「ポラーノの広場」碑
1.テキスト
そして八月三十日の午ごろ、
わたくしは小さな汽船で
となりの縣のシオーモの港に着き、
そこから汽車でセンダードの
市に行きました。
『ポラーノの広場』より
宮澤賢治
2.出典
「ポラーノの広場」(五、センダード市の毒蛾)より
3.建立/除幕日
2010年(平成22年)3月17日 建立
4.所在地
宮城県塩竃市港町 「シオーモの小径」
5.碑について
2010年3月、宮城県塩竃市の港に面した一角に、明治以降に塩竃を訪れた文人たちの作品を刻んだ石碑群が建立され、海辺の遊歩道も整備されて、「シオーモの小径」と名付けられました(右写真)。もちろん、「シオーモ」とは、賢治が「ポラーノの広場」の中で塩竃をモデルに、エスペラント風に付けた架空の地名です。
「シオーモの小径」に碑が並べられた文学者は、宮澤賢治のほかに、佐藤鬼房、北原白秋、若山牧水、斎藤茂吉、与謝野寛、与謝野晶子、田山花袋、正岡子規、高橋睦郎、という錚々たる面々です。塩竃は、日本三景の一つでもある名所「松島」の観光の起点だったので、多くの文人が訪れたのでしょう。
有名な文人の中で、賢治がいちばん立派な碑にしてもらった上に(ひいき目?)、企画全体の名前にも採用されたとは、ファンとして嬉しくなります。
15歳の賢治は、1912年(明治45年)5月28日に、盛岡中学の修学旅行で石巻から船に乗り、松島の瑞巌寺を経て、この塩竃港に着きました。こ こで彼は引率の先生の許可を得て集団から離れ、7kmほど離れた菖蒲田というところで病気療養していた伯母・平賀ヤギを、一人で訪ねました。伯母と感動的な再会を果たした賢治は、その晩は一緒に療養先の旅館に泊まり、翌朝に徒歩と人力車で塩竃駅まで急ぎ、そこから鉄道で仙台に出て、修学旅行の一行と合流します。
この時の行程(伯母訪問経路を除く)が、碑文の上の地図に刻まれています。
一方、少年小説「ポラーノの広場」の「五、センダード市の毒蛾」の章において、レオーノキューストはイーハトーヴォ海岸地方に出張を命ぜられます。
次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬か ら岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所 へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれ ました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞり をたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。けれどもファゼーロ! あの暑い野原のまんな かでいまも毎日はたらいてゐるうつくしいロザーロ、さう考へて見るといまわたくしの眼のまえで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを踊ったりうたったりしてゐる娘たちや若ものたち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなの〔数文字分空白〕 とひとりでこゝろに誓ひました。
そして八月卅日の午ごろわたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着きそこから汽車でセンダードの市に行きました。卅一日わたくしはそこの理科 大学の標本をも見せて貰ふやうに途中から手紙をだしてあったのです。わたくしが写真器と背嚢をもってセンダードの停車場に下りたのはちゃうど灯がやっとつ いた所でした。
上記の地名のうち「サーモ」とは、三陸海岸の北端の八戸市「鮫」地区のことと考えられ、「シオーモ」は塩竃、「センダード」は仙台に、容易に比定でき ます。記録上わかっているかぎりでは、賢治が塩竃を訪れたのは前述の中学校修学旅行の時だけのようであり、「小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に行き そこから汽車でセンダードの市に行き・・・」という経路が修学旅行の際のものと同じであることからも、修学旅行における塩竃の記憶が、ここに反映されてい るのだろうと思われます。
「ポラーノの広場」というお話は、モリーオ市の博物局に勤めていた青年技官レオーノキューストが、農民の集う「広場」の成り立ちと経緯について書き誌したという形をとっています。
物語には、冷たい高原の空気のように郷愁と哀感が漂っていますが、この「五、センダード市の毒蛾」という章は起承転結の「転」にあたる部分で、キュース トは休暇を兼ねた出張でモリーオ市を離れ、海岸地方を楽しく旅しながら標本を集めます。全体の中でここだけには、賑やかな夏の雰囲気が満ちているところで す。
◇ ◇
ところで現在、塩竃市内にはJRの駅が4つもありますが(塩釜駅、西塩釜駅、本塩釜駅、東塩釜駅)、賢治が利用した時代の「塩竃駅」は、このうちのどれでもありませんでした。
下に、Wikipedia でわかりやすくまとめられていた、塩竃における駅の変遷表を引用させていただきます。
年月日 | 東玉川町 |
本町1 |
海岸通15 | 貞山通1 |
|
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1887年12月15日~ | 日本鉄道 塩竈駅 |
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1909年10月12日~ | 塩竈線 塩竈駅 |
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1926年12月15日~ | 宮城電気鉄道 本塩釜駅 |
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1933年9月25日~ | 塩竈線 塩竈港駅 |
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1944年5月1日~ | 仙石線 本塩釜駅 |
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1956年6月10日~ | 塩竈線 塩釜埠頭駅 |
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1956年7月9日~ | 東北本線 塩釜駅 |
塩釜線 塩釜港駅 |
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1981年11月1日~ | 仙石線 本塩釜駅 |
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1986年10月21日~ | |||||
1990年4月1日~ | 塩釜線 塩釜埠頭駅 |
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1997年4月1日~ |
ご覧のように、1912年における「塩竃駅」は、最後は「塩釜埠頭駅」と名前を変え、現在は存在していません。今、その跡地に建っているのは「イオンタウン塩釜ショッピングセンター」で、この「シオーモの小径」からは道路をはさんで向かい側にあることは、何か不思議な縁です。
つまり、この「シオーモの小径」は、賢治をはじめ多くの文人たちが降り立った旧「塩竃駅」の目の前に作られたわけですね。
このことを記念してか、この賢治の石碑の一部には、昔の塩竃駅のレールが用いられ、碑の周囲の敷石は、その駅に敷かれていたものだということです。
レールは碑の下部にあって、その部分を拡大してちょっとトーンカーブをいじると、下のような文字が浮かび上がります。
左には、「UNION 1885」と記されていますが、実際にレールに刻まれている文字は、私には「UNION D 1886 I.R.J.」と読めるのですが、どうでしょうか。
ウェブで調べたところでは、「UNION」というのはドイツの会社名「ウニオン」、「D」は、そのドルトムント工場で作られたという記号、「I.R.J.」は発注者を表し、「Imperial Railway of Japan」の略だということです。
いずれにしても、実際に賢治が踏みしめたであろう敷石や、彼を乗せた列車が走ったレールがここに生かされているというのは、その昔への想像をかきたてます。
そうそう、それから石碑にあいている円い穴の意味は、ちょうどこれをずっと延長した方向に、賢治の故郷の花巻があるというというのだそうです。正確にその方角へ向けて、碑は設置されているのだということです。