一〇七二

     峠の上で雨雲に云ふ

                  一九二七、六、一、

   

   黒く淫らな雨雲(ニムブス)

     ……もし翻訳者兼バリトン歌手

       清水金太郎氏の口吻をかりて云はゞ……

   わたくしはこの峠の上のうすびかりする顥気から

   またこゝを通るかほりあるつめたい風から

   また山谷の凄まじい青い刻鏤から

   わたくしの暗い情炎を洗はうとして

   今日の旅程のわづかな絶間を

   分水嶺のこの頂点に登って来たのであるが

   全体 黒いニムブスよ

     ……翻訳家兼バリトン歌手

       清水金太郎氏の口吻をかりて云はゞだ……

   おまへは却ってわたくしを

   地球の青いもりあがりに対して

   一層強い慾情を約束し

   風の城に誘惑しやうとする

   けだしそのまがりくねった白樺の枝に

   つぐみが黒い木の実をくはえて飛んできて

   わたくしを見てあわてゝ遁げて行ったこと

   平たく黒い気層のなまこ

   五葉山の鞍部に於て

   おまへがいろいろのみだらなひかりとかたちとで

   あらゆる変幻と出没とを示すこと

   おまへの影が巨きな網をつくって

   一様にひわいろなるべき山地を覆ひ

   わたくしの眼路から

   ほとんどそれらの彫刻を迷はせること

   これらを綜合して見るに

   あやしくやわらかなニムブスよ

     ……いゝかな

       翻訳家兼バリトン歌手の

       清水金太郎氏に従へばだぞ……

   最后にそれらの凄まじい明暗で

   もう全天を被ふべく

   且つはそこからセロの音する液体をそゝぐべく

       ……白極海のラルゴに手をのばす……

   みだらな触手をわたくしにのばし

   のばらとつかず胸ときめかすあやしい香気を風に送って

   湖とも雲ともわかぬしろびかりの平原を東に湛え

   たうたうまっくろな尾をひるがへし

       ……一点なまめくその下の日かげ……

   わたくしをとらうと迫るのであるか

   

 


   注:本文4行目[顥]は、サンズイにツクリが[顥]。

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