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白金豚の塩釜焼き プリオシン海岸風

 毎年9月22日、賢治忌の翌日には花巻で宮沢賢治学会の総会があり、その終了後には広いホールで立食形式の懇親会が開かれます。
 この会では、全国から集まったたくさんの賢治ファンの方々や、著名な研究者の先生ともお話できるのが何よりの幸せなのですが、もう一つの楽しみは、毎回ここで饗される料理です。それは、料理研究家・童話作家の中野由貴さんの企画立案により、賢治の作品にちなんで工夫が凝らされたメニューで、毎年よくぞこんなにチャーミングで、美味しくて、賢治風で、花巻の土地にも根ざした料理のアイディアが湧いてくるものだなあと、私はいつも感動しています。

 で、去年のその懇親会のメニューは、「『銀河鉄道の夜』食堂車ディナー」と銘打った企画でした。(下は当日のメニュー説明パンフより)

 「銀河鉄道の夜」には、何やら気になるおいしいものがたくさんでてきます。
 ジョバンニが買って帰ってきたパンと角砂糖、とりにでかけた牛乳、彼のお姉さんが作ったトマトで何かこしらえたもの。そして銀河鉄道沿線では、銀河の水に鱒や鮭が跳ね、鳥捕りはチョコレートよりもっとおいしい雁や鷺、白鳥や鶴をつかまえ、苹果や野茨の匂いもどこからか届きます。・・・

 そしてその夜のテーブルには、岩手のミルク飲み比べや、トマトシチューや、ホワイトチョコレートの雁など、賑やかな食べ物が並んだのですが、個人的にいちばん美味しくいただきつつそのセンスに惹かれたのは、表題にした「白金豚の塩釜焼き プリオシン海岸風」という料理でした。

 それがどんな料理だったかということについて、以下ご説明いたします。
 まず「白金豚®」というのは花巻産のブランド豚の銘柄で、賢治の「フランドン農学校の豚」の中で農学校の生徒が、豚というのは水や藁などを食べて上質の肉に変える一種の「触媒」のようだと感心し、代表的な無機物の触媒である白金と同じことだ、と述べる場面に由来しています。「プラチナポーク」という名称も、同じ会社の登録商標になっています。
 そして「塩釜焼き」というのは、塩を卵白で練ったもので肉や魚を覆い固めてオーブンで焼き、カチカチの岩状に焼き上がった塊を、木槌などで割って、中の肉や魚をいただくという料理です。塩だけのシンプルな味付けで、「釜」に閉じ込めた素材の旨みを楽しむ趣向です。
 以上で、「白金豚の塩釜焼き」という料理がどういうものかは、ご想像いただけるかと思います。それは最初は、下のような外観をしています。

白金豚の塩釜焼き・取り出し前

 次に、ではなぜこれが「プリオシン海岸風」なのかというと、豚肉を食べるためにはこの焼けた塩の塊を木槌やハンマーで割って中の肉を取り出さなければならないのですが、その作業を、「銀河鉄道の夜」のプリオシン海岸で化石を発掘するところ見立てたというわけです。

 プリオシン海岸で、銀河鉄道を一時下車して発掘作業を眺めていたジョバンニとカンパネルラに、男の人は言いました。

「君たちは参観かね。」 その大学士らしい人が、眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
「くるみが沢山あったらう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらゐ前のくるみだよ。ごく新しい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れてゐるとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしてゐたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまへ。ていねいに鑿ででやってくれたまへ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさん居たさ。」

 というわけで、下の写真が、懇親会の始まりに木槌やハンマーで、「塩の塊を割る」発掘作業をしているところです。

白金豚の塩釜焼き・発掘作業

 以上のような事情が、「白金豚の塩釜焼き プリオシン海岸風」というメニューの名前に込められているわけですね。ところで、私はたまたま最近、宮城県の塩釜(塩竃)という街へ行ってきました。
 「塩釜焼き」という料理名は、塩釜という地名とは何の関係もありません。この街にこの春、「ポラーノの広場」の一節を刻んだ文学碑ができたので、それを見学に行ったのです。

 賢治作品にちなんで「シオーモの小径」と名付けられた散策路と石碑群を見てきた私は、列車を待ちながらJR本塩釜駅をぶらぶらしていたところ、構内の案内マップに、下の写真のような記載を見つけました。

塩釜散策マップ

 塩竃市の高台に「伊勢神明社」という神社があり、その右上に、「大正13年、2000万年前のシオガマゾウの化石が発見された。」と書いてあるではありませんか。
 大正13年(1924年)というと、まさに「銀河鉄道の夜」の最初期形(第一次稿)が書かれたと推定されている年です。『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』という本において入沢康夫氏は、「《着想は1924年の夏で、着手はその秋》というあたりが、おそらく正しい答ではないだろうか。」と述べておられます。

 これがきっかけで興味が湧いたので最近ネットで少し調べてみましたが、当時シオガマゾウを記載研究したのは、東北帝国大学理科大学地質学教室教授の松本彦七郎博士でした(「東北大学創立100周年記念 理学部サイエンス展示」参照)。
 一方、シオガマゾウ発見の翌年には、賢治がイギリス海岸で採集したバタグルミの化石が、鳥羽源蔵氏を通じて東北帝国大学理科大学古生物学教室助教授の早坂一郎博士の手に渡りました。早坂博士は1925年11月に花巻を訪れ、賢治の案内で実地踏査・採取を行って、成果は1926年2月の『地学雑誌』に「岩手県花巻町産化石胡桃に就いて」として発表されています(「東北大学総合学術博物館」参照)。
 つまり賢治は、ちょうどこの頃に東北帝国大学理科大学の研究室と、一定の関わりを持っていたのです。

 ということで、何も具体的な証拠はないのですが、賢治が「銀河鉄道の夜」の「プリオシン海岸」の章に、(自分が見つけたクルミの化石だけでなく)牛の祖先の化石の発掘作業の場面を入れた背景には、ひょっとしたら同時代に塩釜で象の祖先の化石が発見されたというニュースがあったのかもしれない・・・などと空想してみたわけです。
 もしもそうであれば、「白金豚の塩釜焼き プリオシン海岸風」という料理名には、さらにもう一つの意味を重ね合わせてみることができます。

 すわわち「塩釜」とは、肉を包む塩の塊であるだけでなく、賢治にとってはプリオシン海岸における大型哺乳類化石発掘のイメージを触発した、「地名」だったのかもしれないのです。

懇親会の終わり