川に臨んで
ひとリで辨当を食ってゐるのは
まさしく あいつ「隈」である
およそあすこの廃屋に
おれがひとりで移ってから
林の中から幽霊が出ると云ったり
毎晩女が来るといったり
町の方まで云ひふらした
あの憎むべき「隈」である
・・・・

 ここにも「きらきら光る川」が登場していますが、「〔あしたはどうなるかわからないなんて〕」の方でも、やはり「かげらふも川もきらきらひかる」として、北上川が描かれていました。
 つまりこの二つの作品はどちらも、「廃屋」と「きらきら光る川」を、舞台背景としているわけです。

 さて、「廃屋手入」の方は、威勢のよい大工の動きで始まりますが、関登久也著『賢治随聞』には、この家の改修を依頼された大工について、次のような記載があります。

      二人の大工

 二人の大工というのは、兄弟の大工であり、兄を八重樫倉蔵さんといい、弟を民三さんといいます。根子村の羅須地人協会、――賢治の住いしていた協会の修理に頼まれて行った時のことです。兄弟の大工はどちらも正直一徹であり、素朴で、昔風の堅気を持っておりました。本当の職人気質などは、もうとっくの昔に失われているこんにち、この二人の兄弟などはかなり珍重されているのでした。一日賢治のところで働いているうちに、弟の民三さんが、中土台の腐ったものを取りかえようとしたら、釘が錆びついてどうしてもそれが抜けて来ませんので、額から汗をこぼしながら、うんうん力みかえり、さては「こんちくしょう、なんたら抜けない」と思わず大声を挙げて叫びますと、そばで見ていた賢治は、兄の倉蔵さんに向かい、働く人たちの気持ちは実にさっぱりしていいものだ、怒ればすぐ怒るし、釘が抜けなければ、こんちくしょうとさけぶし、まったくさっぱりしたものだ、こういう気質を私は一番好きです、と言ってにこにこ笑っておりました。(p.75-76)

  上の「下書稿(一)」初期形に「大工弟子」として登場するのは、きっとこの兄弟の弟、八重樫民三のことなのでしょう。彼が一心に働く様子を、賢治は微笑ましく眺め、テキストの最後では、また彼の作業が描かれます。その一本気に突進するような仕事ぶりが、作品全体の基調ともなっているようです。
 ちなみに、賢治はこの大工の兄弟によほど好感をおぼえたのか、作業の後は二人を「精養軒」に招待して、料理や酒を好きなだけ振る舞って慰労したということも、『賢治随聞』には書かれています。

 ところで上の「下書稿(一)」初期形においても、冒頭に掲げた「下書稿(二)」においても、作品の核となっているのは、「あしたはどうなるかわからないといって」「あしたはどうなるかわからないなんて」という一節です。
 初期形の方で、その次の行に対置されているのは、「今日は洋々たる春の希望」という思いでした。ちなみにこの年4月4日付けの森佐一あて書簡218には、

学校をやめて今日で四日木を伐ったり木を植えたり病院の花壇をつくったりしてゐました。もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。

という一節があります。賢治がこの作品をスケッチしたのは、3月31日付けで花巻農学校を退職して、上記のように「木を伐ったり木を植えたり」していた、まさにこの時期なのではないかと推測するのが自然です。
 ただ、『新校本全集』年譜篇には、伊藤忠一の日記の記載として、この年の1月15日から「八重樫倉蔵・民三の兄弟大工をつれて、下根子桜の別宅の改造をはじめた」ということが引用されていて、1月15日ではこの作品中の情景が「春」の景色であることと一致しません。「1月15日から…別宅の改造をはじめた」ということですから、その後も大工がこの家に入って作業をすることはしばらく続き、作品になったのはもう春の頃の一コマだった、ということなのかと思います。

 学校を辞めた賢治は、もはや何者にも縛られず、しかしよりどころとて何もない境遇となり、一抹の不安をかかえながらも、「洋々たる春の希望」を胸にしているようです。「落葉松の青い芽も/苹果の乳いろの花も咲けだ」という高揚した声調には、自らを奮い立たせようとしている様を感じますし、最後に響いている「大工の弟子が/軒を裏からはげしく叩く」音は、賢治自身を叱咤しているようでもあります。

 しかし、森佐一あて書簡にある「もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました」という言葉は考えてみれば不思議なもので、一方的に学校を辞めて「村で働く」道を選んだのは賢治自身なのですから、「厭でもなんでも」ということなどないはずです。それなのに彼が思わずこういう言葉を洩らした背景には、自分が始めようとする活動の将来に対する、逃れようのない不安があるのでしょう。
 この不安が彼に、「あしたはどうなるかわからない」という率直な心情の吐露をさせ、そして結局はその不安を呑み込んで行動していくしかないと、思い知らせているのです。「厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました」との言葉によって賢治は、自ら敷いた陣形がまさに背水の陣であることを、あらためて己に言い聞かせているわけです。

 ただ、こういう不安や自己激励をにじませた「下書稿(一)」初期形ではありますが、この段階ではまだ、苛立ちのような感情は見受けられません。
 しかし、この初期形に対して推敲が加えられていくと、雰囲気は変わってくるのです。

◇          ◇

 下記は、先のテキストに、鉛筆、赤インク、そしてまた鉛筆によって修正がなされた、「下書稿(一)」手入れ形です。

日が照って
うしろの杉の林では
鳩がすうすう啼いてゐる
落葉を燃やす青いけむりは
南の崖へながれて行って
そのまんなかで
かげらふも川もきらきらひかる
りんごを植える穴を掘る
イギリスのお役人たちの口癖通り
馬をうめる位に掘れ
馬をうめる位に掘れと
じぶんでじぶんに云ひながら
一生けん命掘ってゐる
あしたはどうなるかわからない?
落葉松の青い芽も噴かせ
苹果の乳いろの花も咲けだ
どうするかわからないでなく
どうなるかわからないといふのなら
なんにもないさ
植えろ植えろ
やっさもっさと云ってるうちに
木などはぐんぐんのびてしまふんだ
銀ドロの葉もひらめかし
いなづまの晩にはまっ白な百合
夏には赤いおにげしを燃し
けれども
まづ喧嘩してもっと楽にしてからといふのなら
銀ドロなどはやめてしまへ
花だの木だの植えて
ひとをなだめて喧嘩するのをやめさせやうなんて
おれはそんなけちな人間ではない
喧嘩をするものとしないもの
眼をいつでも人間に向けて
きろきろしてゐるものと
自然に向けて
ぼうとしてゐるものとは
強制されないかぎり
大ていはうまれつきだよ

 ここで賢治が植えようと空想?している植物には、賢治の他の作品にも登場するお馴染みの名前も出てきて、なかなか面白い感じがします。「落葉松」「銀ドロ」「赤いおにげし」という組み合わせは、「産業組合青年会」(草稿的紙葉群)などにおいて描かれた一種の理想郷で、

・・・・
から松が風を冴え冴えとし
銀どろが雲を乱してひるがえるなかに
赤い鬼げしの花を燃し
・・・・

として夢見られた光景と同じですし、その間にはさまれた「いなづまの晩にはまっ白な百合」という情景は、あの「ガドルフの百合」そのものです。思えば、ガドルフが白い百合に出会ったのも、「廃屋」の中でした。
 これらの景色は、いずれもきっと賢治の心の中に大切に刻まれているものなのでしょうが、彼がそれらをここで一挙に思い描いているのは、やはり不安に抗して自らを奮い立たせようとしているからなのではないかと思います。

 さらに、「ひとをなだめて喧嘩するのをやめさせやうなんて/おれはそんなけちな人間ではない」との言葉は、「〔雨ニモマケズ〕」において「北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」と書いた賢治とは、まさに正反対です。世間に流布している彼のイメージとはギャップがあるかもしれませんが、こういうパッションもまた、ある時期までの賢治の性質であったのは事実です。
 そしてまさにこのテキストでは、初期形に見られていた「不安」や「自己激励」にとどまらず、このような苛立ちや攻撃性までも表明されるようになっているのが特徴です。「初期形」から「手入れ形」までの時間的間隔がどの程度あったのかはわかりませんが、この二つのテキストの違いを形づくっているのは、「村」で単身生活を開始してしばらくの間に経験した、周囲の人々との軋轢なのではないでしょうか。
 同じ舞台背景を持った「憎むべき「隈」辨当を食ふ」の方で、もっとストレートに表現されている憎悪や、「敵」とか「復讐」とかいう「喧嘩」腰のスタンスが、この間の「手入れ」に反映しているのだろうと思います。

 これが、冒頭に掲げた「下書稿(二)」になると、上では「喧嘩も辞さない」ような好戦的とも思える態度だったのが、さすがに少し緩和されています。すなわち、「そのうちどうでも喧嘩しなければいけなかったら・・・」という消極的な表現に変えられるのですが、それでも「下書稿(一)」初期形にはなかった「喧嘩」という言葉自体は、残されています。
 賢治が、近隣の農民たちと表立って「喧嘩」をしたという記録はありませんが、彼の心情の内には、何か抜きがたく沈殿しているものがあったのでしょう。

◇          ◇

 さて、ここまで「〔あしたはどうなるかわからないなんて〕」という作品のたどった3段階のテキストを並べてみましたが、段階ごとにニュアンスが少しずつ変遷していく中でも、変わらずに持続しているモチーフがありました。それは、「あしたはどうなるかわからない」という思いと、「りんごを植える」という行為です。
 前者についてはすでに述べたように、公職を辞して単身で農耕と農民芸術活動を始めようとするに際しての、不安やおののきを素直に表現したものだと思われます。ではそれは、後者の「りんごを植える」という行動とは、どのように関わっているのでしょうか。
 あるいは、この羅須地人協会の建物周囲には、落葉松、銀どろ、蔓ばら、けし、チューリップなどが植えられていたことは教え子が証言していますが(菊池信一「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」)、実はここにりんごの木が植えられていたという記述は、見あたりません。それなのに推敲・改稿とともに木の種類が入れ替わっても、りんごだけは不変ですし、さらに「そのうちどうでも喧嘩しなければいけなかったら/りんごも食ってやればいゝ」というように、特別な役割も担っています。
 このりんごの木は、いったい何を表しているのだろうかと気になっていたところ、先日その意味を明らかにしてくれるような言葉に、偶然めぐり会いました。

 それは、宗教改革の祖マルティン・ルターのものとして伝えられている、次のような言葉です。

たとえ明日世界が滅びようとも、今日私はりんごの木を植える。
Wenn morgen die Welt unterginge, würde ich heute ein Apfelbäumchen pflanzen.

マルティン・ルター ネット上でいろいろ検索してみましたが、残念ながらこれがルターの言葉であるという確かな証拠はないようです。しかしこれは、いかなる状況でも変わらぬ希望と強い信念を持って行動するという姿勢を、簡潔な表現で示してくれています。(ルターの右画像は「ウィキメディア・コモンズ」より)

 それにしてもこの言葉は、「明日の不確実性とりんごの植樹」というこの作品のモチーフを、そっくりそのまま結び付けてくれているではありませんか。
 キリスト教についても関心を寄せていた賢治は、きっとこの言葉を知っていたのだろうと、私は思います。そして彼は、この言葉を下敷きとして、この「〔あしたはどうなるかわからないなんて〕」という作品を書いたのだと思うのです。
 新たな出発にあたって彼は、「あした」に対する大きな不安をかかえていたのでしょうが、「明日世界が滅びようとも、今日はりんごの木を植える」と喝破した先人の覚悟を自らの心にも刻みつつ、この春の一日を作業に明け暮れたのでしょう。

 そう思うと、一見目立たないこの作品も、この時期の賢治が胸に秘めていた強い意気込みを、眼前にありありと見せてくれるように感じられた次第です。