宮澤賢治は1933年(昭和8年)9月11日に、元教え子の柳原昌悦にあてて、一通の手紙を書きました。死の10日前に、原稿用紙に書かれたこの書簡が、賢治の最後の通信となりました。
この手紙は、彼の生涯で最後のものであるという位置づけにとどまらず、その内容がいろいろな意味で読む者の心を打つために、朗読で取り上げられることもしばしばあります。
作曲家の千原英喜氏は、東日本大震災の後、このテキストに曲を付けて、「朗読とユニゾンによる宮沢賢治の最後の手紙」を作られました。そして千原氏は、カワイ出版が主催する「歌おうNIPPONプロジェクト」に無償でこの曲を提供し、被災地に歌声とエールを届けるという趣旨で、楽譜も公開されたのです。
深甚な衝撃と喪失を経験したこの国に、「楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう」という、賢治の淡々とした語り口が贈られました。
私たちは、先日の「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都」においても、千原英喜氏の「雨ニモマケズ」を取り上げて聴衆の皆さんとともに味わいました。実は私はその準備期間から、個人的にこの「宮沢賢治の最後の手紙」にはまってしまって、様々な演奏をYouTubeなどで探しては、繰り返し聴いていました。
そしてコンサートが終わるのを待ちかねるようにして、この曲をDTMで作成してみたのです。
下が、とりあえず完成したそのMP3ファイルです。歌は、歌声合成ソフト VOCALOID の Mew、初音ミク、Kaito の3名。
曲の最後には、ある余分な効果音が入っていますが、これは私が勝手に付けてしまったものです。ご容赦下さい。
この曲は、ピアノ伴奏に載せて朗読と歌が交互に登場するという形式をとっています。テキストは下記で、作曲にあたって賢治の原文から( )内は省略され、〔 〕が補われています。
八月廿九日附お手紙ありがたく拝誦いたしました。
あなたはいよいよ(ご)〔お〕元気なやうで実に何よりです。
私もお蔭で大分癒っては居りますが、
(どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、
咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、
或は夜中胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり、)
仲々もう全い健康は得られさうもありません。
けれども(咳のないときは)とにかく人並に机に座って切れ切れながら 七八時間は何かしてゐられるやう〔に〕なりました。あなたがいろいろ思ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんが、
それに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。
しかも心持ちばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。
(私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。)
僅かばかりの才能とか、器量とか、
身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、
(じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、)
いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引揚げに来るものがあるやうに思ひ、
(空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのをみては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。)
あなたは賢いしかういふ過りはなさらないでせうが、
(しかし何といっても)時代が時代ですから充分にご戒心下さい。風のなかを自由にあるけるとか、
はっきりした声で何時間も話ができるとか、
じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことは
できないものから見れば神の業にも均しいものです。
そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、
本気に観察した世界の実際と余り〔に〕遠いものです。
どうか今の(ご)生活を大切にお護り下さい。
上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、
楽しめるものは楽しみ、
苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。いろいろ生意気なことを書きました。
病苦に免じて赦して下さい。
それでも今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互心強いではありませんか。
また書きます。
それにしても、「楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう」との言葉が、何とも心に突き刺さります。死の直前にして……。
耕生
hamagaki様、耕生です。
お久しぶりです。
先日は突然のメールアドレス変更願をお届けし、大変失礼いたしました。
さて、今回の「宮澤賢治-最後の手紙-」の朗読と楽曲、興味深く、拝聴させていただきました。死の10日前に、原稿用紙に書かれたという、この書簡が圧倒的迫力でよみがえってきます。
間違っているのかも知れないので確認させていただきますが、この曲は作曲家の千原英喜氏によって作られ、震災支援コンサートにおいて無償で提供されたものを、今回、hamagakiさんが効果音を交えて、公開されたということでよろしいですか?つまり、作詞:宮澤賢治、作曲:千原英喜、編曲:hamagakiということですね。もし、間違っていたら、ご教示下さい。
実は、私(耕生)は典型的双極性気分障害(わかりやすく言うとそううつ病)という持病を持っており、うつのどん底に沈んだかと思うと、突然、劇的に復活をとげるということを何度か体験しております。今回のうつ状態は丸3年続きました。そして、今、再び、劇的上昇をとげつつあります。その、うつ状態の中で、何度か、自ら三途の川を渡りかけました。思えば細く危ない道を渡って来たものです。
今の精神的状態を短歌(川柳かも)に読んでみました。ご笑読下さい。
翼得て 空をかけ飛ぶ 心かな
以前の轍は 踏むまいぞ
この上昇時の爽快感は禅の世界の見性(いわゆる悟りを開く)に通じるものがあるかもしれません。自分で勝手に「トランポリン現象」と称しています(トランポリンでは底まで沈まない限り高くジャンプできないのです)。
いわゆる死の一歩手前まで行ってから躁状態にシフトしつつある現在の私から、この「宮澤賢治の最後の手紙」を読み返して(聴いて)見ると、その心境が手に取るようにわかります。
「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します」
「風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです」
同じようなことを私も親友への手紙に書きました。
今は次のようにはっきりと言う事ができます。
「楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう」
つい調子に乗って長いコメントになってしまいました。
「病苦に免じて赦して下さい。」
ところで、今、宮澤賢治の友人の一人でアザリア同人だった小管健吉の行跡を調査中です。さくら市ミュージアムの学芸員さんに大変お世話になっています。もしかしたら、長い間、謎とされてきた羅須地人協会の「羅須」の意味が解明できるかも知れません。
小管健吉は日本で初めて土壌微生物を研究した人物かもしれないのです。日本そして中国の土壌微生物学は米国留学して帰国した板井新夫という研究者に、その礎を持っているのですが、小管健吉はその前に、この分野を切り開いたパイオニアだったかもしれません。「羅須」の「須」に、小管健吉が関係があるのではという仮説を立てています。
新しい発見があれば、またコメントさせていただきます。今、賢治の上京時代とやや似た躁状態(ひと月に原稿用紙1000枚とか3000枚の執筆とか、数字がちょっと曖昧です)にありますので、幾らでも書く事があるのですが、今回はこの辺で止めておきます。
また、いつか、お会いしたいと願っております。
上記の小管健吉の件、何か情報がありましたら、ご教示いただければ幸いです。なにしろ、こういった調査は全くの素人なのですが、ワクワクしながら調べています。貴サイトからも多くの情報(写真も)いただきました。ありがとうございます。
近況報告を兼ねたコメントでした。
hamagaki
耕生さま、お久しぶりです。書き込みありがとうございます。
拙い演奏をお聴きいただきまして、恐縮です。
ご確認いただいたとおり、この曲は「作詞:宮沢賢治、作曲:千原英喜」です。
ただ私は、(最後の効果音を除き)千原氏による楽譜をそのまま演奏しただけですので、「編曲」ではありません。
小菅健吉氏のこと調べておられるのですね。
私は小菅氏のことは何も知らないのですが、郷里が四国なので、昨年の正月に帰省の折に、小菅氏が一時勤めていた「愛媛県立宇摩実業学校」の後身の高校を見に行ってみたことがあります(下記事)。
https://ihatov.cc/blog/archives/2011/01/post_730.htm
さくら市ミュージアムと連絡を取っておられるのでしたらすでにご存じでしょうが、さくら市が刊行している『氏家町史 史料編』に、小菅健吉の書簡が多数掲載されていて、賢治やアザリアの仲間たちのこともリアルに浮き彫りにされていますね。
私の方からはなかなかお役に立てないかもしれませんが、成果を楽しみにしております。
どうか、ご無理をなさらないで下さい。
耕生
hamagaki様、 耕生です。
早速の、しかも深夜の返信、ありがとうございます。
また、専門家としてのアドバイスも個人メールで拝受しました。これまでの体験から今回は慎重の上にも慎重に行こうと思っています。重ねてありがとうございます。
上記返信コメントの中で述べておられる愛媛県宇摩実業高校の後身の高校見学記は既に拝見しております。その際に小管健吉の貴重な写真などもアップしていただき、コピーして重宝させていただいております。
なお、私の最初のコメント中の自称短歌?ですが、よく数えてみたら五七五七五で、短歌になっていませんでした。恥ずかしいですが、次のように校訂(変更?)させて下さい。今度は間違いなく、五七五七七になっているはずです。
翼得て 空をかけ飛ぶ 心地かな
以前の轍は 踏まずと誓う (耕生)
実は、今から5年以上前の春3月下旬に、世界遺産熊野古道を巡礼しました。その際、メモ代わりとして、生まれて初めて短歌を、それも山のような数の短歌を、泉から水が湧くように作りました。大雲取越えの巡禮道はほとんど人がおらず、ひとり黙々と歩く神聖な山林は、身も心も洗われるようでした。
この時は、新宮-那智-熊野-十津川-五条-吉野-奈良というゴールデンコースを通ったのですが、最終目的地の奈良から自宅に帰る奈良線快速の中で、能登半島地震のニュースを家族からの携帯メールで知りました。北陸本線が全部停止、福井県の山中の見知らぬ駅の列車内で、JR配給のあんパンと牛乳をいただきました。その後、復旧した普通列車を乗り継ぎ、夜に無事帰宅できました。幸い、我が家は茶碗が1個、落ちて割れただけの被害でした。
その4年後に、あの東日本大震災が起こりました。較べようのない未曾有の被害に、うつ状態だった私はただ呆然とするのみでした。実家のある八戸地方も被害を受けました。その後、各種の支援の下、復興が行われていることに少しだけ安堵しております私の大好きだったJR八戸線も幸い、数ヶ月後には全線復旧したようです。現地で被災された方々は、まだまだ苦しい生活を余儀なくされていると思いますが、例年になく厳しい寒さの冬を乗り越えて行っていただきたいと願っております。
賢治歌碑の奇跡的な行方はhamagakiさんの詳細なレポートで知ることができ、胸を熱くしました。
このブログコメント欄は投稿文章を何度も確認してから投稿することができ、しかも、文字数制限がないという、普通滅多にない設定になっているので大変重宝しております。
今後も時々、コメントさせていただくかもしれませんが、どうぞよろしく、お付き合い下さい。
年末で、お仕事、超多忙でしょうから、返信コメント御無用です。
耕生
度々、すみません。耕生です。
もうひとつだけコメントさせてください。
今回の「宮澤賢治 最後の手紙」を読んで(何遍読んでも涙がでます)、思い出したのが、春と修羅第三集収載の「停留所にてスヰトンを喫す」です。第三集の最後から2番目の詩で、1928年(昭和3年)7月20日作成の詩です。つまり、羅須地人協会活動の最後の時期に当たります。
詩本文は、このブログのサイト内検索で「停留所にて」をキーワードで検索して下さい(スヰトンのヰの入力が難しいと思いますので)。ハマガキさんの解説が9件ヒットするはずです。
この詩の最後の部分だけ引用させていただきます。
・・・・(中略)・・・・・
ああ友だちよ、
空の雲がたべられないように
きみの好意もたべきれない
ぼくははっきりまなこをひらき
その稲をみてはっきりと云ひ
あとは電車がくるあいだ
しづかにこ々へ倒れよう
ぼくたちの
何人も何人もの先輩がみんなしたやうに
しづかにこ々へ倒れてまとう
賢治は、この時期、高熱を発し、電車を立ったまま待つこともままならない状態でした。そして事実、この夏で羅須地人協会の活動は終息し、賢治はその後、病床に伏せることになります。
この詩を読む度に私は涙が出るのを禁じ得ませんでした。「最後の手紙」と同じような静かな諦観に満ちています。なんという澄み切った心境でしょう。実際には、賢治はさらにその後、5年近く生き、小康状態の際には東北採石工場嘱託技師としての猛烈なサラリーマン営業活動もあるわけですが、昭和3年のこの時期、賢治はすでに自分の死を覚悟しているかのようです。
私は、この詩に感動しながらも、よくわからない疑問が長い間残っていました。「先輩」とは一体誰のことなのか?そして「しづかにこ々へ倒れて」何を待とうとしたのかです。長い間不明だったこれらの疑問に今、答えることができるような気がします。
実は、前回、うつ病から回復してやや躁状態の時に「新人類の誕生」という原稿用紙80枚くらいの大?論文をしたためました。白山市(旧松任市)の暁烏敏(あけがらすはや)賞に応募して落選、その後、職場の大学紀要に英文要旨を付けて投稿しましたが、「自然科学の専門分野でないから掲載できない」旨の返答・・・。
極めつきは、やはり職場大学の市民講座セミナー「環境と人間」に「宮澤賢治入門-その活動と共生観」を申し込んだところ、やはり、「セミナーの趣旨と異なるので(=専門分野とは認められない)却下」です。この時は委員長の教授が、「個人的には問題ないと思うが、多数決で否決されたので、どうかご辛抱ください」と頭を下げに来られました。
その後、私は市民講座担当各委員宛てに「どういう人が宮澤賢治を語るにふさわしいというのでしょうか。賢治のようにマルチな才能を発揮した人物(文学、農業技術、仏教、教員、地質学)を日本文学研究者にだけに限るのはあまりに偏狭な考えではないでしょうか。少なくとも私は同じ農芸化学を学び、土壌肥料学を専門とし、仏教(禅仏教ですが)にも少しだけ造詣があり、この農業系の大学で教鞭を取っています。また、岩石・鉱物の収集という趣味や同じ南部弁のネイティブスピーカーという点でも一致します。県内に私以上に賢治を市民講座で総合的に語ることのできる人が果たしているでしょうか。ただし、宮澤賢治関連の学術発表はありません。(注:現在では3編の学術発表講演要旨があります。土壌肥料学会2編、宮澤賢治学会1編)」と記したメールを送りましたが、返答はもらえませんでした。
その後、私は約1年間の深いウツの世界に閉じこもってしまいました。人間という者は否定されると存在意義を見失ってしまう哀しい存在なのです(最近ではモラルハラスメントとも言うようです)。
このコメントへのコメントは大歓迎しますので、どうぞよろしく。特に「停留場でスヰトンを喫す」に対する各位のご見解を歓迎いたします。
また、拙稿「新人類の誕生-うつ病に関する体験論的考察(英文要旨付き)」(400字詰め原稿用紙で約80枚)の入手を希望される方は管理人のhamagakiさんにご連絡いただければ、一太郎ファイル、ワードファイルいずれでもメールの添付フィルで提供可能です。
hamagakiさん、大変お手数ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
つい、長くなってしましました。
今、軽躁状態で、言葉が脳内からあふれ出て来るようなので、それを書きとめるのに夢中です。あまり急に走り過ぎないように自重していきます。
では。
西村 安弘
はじめまして、日本レンゲの会の西村と申します。
会の事務局経由で「耕生」さんのことを知りました。
そして、「投稿者 耕生 : 2012年12月26日 10:36」のこのブログを読みました。
私も、中原中也・金子いすゞ・宮澤賢治の各氏に惹きつけられています。
中也は小林さんや小海さんから、金子は今野さんや高遠さんは矢崎さんから、宮澤は梅原さんなどから、その在り様をみています。
そこで、このブログに、「また、拙稿『新人類の誕生-うつ病に関する体験論的考察(英文要旨付き)』(400字詰め原稿用紙で約80枚)の入手を希望される方は管理人のhamagakiさんにご連絡いただければ、一太郎ファイル、ワードファイルいずれでもメールの添付フィルで提供可能です。」とありましたので、ここのコメント欄でよいかどうかも分からずに、ご連絡を差し上げました。
興味がありますので、ワードファイルで、メールを頂けないでしょうか。お願いします。
最後になって申し訳ありませんが、「耕生さんの以前の轍」には、耕生さんご自身のスマートな強力な意志を思います。心底良かったと思います。そしてその他のブログにも全面的に賛同いたします。
どうぞご自愛ください、とお伝えください。
hamagaki
西村 安弘 様
すでに耕生さんには、西村さんのご依頼内容とメールアドレスをお伝えして、対処をお願いいたしましたので、耕生さんの方からご連絡があると思います。
取り急ぎご連絡まで。
西村
管理人・hamagakiさま。
早速のご返信を有難うございました。西村です。
楽しみにして耕生さんのご返事を待っております。