こんど5月20日(日)には、わが盟友の竹崎利信さんが「きいて・みて宮沢賢治 第九回」で「グスコーブドリの伝記」をかたられますし、7月7日からは、ますむらひろしさんのキャラクター原案による映画「グスコーブドリの伝記」が公開されるとあって、なんとなく身辺が急にブドリづいた感じになっている今日この頃です。
「ありうべかりし賢治の自伝」(中村稔)とも言われるこの作品ですが、映画のコピーになっている「僕の名はブドリ。未来を照らす光になる。」というのは、ちょっと格好良すぎるのではないでしょうか。賢治が理想としたのは、「ホメラレモセズ/クニモサレズ」という形の生き方だったのですから・・・。
ところでこのお話の最後、ブドリが自らの死と引きかえに火山を爆発させ、イーハトーブを冷害から救うという結末に関しては、これまでもさまざまな議論がありました。人工的に噴火を起こすほどの技術がありながら、なぜ遠隔操作ができないのかというところは不思議ですし、賢治自身がそうであったのと同様に、ブドリの行動からは何か死に急いでいるような印象を受けてしまいます。
また、近年<宮沢賢治>という存在は、「自然との共生」とか「エコロジー」のシンボルのように奉られてきたのに、「科学技術によって人間に都合のよいように自然を改変する」というこの物語の壮大な企図は、そういう思想とは相容れないはずのものです。
このあたりのことに関して、高木仁三郎氏は次のように述べています。
私はあまり宗教的な観点というものがわからない人間ですので、そういう面から言うのではありませんが、この作品のこの結末は決して悲劇的ではないと思うんです。それは自己犠牲という文脈とも、またちょっと違うんではないかと思います。
私が言っているのは、エコロジーという観点からものを見た場合の話です。実際にこの作品の一番最後のところは、そしてちやうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした。
といって、終わっている。これは単にメデタシ、メデタシではなくて、むしろ、ブドリの試みというのが、また新しいブドリやネリに伝わって行くという、エコロジーの言葉でいえば、一種の循環ということを示しているのです。一つの死が次の生につながって行くという、仏教的にいえば輪廻ということになるのでしょうか。
ここは、仏教的な輪廻ということではなく、エコロジーの循環という文脈の中で読みたいのです。しかし、両者は同じところに行きつくかもしれません。先ほどの言葉でいうと放射性廃棄物というのは一つの一方的な死でしかありません。原子炉の核燃料が死んだ成れの果てです。これは新しい生へは繋がりません。そうではなくて、一つの死が新しい生に連がるような在り方、これが共に生きるということです。共に生きるというのは、いまの世代同士が共に生きると同時に、これから生まれて来る世代と共に生きるということでもあります。さらに死者と共に生きるということも含んでいなければならないのです。(高木仁三郎『宮澤賢治をめぐる冒険』)
これは、チェルノブイリ原発事故の翌年の1987年に、宮沢賢治記念館で行われた講演をもとにした文章です。
高木仁三郎氏が大腸癌で亡くなったのが、ある時期までずっと放射性物質を扱う研究を行っておられたことと関係があるのかどうか誰にもわかりませんが、その後に志を継ぐ人は、数多く出てきています。また、晩年に創設した「高木学校」については、「命を次の世代につなげてゆく」場と述べておられます(「市民科学者として生きる」)。
ただ、ブドリの死をそのような命の「循環」として前向きに肯定するところについては、まだ私は自分の気持ちを整理できずにいます。
◇ ◇
さて、ブドリがそのようにして死んだのは、27歳の時だったということが、作中には明記されています。
そしてちやうどブドリが二十七の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るやうな模様でした。
それにしても、この「ちやうどブドリが二十七」とは、いったいどういうことでしょうか。これが「ちょうど二十」とか「ちょうど三十」だったら、話はわかります。しかし「二十七」というのは、一般的には「ちやうど」と呼ぶような切りのいい数字ではありません。
これは、何かこの「二十七」という年齢に意味があるのではないかと思って、賢治の年譜を調べてみました。
1896年生まれの賢治が、数え年で二十七歳になったのは、1922年(大正11年)のことです。賢治の人生でこの年に何があったかというと、11月27日に妹のトシが亡くなったのです。
ブドリにもネリという仲のよい妹がいましたが、飢饉で離ればなれになった後、また再会しています。ネリは牧場主の息子と結婚して、可愛らしい男の子も生まれ、幸せに暮らしていました。
冬に仕事がひまになると、ネリはその子にすつかりこどもの百姓のやうなかたちをさせて、主人といつしよに、ブドリの家に訪ねて来て、泊つて行つたりするのでした。
そしてそのようなある日に、ブドリは火山を爆発させに行って、死んでしまうのです。
つまり、賢治の実人生では、27歳の時に妹が死んで兄が残りましたが、この「ありうべかりし賢治の自伝」においては、兄が死んで妹が残るという、もう一つのパターンが描かれたのです。
ネリは、この結末をどう受けとめたでしょうか。
◇ ◇
というようなことをふと思ったので今回の記事を書いたのですが、すでにずっと以前に、同じことを書いている人があったことに、ついさっき気づきました。
たなか・たつひこ氏は、昭和34年発行の『四次元』という雑誌に掲載された「二十七歳考―グスコーブドリの死と賢治」という論文において、「賢治は妹トシの死に際して無力だった自己を悔恨し、もしもう一度生き直せるならトシの幸せのために命を捨ててもかまわないと考え、妹を含めたぜんたいの人々の幸福のために死ぬブドリを描いた」と指摘しておられたのです。「二十七」という年齢の意味については、私も同感です。
「グスコーブドリの伝記」に関して大塚常樹氏は、「賢治とトシの離別をこのテクストに深読みすべきではないだろう」(學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』)と述べておられ、もちろん作品の主要なテーマは、初めの方に触れたような科学技術のあり方や捨身という行為にあるのでしょうが、やはり妹の影も無視することはできないのではないかと、私としては思う次第です。
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佐々木伸行
ずっと疑問に思っていたことが有るのです、「永訣の朝」のトシの言葉で 「うまれてくるたて・・」は
「うまれてくるときは・・」とされているのですが、私には「~たて」は単純に標準語化しても「~たって」であるような気がしてならないのです、「仮定」であり、それには願望(可能性)なども含まれる様に感じてしまうのです。
「(また)生れて来れるとしたら・・」深く考え読んだことが無いのに、言い変えてみるのは怖いのですが、この記事を読んで、思い切っておたずねしてみる気になりました。
「~たて・・」幼いころ〈花巻に居た頃)、よく使っていたことばです。
「~したてわがね、なじょしても・・・」努力をしない言い訳が多かったです。 (~してもだめさ、どうしても・・) 次元が低すぎますが。
hamagaki
佐々木伸行さま、コメントありがとうございます。
「うまれでくるたて~」は、ご指摘のように「仮定」の意味だと私も思います。
「生まれてくるとしても、今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてくる」となるでしょうか。
一方、賢治自身による「註」では、「またひとにうまれてくるときは~」となっています。
トシも賢治と同じく仏教を篤く信じていましたから、自分が死んだ後に何らかの形で輪廻転生することは、確信していたでしょう。しかし、「人に」生まれ変わるという保証はないので、それを「仮定」の形で願望を述べたのではないでしょうか。
匿名
佐々木さんのコメントを拝見して、微妙なニュアンスですが、「願いが込められている」という意見、私もそう感じました。
賢治は標準語に訳す時には言い切ったのですが、それは必ずひとに生まれ変わってきてくれ、という賢治の強い願いが潜んでいるのであり、一方トシの生の言葉にはひとり旅立つ心細さと、そうありたいトシの願いが表れているのではないでしょうか。
見過ごしてしまう部分ですが、深いものがあるような気がします。
signaless
↑すみません、コメントに名前を入れ忘れました。