「銀河鉄道の夜」の日本名登場人物

 『未だ見ぬ親』において五来素川氏が行ったように、外国を舞台とした物語を日本の人名・地名に置き換え翻案することの目的は、読者として想定される子供たちが、自分の生きている世界と作品世界を重ね合わせて、よりスムーズに主人公に感情移入できるようにすることにあると言えるでしょう。
 ここでかりにこのことを、作品の「同世界化」と呼んでおくことにします。

 これに対して、宮澤賢治の童話においてことさら目立つのは、「岩手」をわざわざ「イーハトーブ」と呼んだり、登場人物も「レオーノキュースト」や「ファゼーロ」であったり、はては「ペンネンネンネンネン・ネネム」などという奇天烈なものであったり、程度の差はあれとにかく作品世界を、現実の世界とはどこか「異質」なものとして構築しようとする、作者の意志です。
 前者に対比してこのことを、作品の「異世界化」と呼んでおくことにします。

 もちろん賢治の作品にも、「一郎」や「嘉助」や「三郎」が、典型的な東北地方の山村において日々をともにするというような、一見「同世界」を描いたものも数多くあります。しかしそれらも実はどこかに、妖しい「異界」を内包しているのです。最初は何の変哲もない現実世界であるかのように読者に思わせておくことで、異界が突然顔をのぞかせた時の効果を、高めようとしているのかと思われるほどです。

 このような「同世界化」と「異世界化」という機制は、いわば逆の方向を向いたベクトルですが、それぞれに固有の意味はあって、作家が意識するにせよしないにせよ、種々の作品において種々の形で作用していると考えてみることができます。

 前述のように、賢治の作品にはどちらかというと「異世界化」の方向性が目立つように思われて、同時代の中でもその傾向は顕著だったのではないかと、私はばくぜんと感じるのですが、文学史的にはどんなものでしょうか。
 小川未明や坪田譲治や新美南吉などの童話と比べてもそのように感じられますし、また鈴木三重吉が菊池武雄から賢治の童話原稿を見せられた時、「こんな童話はロシアへでも持っていくんだなあ」と言ったという逸話も、この意味で示唆的に思われます。


 さて、ここまでは一種の前置きで、ここからが今回書こうと思ったことなのですが、「銀河鉄道の夜」において途中から乗車してくる、女の子とその弟、家庭教師、という登場人物についての一つの感想です。

ますむらひろし版「銀河鉄道の夜」 「銀河鉄道の夜」という作品も、上に述べたような意味において、「異世界化」が顕著なものの一つです。「ジョバンニ」「カムパネルラ」「ザネリ」のように、主要な登場人物はイタリア名ですし、ジョバンニの家には「紫いろのケールやアスパラガス」が植えてあったり、姉が「トマトで何かこしらえ」たり、町のお祭りの名は「ケンタウル祭」だったり、賢治はすみずみまで周到に西洋的な雰囲気を張りめぐらせています。
 ますむらひろしさんが、この作品の登場人物を猫に置き換えて成功したのも、すでにこのように原作に強く働いていた「異世界化」という方向性があり、それに適確に沿うものだったからだと言えるでしょう。すなわち、「猫世界化」というのも、「異世界化」の一種だったわけですね(笑)。しかしこれが、同時代の他の作家の童話だったら、かくも絶妙の効果を上げることはなかったでしょう。

 で、ここで不思議なのは、このような物語の「異世界」の只中に、船とともに沈没して死んだ人として現れる3人のうち2人が、「かほる」「タダシ」という日本人名だったということです。さらに彼らの会話からは、2人の姉の名も「きくよねえさん」であることが示されます。
 私は以前から、ここで日本人が登場してくることに、奇妙な違和感を覚えていました。彼らは明らかにタイタニック号を連想させる船に乗っていたわけですし、小さな男の子は寝る前に夜空を見て「ツヰンクル、ツヰンクル、リトル、スター」を歌っていたといいます。またみんな敬虔なクリスチャンのようですし、とにかく名前以外はすべて「西洋的」なのです。こういう設定の人物を出すならば、西洋人の名前であった方が、ずっと自然なのではないでしょうか。
 逆にもしもこれが、「日本人らしい日本人」を登場させたのであれば、それはそれで理解できます。その場合には、作品の大枠が「異世界」である中、ここに一部分だけ日本人読者にとっての「同世界」を作ろうとしたのだと解釈することも可能になります。しかし、人物の属性が上記のように西洋的なものである以上、作者がこのような「局所的同世界化」を試みたと見ることもできません。
 では、ここで賢治が彼らを日本名にしたことには、いったいどのような意図があったのでしょうか。

 などということが心の底にあったところ、私が先日、五来素川訳『未だ見ぬ親』を読んでいてあらためて感じたのは、このような人物の「名前」と「設定」の間のズレによる違和感というのは、やや強引な「日本的翻案」による「同世界化」を施した当時の翻訳物には、すべてに付きまとっていたのだ、ということです。
 『未だ見ぬ親』では、「関谷新田のお文どん」が、「山羊の乳で作ったバタ」を使って「ソップ」を調理していましたし、「巴里の在所大野村の植木屋、青木作兵衛」は、温室の中できれいな花を栽培していました。ここには、なじみ深いはずのものと、異国的なものが混じり合ったような、奇妙な感覚が伴っています。それをどのように言い表したらよいか迷うのですが、たとえばやや大げさかもしれませんが、この宇宙とよく似ているが、少しだけズレているような「別の宇宙」に連れてこられたような感覚、とでも言いましょうか。

 日本的翻案を苦労して行った五来素川などの訳者たちは、もちろん意図的にこのような違和感を調合し加えたのではありません。なんとかして、異国的な雰囲気をできるだけ減らそうと努力し、それでも残ってしまう部分と、日本的な部分との間の偶然の相互作用から、このような感覚が生まれたのです。
 これに対して、賢治は銀河鉄道の乗客の一部を日本人名にすることで、自分が子供の頃に触れた翻案もの物語が持っていた独特の雰囲気へのオマージュとして、意図的にこのような「ズレ」の感じを作りだしたのではないかと、私は今回思ったのです。

 日本人名を使いつつも、「同世界化」という方向性とは逆に、「異界」の中に、さらに入れ子状にもう一つの「異界」を構築した、とでも言いましょうか。あるいは、「異界」から「こちら側」に出てきたと思ったら、やはり「別の異界」にいた、という「クラインの壺」のような空間を作った、と言いましょうか……。

 上に述べた「日本名であることの疑問」への、とりあえずの答えとして、そのようなことを考えてみたのです。