釜石の叔父さん

 「」(「春と修羅 第二集」)は、賢治が1925年(大正14年)の三陸旅行の際に書いた作品です。

三五八
  峠
             一九二五、一、九、

あんまり眩ゆく山がまはりをうねるので
ここらはまるで何か光機の焦点のやう
蒼穹ばかり、
いよいよ暗く陥ち込んでゐる、
  (鉄鉱床のダイナマイトだ
   いまのあやしい呟きは!)
冷たい風が、
せはしく西から襲ふので
白樺はみな、
ねぢれた枝を東のそらの海の光へ伸ばし
雪と露岩のけはしい二色の起伏のはてで
二十世紀の太平洋が、
青くなまめきけむってゐる
黒い岬のこっちには
釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド
   ……そこでは叔父のこどもらが
     みなすくすくと育ってゐた……
あたらしい風が翔ければ
白樺の木は鋼のやうにりんりん鳴らす

 冬の三陸海岸線を北から南へと旅した賢治が、今まさに三陸の海に別れを告げようとしているところです。旅の終わりに彼は釜石から鉱山鉄道に乗って、次いで徒歩で仙人峠を登り、頂から振り向いて、「二十世紀の太平洋」を一瞥します。旅立ちの際の「異途への出発」が悲劇的な調子を帯びていたのに対して、最後を飾るこの作品は、何か未来への希望を孕んでいます。

 さてこの作品で、「そこでは叔父のこどもらが/みなすくすくと育ってゐた」と書かれている「叔父」とは、賢治の母イチの弟で、釜石で煙草専売店を開き、後に薬店に転業した、宮澤磯吉のことです(家系図参照)。

宮澤家家系図

 『新校本全集』第十六巻の年譜篇には、宮澤磯吉について次のように説明されています。

 三男磯吉は慶応普通部、二高に学んだが、三男坊のせいか磊落な人柄で酒豪であった。釜石で煙草専売店、のちに薬店を開き、気さくなために損もしたが、ほどほどにもうかることもあって無事店を経営した。賢治はたびたび釜石の家を訪ね、倉からヴァイオリンをもちだして弾いたりレコードを届けたりしていた。互いに気楽な親しい感情を持っていたのである。金に執着のないところも似通っていた。

 「磊落」「酒豪」「気さく」などと評されていますが、花巻から東京に出て慶応で学び、仙台の第二高等学校に進学したというのですから、かなりのインテリであったことは確かです。家にヴァイオリンを持っていたり、レコードを聴いたりするところにも、それは表れているようです。
 長兄の直治、次兄の恒治は、花巻の豪商「宮澤商店」を継いだのに対し、この三男の磯吉は、遠く離れた釜石で事業を起こしたわけで、このような独立独歩の生き方にこそ、何か「磊落」と言われる要素が関わっているのでしょう。花巻で一二を争う名家の宮澤家に生まれながら、その財産や人脈に頼らずに、一人で道を切り開いていったわけです。生家の商売に反発し、跡継ぎとなることを拒否した賢治から見ると、その生き方にも共感するところがあったのかもしれません。
 ところで、父親の名前が「善治」、長男が「直治」、次男が「恒治」と来ておいて、三男で「磯吉」に転ずるとは、この子の誕生に際して親はどういう思いがあったのでしょう。ここにすでに、長男と次男は父の商売を継ぎ、三男は別の道を行くという運命が予示されていたようにも思えます。
 そもそも海のない内陸の花巻において、子に「磯吉」という名前を付けることからして、何か奇妙です。そして結果的に、この子は長じて三陸の海辺の町で生きていくことになったのですから、なおさら運命の不思議を感じてしまうのです……。

◇          ◇

 さて、磯吉は1889年(明治22年)生まれですから、これは賢治の7歳年上にあたります。賢治からすれば、親の世代というよりも「ちょっと年の離れた兄」という感じの年齢ですね。年譜によれば二人は「互いに気楽な親しい感情を持っていた」ということですが、一般に、男子と「母方のおじ」との間の独特の関係は、実は文化人類学的にも注目されてきた論点でした。
 レヴィ=ストロースは、「言語学と人類学における構造分析」という論文において、次のように問題を整理しています。

 ラドクリフ=ブラウンによれば、「伯叔父権」とい言葉は、相反する二つの態度の体系を覆っている。一方の場合には、母方のおじ(伯父・叔父)は一族の権威を代表する。彼は畏れられ、服従され、甥に対して権利を持つ。第二の場合には、甥がおじに対して馴れなれしくする特権を持ち、彼を多少ともないがしろにする。
 さらに、母方のおじに対する態度と父に対する態度の間には、相関関係がある。上に述べた二つの場合に、態度の体系はどちらも同一なのだが、ただそれが逆転しているのである。父と子の関係が親密な集団では、母方のおじと甥との関係は厳しい。父が一族の権威の厳格な受託者であるところでは、おじの方が馴れなれしくされる。
 こうしたわけで、音韻論にならって言うならば、この二つの態度の群は、「二つの対をなす対立 deux couples d'oppositions」を形成しているのである。(みすず書房『構造人類学』より)

構造人類学 構造人類学
クロード・レヴィ=ストロース 荒川 幾男
みすず書房 1972-05-30
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 レヴィ=ストロースは、父-息子関係と、母方おじ-甥関係が相反する、様々な部族の例を挙げていますが、おおむね家父長制が基盤にある近代日本や西欧においては、父と息子の関係が葛藤や対立を孕むのに対して、母方おじと甥の関係は、親密でくだけたものになる傾向があります。レヴィ=ストロースによる上の分類で言えば、「父が一族の権威の厳格な受託者であるところでは、おじの方が馴れなれしくされる」というタイプになるわけです。
寅さん家系図 この、「父-息子関係と、母方おじ-甥関係の相反」のとてもわかりやすい例としては、映画「男はつらいよ」シリーズで、吉岡秀隆の演ずる「満男」と前田吟が演ずるその父「博」との関係、そして満男とその母方伯父にあたる「寅さん」との関係を、挙げることができるでしょう。思春期以降の満男は、父に反抗してばかりでろくに口もききませんが、寅さんのことは大好きで、いつも「馴れなれしく」接するのです。
 あるいは私の仕事上の経験でも、男の子が何らかの精神的問題を抱えている状況で、父子の関係が悪くて親としての関わりが難しい場合に、母方のおじさんに介入してもらうことによって、事態の新たな転回が見られるということが、時にあります。

 ある時期の賢治が、家業を嫌忌して父の期待するような跡継ぎとなることを拒み、あるいは宗教上の激しい対立によって、父親と深い葛藤を抱えていたことは、周知のとおりです。もとより賢治は、父に反抗をするようになる以前から、母や弟妹たちと冗談を言って笑い転げていても、そこに父が姿を見せると口を閉じて居住まいを正すという態度で、つねに父の権威を畏怖の対象としていました。
 これとまさに対照的に、磯吉叔父に対しては「互いに気楽な親しい感情を持っていた」というのですから、賢治とこの二人の大人との関係は、まさに「対をなす対立」だったわけです。

◇          ◇

 このように、叔父磯吉と賢治は、特別な親密関係にあったわけですから、成長過程の賢治が叔父から何らかの影響を受けたということは、十分に考えられます。

 私が一つ思うのは、レコードを蒐集したりチェロを弾いたりしていた賢治のクラシック音楽好きの、源泉の少なくとも一つは、この叔父にあったのではないかということです。
 上に引用した「年譜篇」の解説によれば、宮澤磯吉はヴァイオリンを所有していて、賢治はそれを弾いたということですし、賢治が叔父にレコードを届けたということは、磯吉の家には蓄音機もあったわけです。「ヴァイオリンが蔵に入れられていた」ということからわかるのは、磯吉氏は最近はヴァイオリンを弾いてはいないようで、となると演奏していたのはもっと若い頃だったことになります。東京や仙台で学生生活を送っていた頃でしょうか。
 いずれせよ、音楽愛好家としても賢治よりはるかに先輩にあたるわけですから、若い頃に叔父の家でクラシック音楽や楽器に触れたことが刺激になって、後に蓄音機を買ってレコードを集めたり、さらにはチェロを買うところまで行ったという影響関係が想定されます。
 「詩ノート」所収の「峠の上で雨雲に云ふ」という詩において賢治は、釜石の西の仙人峠で、朗々と雨雲に語りかけています。彼は、オペラ歌手・清水金太郎になったつもりで歌ったり、雨のことを「セロの音する液体」と喩えてみたりするのですが、これはひょっとして、釜石の叔父宅でいろいろレコードを聴いてきた余韻が、まだ賢治の心の中で鳴り響いているのではないか……などと、私は思ったりします。

 またもう一つ気になるのは、結核のために2年半ほど病気療養を余儀なくされた賢治が、病もようやく癒えかけ、次にどんな仕事をするかということを検討していた時に、東北砕石工場の技師という仕事と並んで、「釜石で水産加工業をやる」という計画を、かなり本気で考えていたらしいことです。
 書簡では、1930年(昭和5年)11月に、「たぶんは四月からは釜石へ水産製造の仕事へ雇はれて行くか例の石灰岩抹工場へ東磐井郡へ出るかも知れません」と書き(書簡282)、12月には「来年の三月釜石か仙台かのどちらかへ出ます。わたくしはいっそ東京と思ふのですがどうもうちであぶながって仕方ないのです」と書き(書簡286)、1931年(昭和6年)1月には、「実は私は釜石行きはやめて三月から東磐井郡松川の東北砕石工場の仕事をすることになりました」と書いています(書簡295)。最後の書き方など見ると、一時の賢治は「釜石行き」の決心をほとんど固めかけていたのではないか、とさえ思わせます。
 しかし考えてみれば、この時期の賢治はまだ完全な「病み上がり」で、親元を遠く離れて釜石などで暮らすというのは、おそらく家族としては気が気ではなかったでしょう。「うちであぶながって仕方ない」というのは当然のことで、できれば家族としては思いとどまらせたかったのではないでしょうか。
 それなのに、チャレンジできる新しい仕事ならば、花巻にいてもいろいろあるはずなのに、あえて他ならぬ「釜石へ」行こうという賢治の思いには、きっと何かの伏線があったのではないかという気がするのです。
 それが、釜石にいる叔父・磯吉の存在だったのではないかと、私は思っています。

 屋号「宮善」と呼ばれる宮澤磯吉の生家では、父・善治の家業を、長兄・直治と次兄・恒治が継ぎました。試みに、ここでこれを「〇治的生き方」と呼んでおきます。
 これに対して三男の磯吉は、家業には関わらず花巻を出て、遠く釜石で一人で一から商売を始めました。ここでこれを、「磯吉的生き方」と呼んでおきます。
 さて賢治は、名前も「〇治」の系譜に属し、生まれた時からずっと家業を継ぐことを期待されていましたが、本人はそれを拒んで他のことばかりやっていました。しかし一方、その強い脱出願望にもかかわらず、生活の場を花巻から他の場所に移すことはできずにいました。
 賢治がいったん病に倒れて、その後再起を図ろうとした時、「父に反発しつつも親がかり」というそれまでの中途半端な生活を、何とかして刷新したいという思いがあったのではないでしょうか。そして、故郷・花巻から脱出することを計画する中で、賢治が心の大きな拠り所としていたのが、家業の縛りと花巻の町を軽やかに飛び越えていった、叔父の「磯吉的生き方」だったのではないかと推測するのです。
 他のどこの場所でもなく、「釜石行き」を彼が望んだのは、そのような思いがあったのではないかという気がしています。

◇          ◇

 宮澤磯吉氏の「磊落」「酒豪」と伝えられる側面は、何となく世俗的な人柄をイメージさせますが、彼は気さくな現実家であるとともに、一面では深い信仰心も持った人でもあったようです。叔父のこういう側面も、賢治の感性と合ったのかもしれません。

 賢治の父政次郎は1906年(明治39年)に、妻イチと、岳父善治、義弟直治、磯吉、義妹ヨシ(通称セツ)を連れて、東京の求道会館に浄土真宗の改革派僧侶・近角常観を訪ねました。時に磯吉は17歳です。
 政次郎を除けば、宮澤一族の中でその後も近角常観と最も親しく交流を続けたのは磯吉でした。彼は慶応普通部に入学後、近角が設立した「求道学舎」に寄宿して東京での生活を送っていたのです。1914年(大正3年)発行の雑誌『求道』には、磯吉がその後「神経を病んだ」際に、近角のもとを訪れて教えを受け、改めて信仰に目覚めることができたという趣旨の書簡が掲載されているということです(「宮沢賢治と近角常観」より)。
 さらに、1939年(昭和14年)に磯吉は、岐阜薬学専門学校在学中の長男金之助が、夏休みの見学で東京帝大病院等に来る際に、求道学舎に置いてやってくれないかという依頼の手紙を、近角常観に出しています(下図:「宮沢賢治と近角常観」より)。

宮澤磯吉から近角常観あて書簡

 この手紙からは、昭和14年の時点でも磯吉と近角常観の師弟交流はしっかりと続いていたことがわかるとともに、賢治の従弟にあたる長男は専門学校で薬学を修めていて、薬局の将来も心強く感じます。
 この時すでに賢治は亡くなっていますが、1925年に会った「叔父のこどもら」は、その後も「すくすくと育ってゐた」わけですね。

「広報かまいし」昭和49年4月号p.7より その賢治の従弟・宮澤金之助氏のお名前を、その後インターネット上で見かけるのは、1974年(昭和49年)4月1日発行の釜石市の「広報かまいし」の誌上です(右図)。
 56歳の金之助氏が、釜石地区人権擁護委員として国に推薦されることになったということが伝えられています。この生年月日からすると、詩「」で賢治が出会った時の金之助氏は、満7歳だったわけです。

◇          ◇

 賢治の弟清六は、賢治が亡くなる1933年(昭和8年)に「昭和三陸大津波」が発生するや、すぐさま「釜石に急行して罹災者を見舞った」ということです(「兄賢治の生涯」)。その素速い行動の直接の目的は、釜石で暮らしていた叔父磯吉の安否を気遣ってのことだったのでしょう。

 さて、今回の東日本大震災による津波で、釜石市只越町3丁目7番1号にある「宮澤薬局」は、はたして無事だったのでしょうか。
 現在の「宮澤薬局」を、グーグルの「ストリートビュー」で見ると、下の写真のようになっていました……。

釜石市・宮澤薬局

 残念ながら、薬局のビル3階建ての1階部分は、津波のために甚大な被害を受けてしまっているようです。

 ここに、謹んでお見舞いを申し上げるとともに、三陸ぜんたいの一日も早い復興を願います。