北上川中流の町・花巻で生まれ育ち、中学校ではより上流に位置する県都・盛岡へと進学した宮澤賢治は、その中学の修学旅行において、北上川を蒸気船で下ることになりました。そして、河口の町・石巻で、生まれて初めて海を見たのです。今からちょうど100年前、1912年(明治45年)のことでした。
北上川とともに育った賢治が、その川が海に出会う地点で、やはり自らも海に出会ったのは、何かの運命が導くところだったようにも思われます。「花巻」と「石巻」という、対になったような名前の町。
ところでこの初対面において、海に対する賢治の第一印象というのはどうだったのでしょうか。当時の作品から推測すると、それは海の雄大さや美しさに「感激」したり「喜び」を感じたりというようなものではなかったようなのです。15歳の賢治が修学旅行の折りに詠んだ下記の短歌を読むと、彼は海に対して、何か不気味さや不吉さを覚えたように見えます。
まぼろしとうつつとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き
あるいは、この短歌を晩年になって改作した下の文語詩には、より詳しく描写されています。
われらひとしく丘に立ち
青ぐろくしてぶちうてる
あやしきもののひろがりを
東はてなくのぞみけり
そは巨いなる鹽の水
海とはおのもさとれども
傳へてききしそのものと
あまりにたがふここちして
ただうつつなるうすれ日に
そのわだつみの潮騒の
うろこの國の波がしら
きほひ寄するをのぞみゐたりき
賢治にとって初めて見る海は、幻か現実か疑うような「あやしきもの」で、こちらへ向かって迫るように「きほひ寄せ来る」様子だったのです。
この時に賢治たちが海を望んだ場所、すなわち「われらひとしく丘に立ち」の「丘」とは、石巻市の中心部から少し海よりにある、「日和山」と呼ばれる小山でした。
その昔お城もあったこの山の上には、その後「日和山公園」という公園が造成され、1988年に賢治の上記の文語詩を刻んだ上写真のような詩碑も建てられたので、私は2000年の夏にここを訪ねてみました。下は、その時の写真です。
北上川の河口にかかる日和大橋と、その向こうの太平洋が見えています。この日は晴れていたので、海は「青ぐろくしてぶちうてる」という感じではありません。しかしこれが、賢治が初めて海を見た時の眺望です。
その後私は昨年の11月に、医療支援のために石巻に行く機会がありました。11年ぶりに日和山公園から南を望むと、その風景は下のようになっていました。
ここで私は、先の震災の直後にこの日和山公園に避難してきたたくさんの人々が、このアングルから眺めたであろう映像を、想像せずにはいられませんでした。
太平洋から「きほひ寄せ来る」ようにせり上がってきた「巨いなる鹽の水」は、おそらく「青ぐろくしてぶちうてる」色をして、眼下に広がる町並みを飲み込んでいったでしょう。人々は、足元の山麓まで押し寄せる津波を、まるで「まぼろしとうつつとわかず」という心地で、茫然と見るしかなかったのではないでしょうか。
賢治がこの場所から初めて海を見た時に感じた不気味さや不吉さは、99年後に現実となる上のような光景を、幻視したものではなかったか・・・。そんな思いに私はとらわれたのでした。
もちろんそんなことはありえないとわかっていながら、震災を境に私は、賢治による上の短歌と文語詩を、この地を襲った津波と切り離して読むことができなくなってしまったのです。
◇ ◇
作家・詩人の辺見庸氏は、上写真のように茶色の荒野が広がる、石巻市南浜町の出身です。先日私は、辺見氏の『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ』という本を読みました。
瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ 辺見 庸 (著) NHK出版 (2012/1/6) Amazonで詳しく見る |
故郷・石巻について、辺見庸氏は書いています。
わたしが育った石巻および三陸の沿岸都市は、つねに、気配、兆しというものを孕んでいた。わたしは太平洋沿いの海岸近くに住んでいて、いつも潮騒と海鳴りを聞きながら、なにかの気配を感じていた。耳の底にはいまでも、遠雷のような低い響きがあります。海のうねりが磯でくだけるときに空気とこすれ、空気をまきこんで発する音が海鳴りですが、それは台風や津波などがくる前兆とされていました。
気配、兆しとは、これから、いつか正確にはわからないけれども、今後にやってくるもの、襲ってくることの見えないさきがけです。その気配、兆しというのは、いったいなにかということをずっと考えながら育ってきたのです。なにかがやってくる。なにかというのはよいことではないらしい。よからぬこと、それも途方もないことがやってくるとからだの奥で感じて育ちました。(p.46)
辺見氏が言うような「気配・兆し」を、私は賢治が石巻で詠んだ短歌やそれをもとにした文語詩に対して、感じるようになってしまったのです。それは、私個人が石巻で感じたことの、勝手な思い入れに違いありませんが。
この辺見氏の本は、訥々とした重厚な口調で、震災後の日本にあふれる厖大なまやかしの「言葉」を、厳しく斥けます。
震災の後、この被災地出身の作家・詩人に対しては、いろいろな新聞記者がコメントを求めに来ました。
3.11後、わたしはいくつかの新聞のインタビューを受けました。「日本はどうなると思うか」「日本はどのように再生すべきか」といった質問をよくされました。生来ひねくれ者のわたしは、記者の言葉からして鬆のたったダイコンやゴボウみたいに感じて不愉快になり、「この際いっそ滅びてみてもよいのではないか」「べつに再生しなくてもかまわないのではないか」などとまぜかえしました。
すると若い記者らは一瞬あきれ顔になって、聞こえなかったふりをするか、または「本気か」と問うてきたりするので、反射的に「本気だ」と答えたのですが、わたしのそうした応答は、案の定、新聞に一行も載ってはいないのでした。(p.142)
本書では、上の言葉に見るほどに、故郷に深い傷を負った作家が、オーウェルの『一九八四年』、原民喜の『夏の花』、石原吉郎のいくつかの文章、ブレヒトの『亡命者の対話』、折口信夫の詩「砂けぶり」、川端康成の「空に動く灯」、串田孫一との対談、堀田善衛の『方丈記私記』などを参照しながら、大震災によって壊されてしまった「既成の観念、言葉、文法」を超える表現を、探求していきます。
辺見氏は、入れかわり訪れる上述のような若い記者たちに絶望しながらも、本書の最後で出会った37歳の記者との間には、不思議な心の通い合いを見出します。
堀田善衛のどこが好きなのかわたしは問うてみました。少し間をおいてから、記者はポツリと言いました。
「なんだか、救われるから……」
「たとえば?」とわたしはさらに問いました。記者は『広場の孤独』のことや『方丈記私記』のことを話してくれました。これまであまりそのことを他人に話したりしていないようで、思いが整理されておらず、なんだか不得要領でした。ですから、あらかた忘れてしまいましたが、「『人間存在というものの根源的な無責任さ』という言葉に救われました」と彼がぼそっと語ったことは、こちらが反射的にすこしたじろいだので、かえってしっかり記憶しています。(p.172)
『方丈記私記』は、私も偶然ながら石巻に行った時に携行して読んでいました。それで、鴨長明が体験した平安末期の地震、飢饉、大火、疫病と、堀田善衛が体験した東京大空襲とが、たしかに私にとっても、震災後の状況と重なり合ったのです。
◇ ◇
さて、辺見庸氏の『瓦礫の中から言葉を』という本には、各章の終わりに辺見氏自身の詩が引用され載せられていて、印象的です。ただ、その最終章だけは、別の詩人の作品抜粋が掲げられて、本文は閉じられます。
別れぎわにあの青年(引用者注:上記の記者)は最後の質問をしました。「3.11後に読んだ文でいちばんよかったものはなんですか」。わたしは宮澤賢治の「眼にて云ふ」(「疾中」所収)という詩にとても感動した、と迷わず答えました。何十年も前に読んだことがあるけれども、大震災後に読んだら、どういうわけか眼が洗われるように風景が見えてきたのです。わたしは末期の視界を思いました。逝く者の視界にこそ、本物の言葉がありました。
青年はメモをとりながら「読んだことがない……」とつぶやきました。いまごろはきっともう読んだことでしょう。そして、わたしとはちがう風景を想い描いて心をおどらせたのではないでしょうか。
その詩の最後の十行はこうです。血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないのがひどいです
あなたの方からみたら
ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。
ガハク
賢治の予言能力霊感とでもいうような感性のあり方に驚きます。でも辺見さんの発言からすると地元の人達が当然のごとく持っている海に対しての畏敬の念とでもいうようなものもあるという事でしょうか。
海という大きな自然を前に人が当然持つはずの警戒感不安感恐怖を現代人は大量人工物の陰にあって忘れ過ぎているんでしょう。
因みに泳げない僕は海に近づくと雄大だとか何とか感じる前に怖くて仕方ありませんが。
最後の方の「人間存在の無責任さ」と『眼にて云ふ』の引用は非常に深いものを感じました。誤解を恐れず言えばいつも思う「人の存在の悲惨さ」に繋がるのかなとも。
hamagaki
ガハクさん、コメントをありがとうございます。
今の日本では、「15歳で初めて海を見る」ということ自体がまれになっているでしょうし、それにも増して、ご指摘のように、何か感覚が麻痺しているのでしょうね。自然に対しても、原発のような人工物に対しても。
多くの人にとってこの麻痺は、ふだんは気づかずにいて、痛い目にあって初めて自覚するというのが厄介。宮澤賢治や小出裕章などという人は、ふだんから感じていたんでしょうけど。
「人の存在の悲惨さ」。これも、ふだんから感じている人と、こういう大惨事になってやっと身につまされる人があるのでしょうか・・・。
signaless
賢治には、自分の生まれた年の津波のことが頭にあったのでは、という気がしました。
それは、賢治はタイタニック沈没のことをずっと心に留めていたこともあり、そういったことを子供の頃から決して忘れない人だったのではないかと思いました。
昨晩のNHKの番組でも、辺見さんは「きれい事をいいうな。人の記憶はそれぞれ皆違う。それを画一的なものにしてしまうことはかえって死者への冒涜だ」というようなことを言われていたと思います。
本質をしっかりと見つめる目。それは自分自身と向き合うことによってしか得られないのかもしれません。
この場を借りて、自分への戒めを書いてしまいました。
hamagaki
生まれた年の津波は、もちろん直接の記憶はなかったはずですが、叔父の治三郎が三陸の被災地へ行って撮ってきた写真というのを、幼児期に見ていた可能性はありますよね。
あと、北上川における小学2年時の児童水難、タイタニック号の沈没、イギリス海岸における「死ぬことの向ふ側まで…」という決意など、たしかにご指摘のように、賢治は「水の恐ろしさ」という観念を、ずっと抱いていたのかもしれません。
それらはすべて合わさって、後に「銀河鉄道の夜」に流れ込んでいったのでしょう。
その系列の一つに、石巻における「海との出会い」の短歌や文語詩も位置づけられるのかもしれません。
KATSUDA
タイタニック号の沈没は1912年4月15日のことで、4月18日には岩手日報などが速報で(小さく)伝えています(西田良子編『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を読む』p73)。全国紙にはもっと大きく出たとのこと。
賢治が石巻で海を見たのは同じ年の5月27日ですから、タイタニック号の事故のことは知っていたはず。初めて見た海が恐ろしく思えたのは、この事故の印象が強かったためもあるのではないでしょうか。
また同じ旅行で行った塩竈では、1909年にラッコ漁の船がアメリカで拿捕される事件があり、ジョバンニの父親の設定はこれにヒントを得たのではないか、とも言われていますね。もしかすると旅行のとき、その話を地元の誰かから聞く機会があったのでしょうか。
そして旅行の前年の1911年には条約が結ばれ、遠洋でのラッコ漁は禁止されました。
http://www.city.shiogama.miyagi.jp/html/kankou/urato/history/rakko/rakko-senn-nissi.html
http://www2.gol.com/users/mlv/kenkyu/ronbun01/index.html
そこでさらに想像ですが、ラッコ船に乗っていた人の子供が禁漁後(または拿捕事件後)に学校で「ラッコの上着が来るよ」と言ってからかわれることが実際にあって、それを賢治は塩竈で聞いたのかも、などとも思えてきます。
それは想像のしすぎだとしても、『銀河鉄道の夜』にはこの年の体験が相当影を落としている感じがします。
雨三郎
ようやく雪が消え、緑が芽吹き始めた桜の「アメニモマケズ」詩碑に本日行ってきました。そこの説明板によれば、この詩碑の石材は石巻産の稲井石ということでした。賢治自身はあずかり知らぬこととはいえ、縁の糸というものは、様々に絡まり合っているものと思った次第です。
hamagaki
> KATSUDA さま
ご教示ありがとうございます。
塩竃という町と「らっこ」の間には、縁があったのですね。
「銀河鉄道の夜」の舞台設定に塩竃が関与していたかもしれない、という説を立てておられる方もあるようで、この修学旅行の際の体験と、「銀河鉄道の夜」は、思いのほか深くつながっているのかもしれません。
私も以前に、「白金豚の塩釜焼き プリオシン海岸風」という記事において、1924年に塩竃で「シオガマゾウ」という象の祖先の化石が発見されたことが、「銀河鉄道の夜」のプリオシン海岸における化石発掘場面に影響を与えた可能性について、想像をたくましくしてみたことがありました。
地理や歴史の様々な知見を、賢治の作品と照らし合わせてみるというのは、その当否を実証するのは難しい場合が多いものの、楽しいものですね。
> 雨三郎 さま
桜の賢治詩碑に行ってこられたんですね。私はまだ今年は碑に対面していませんが、どんな表情だったでしょうか。
この碑が石巻産の「稲井石」で作られているということは、佐藤隆房『宮沢賢治』に書かれていましたので、ちょっと長いですが、下記に引用させていただきます。
私は一昨年頃にこれを読んで、「稲井石について」というページで稲井石について調べたり、「北上運河」というページで稲井石の石切場あたりの写真を見たりして、近いうちに石巻に行って、この碑石の産地を見学してこようと考えたりしていたのですが、先の震災で石巻に甚大な被害が出て、その計画も雲散霧消してしまいました。
今回の雨三郎さんの書き込みで、自分が一昨年に考えていたそのようなことを思い出しました。
また私にも縁があれば、稲井石の石切場を訪ねてみたいと、あらためて思いました。
KATSUDA
お返事ありがとうございます。
エントリの話題とずれた書き込みですみません。また以前、シオガマゾウの発掘についてのエントリも読ませていただいたことを思い出しました。
ただ前から「銀河鉄道の夜」に関しては不思議に思っていたことがあって、それは賢治がこの作品を書き出した1924年ころにはもうタイタニックの事故は10年以上前の出来事だったのに、なぜそうとしか思えない客船事故を作品に入れたのだろうか(舞台の時代設定が限定される)、ということと、もう一つはなぜ「らっこの上着」なのか、ということでした。
特に、ラッコは北太平洋にしかいないので、ジョバンニは客船の青年の話を聞いて
「あゝ、その大きな海はパシフィックといふのではなかったらうか」と考えますが(2次稿ではここで父親を思い出していました)、一方で
「ああ、こゝはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州だ」という台詞からは、客船は英国から米国へ大西洋を渡ったように見えるとか、地中海の漁民がなぜ北太平洋まで遠征するのだろうか等、ラッコにこだわったために細かいところで辻褄が合わなくなっているように思えました。
タイタニックもラッコも海と関係するので、賢治の宇宙に対するイメージから海を出したのかとも考えましたが、歴史上の塩竈のラッコ漁の一件と合わせると、2つとも同じ年の経験に繋がっていたのかもしれないという別の線が浮上するので、考えすぎかもしれませんが気になります。
ただ賢治の手紙によると、塩竈についたあとすぐ病気の伯母さんを旅館に見舞いに行ったようなので、地元の人とゆっくり話す機会はあまりなかったのでしょうね。
この伯母さんが病気だったのと、ジョバンニの母がまただぶって見えてきたりもするのですが……。
hamagaki
KATSUDA さま、こんにちは。
「銀河鉄道の夜」の舞台設定とか、固有名詞との関係などを考えはじめると、いろいろつじつまの合わないことが出てきますね。
この客船事故の人々も、「タダシ」とか「きくよねえさん」とか、日本人の名前であることからして不思議です。
賢治がさらに生きて推敲を重ねていたら、地名・人名も含めて何らかの統一的な修正がなされたのかもしれませんが、こういう細部の関係には、さほどこだわっていなかったような印象もありますね。
塩竃は、「ポラーノの広場」には「シオーモ」として出てきますが、賢治にとってやはり思い出の地の一つだったのだと思います。
KATSUDA
ラッコやパシフィックについては、気にしないのが普通だと私も思います(笑)。
ただ先日『銀河鉄道の夜』の各稿を比べてみて、賢治もこの点は気にしていたのではないか、と思えるところがありました。
2次稿では青年は汽車の中に現れたとき、「こんなとこへ来たんだな」と言うだけで、ランカシャイヤとかコンネクテカット州だとかは言いません。一方、ジョバンニは青年の語る難破の物語を聞いて
「あゝ、あの大きなパシフィックの海をよこぎらうとして、この人たちは波に沈んだのだ。そして私のお父さんは、その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って」云々と父のことを思い出しています。
この叙述だと客船が航行していた海がどこかについての情報はジョバンニの心中表現しかなく、そこで太平洋と断定されています。史実のタイタニックとは離れますが、ラッコのいる海とは適合し、また作中での矛盾は生じません。
3次稿になると青年の登場場面で「あゝ、ここはランカシャイヤだ、いやコンネクテカット州だ」と言わせているので航海は大西洋だったことになりますが、ジョバンニの心中もそれに応じてか変えられて「あゝ、その大きな海はパシフィックといふのではなかったらうか」となっています。これは青年の回想を史実のタイタニックに近づける一方、ジョバンニの心中表現では客船の航行した海を「太平洋」という断定から一歩引かせる表現のように思いました。
つまり賢治もこの点についてはいろいろ考えて、ラッコのいる太平洋とタイタニックの航海した大西洋との食い違いが目立たなくなるようにして、なおかつラッコは捨てられなかったのではないか、それは何かラッコについてこだわりがあったからではないかと思った次第です。
そのこだわりの理由が塩竈で聞いた話だったのかどうかはもとより証拠がありませんし、単にはじめは海の違いに気づかずに書いて、あとで気づいたがラッコを捨てて別の設定を考えるのが面倒だったとも考えられます。
しかし1909年のラッコ猟船の拿捕を書いた乗組員の日誌を見ますと、5月27日に一行の中の片岡という人が「土人ニ酒ヲ呑マセ暴行シタル由」で入獄し、9月2日に禁錮4か月の判決を言い渡されています(「土人」と「白人」が日誌で区別されているので、「土人」はエスキモーのことかと思います)。
http://www.city.shiogama.miyagi.jp/html/kankou/urato/history/rakko/rakko-senn-nissi-1909.html
3次稿ではジョバンニの父が「そんならっこや海豹をとる、それも密漁船に乗ってゐて、それになにかひとを怪〔我〕させたために、遠くのさびしい海峡の町の監獄に入ってゐるといふのでした」とあるのが、(日誌を見たはずはないとしても)この片岡氏の話をどこかで聞いて書いたかのように符合していると思えるのでした。新聞で読んだ可能性ももちろん考えられますが、地元紙は調べていません。