「春」詩碑~お盆の岩手報告(1)~

 お盆の期間中に、岩手を訪ねてきました。個人的には、花巻で頼み事があったり、人にお会いする約束があったり、普代村で合唱の練習をしてきたりというようないくつかの用事があったのですが、その合間に下根子桜の賢治詩碑へ行く道すがら、新しい詩碑に出会いました。

 同心屋敷の前を通って、羅須地人協会跡の広場へと続く道ばたに、まず下のような「賢治文学散歩道」と刻まれた石碑ができていました。

賢治文学散歩道

    賢治文学散歩道

・・・
云はなかったが、
おれは四月にはもう学校に居ないのだ
おそらく暗くけはしいみちをあるくだらう
・・・
               告別(一九二五、一〇、二五)より抜粋

 宮沢賢治三十歳。賢治には四年余勤めた花巻農学校を辞してでも果たさねばならない使命がありました。ほんとうの百姓となり、自らが高らかに掲げた「農民芸術の理想」実現への挑戦です。
 ここ、下根子・桜の地こそがその道場でした。三年に満たない活動でしたが、この地で生まれた多くの作品に私達は賢治の求道の姿を見ることができます。

 花南地区コミュニティ会議は、宮沢賢治がこの地に刻んだ足跡を顕彰し、この地から生まれた作品を碑として設置しました。

 農学校を辞める半年前に書いた「告別」の引用部分は、近くの南城中学校の平成23年度卒業生の筆による文字だということです。

 そして、この説明的碑からさらに数m歩くと、新しい下のような「」の詩碑がありました。

「春」詩碑

   春
               一九二六、五、二、

陽が照って鳥が啼き
あちこちの楢の林も、
けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚ない掌を、
おれはこれからもつことになる

 賢治が下根子桜の家に移り住んだのは1926年(大正15年)の4月1日と言われていますから、それから1ヵ月たった時の作品ですね。「春と修羅 第三集」は、この同じ日付けを持つ「村娘」から始まっていますが、新しい暮らしの開始から1ヵ月が経過し、賢治もやっと少し落ちついて、スケッチを再開できたのかもしれません。
 上の写真、「陽が照って・・・」というテキストに合わせて、日光の反射を入れて撮ったのですが、ちょっとゴーストが出てしまいました。

 ところで、この碑を建立した「花南地区コミュニティ会議」という団体は、この数年とみに賢治詩碑周辺の整備事業に取り組んでおられます。
 2009年に、『賢治の里 下根子・桜』というパンフレットを作成したことを皮切りに、

  • 賢治詩碑入口の標柱設置
  • 案内板設置
  • 詩碑前に「雨ニモマケズ」全文を紹介する碑の設置
  • 詩碑前広場に「農民芸術概論綱要」の一節を記した標柱設置
  • 詩碑前広場から望む風景のパノラマ説明版設置
  • 詩碑前広場東側の樹木の伐採

などの事業を、次々と実施しています(「花南コミュニティだより第14号」参照)。

 ただ、全国の賢治ファンの中には、下根子桜の羅須地人協会跡(賢治詩碑前広場)をまるで「聖地」のように思っている人もあるので、ここに手を加えていくというのは、非常に神経を使う作業だろうと思います。
 2010年、あの詩碑の前に「雨ニモマケズ」の全文を記した碑が作られた時にも(下写真参照)、「無粋だ」とか「由緒ある詩碑前の空間に余計な物を置くべきでない」などという意見も耳にしました。私としても、全文を紹介するのはよいことだと思いますが、それを何もこの場所に設置しなくても・・・という気はします。

「雨ニモマケズ」全文紹介碑

 また、詩碑前広場東側の樹木伐採によって、ここからの眺めがぐっとよくなったのは事実です。次の写真で、上は2001年の様子、下はこの8月の様子です。

詩碑前広場2001年
2001年の詩碑前広場

詩碑前広場2012年
2012年の詩碑前広場

 以前は、この広場の空間は、鬱蒼として「森の中」のような雰囲気があったのですが、今は明るく開放的です。
 これも個人的な好みの問題なのですが、昔の広場は「暗くて恐い感じだった」という人がある一方で、今のあっけらかんとした様子では風情が失われてしまったと言う人もいて、賛否が分かれています。

 これらはすべてとても重要な、大きく言えば、「文化を、護り育てる」という意味を持った事業なのでしょう。地域で主体的にそのような取り組みを推進しておられる花南地区コミュニティ会議には、本当に頭が下がりますが、これを現実に行っていく上では、いろいろと難しさがあるものだと痛感します。
 とりわけ賢治ファンというのは、各人それぞれの非常に強い思い入れを持っている人たちですから、万人のコンセンサスを得るというのは、およそ不可能とも思えてしまいます・・・。