シオーモの小径

 先の連休に、宮城県の塩竃と七ヶ浜、それから福島に行ってきました。今回から何度かに分けて、そのご報告をいたします。

 まずは、20日(土)夜の京都駅八条口から。「杜の都」にちなんだ「フォレスト号」というバスに乗り・・・

フォレスト号乗車

・・・21日(日)の朝に仙台駅に着きました。

フォレスト号下車

 夜中にはかなり雨も降っていたようなのですが、仙台に着くと幸い雨は上がっています。しかし風はとても強い。
 仙台駅の食堂街の「牛タン定食」で腹ごしらえをすると、仙石線に乗って本塩釜駅に向かいました。

 上でもすでに二種類が出てきた「しおがま」の漢字表記に関して。市で定めた正式な用字は「塩竃」だそうですが、一方で「塩釜」という表記も認められているということです(塩竃市HP「竃の字ついて」)。実際、市役所の公式文書では「塩竃」で、他方JRの駅名は、「塩釜」「本塩釜」「西塩釜」「東塩釜」となっています。
 もともと「釜」は金属製の大きな鍋のことであり、「竃」はその釜を掛けて煮炊きするための据え付け設備(=かまど・へっつい)のことですから、字の意味する対象は違います。むかし塩竃あたりの砂浜には、海水を沸騰させて塩を作るための「かまど」が多く設けられていたので、それが地名になったということです。
 ちなみに、「猫の事務所」に出てくる「かま猫」は、金属鍋の中で寝るのではなくて「かまど」の中で寝るのですから、これも「釜猫」ではなくて「竃猫」ですね。

 さて、15歳の賢治は、1912年(明治45年)5月28日に盛岡中学の修学旅行で石巻から船に乗り、松島の瑞巌寺を経て、この塩竃港に着いています。ここで彼は引率の先生の許可を得て団体から離れ、7kmほど離れた菖蒲田というところで病気療養していた伯母・平賀ヤギを、一人で訪ねました。彼はその時の様子を父に報告する感動的な手紙を残しているのですが、これについてはまた後日に触れる予定です。
 一方、少年小説「ポラーノの広場」の「五、センダード市の毒蛾」の章において、レオーノキューストはイーハトーヴォ海岸地方に出張を命ぜられます。

 次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。けれどもファゼーロ! あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいてゐるうつくしいロザーロ、さう考へて見るといまはたくしの眼のまえで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを踊ったりうたったりしてゐる娘たちや若ものたち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなの〔数文字分空白〕とひとりでこゝろに誓ひました。
 そして八月卅日の午ごろわたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着きそこから汽車でセンダードの市に行きました。卅一日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せて貰ふやうに途中から手紙をだしてあったのです。わたくしが写真器と背嚢をもってセンダードの停車場に下りたのはちゃうど灯がやっとついた所でした。

 上記の地名のうち「サーモ」とは、三陸海岸の北端の八戸市・「鮫」地区のことと考えられ、「シオーモ」は塩竃、「センダード」は仙台に、容易に比定できます。記録上わかっているかぎりでは、賢治が塩竃を訪れたのは前述の中学校修学旅行の時だけのようであり、「小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に行きそこから汽車でセンダードの市に行き・・・」という経路が修学旅行の際のものと同じであることからも、修学旅行における塩竃の記憶が、ここに反映されているのだろうと思われます。
 「イーハトーヴォ」「モリーオ」「サーモ」「シオーモ」「センダード」のいずれも、現実の地名(「岩手」「盛岡」「鮫」「塩竃」「仙台」)に、語呂がよくなるように語尾の子音を加減して、さらに、(1)名詞の語尾は"-o"で終わり、(2)後ろから二番目の音節にアクセントが置かれて長音化する、というエスペラントの規則に従って造語されています。

 「ポラーノの広場」というお話は、モリーオ市の博物局に勤めていた青年技官レオーノキューストが、農民の集う「広場」の成り立ちと経緯について書き誌したという形をとっています。
 物語には、冷たい高原の空気のように郷愁と哀感が漂っていますが、この「五、センダード市の毒蛾」という章は起承転結の「転」にあたる部分で、キューストは休暇を兼ねた出張でモリーオ市を離れ、海岸地方を楽しく旅しながら標本を集めます。全体の中でここだけには、賑やかな夏の雰囲気が満ちているところです。

 そんな「シオーモ」=塩竃に、この3月17日に賢治の造語にちなんだ「シオーモの小径(こみち)」という名前の、文学碑の並ぶ散策路ができたと聞いて、今回私はやってきました。
 先にも少し触れたように、塩竃市にはJRの駅がいくつもありますが、港に近いのは仙石線の「本塩釜」駅です。

本塩釜駅

 この駅で降りると、「シオーモの小径」がある「マリンゲート塩竃」までは800mほどです。
 海辺に出ると、向こうの方に石碑が並ぶ光景が見えてきました。

「シオーモの小径」と「御座船」

 左に停泊している竜や鳳凰をかたどった鮮やかな船は、塩竃の「みなと祭」の際に神輿を載せて海を渡る「御座船」なのだそうです。奥へ続く歩道の右側に、石碑が並びます。

 まず最初にあるのは、地元塩竃の俳人・佐藤鬼房の句碑です。この「小径」は、鬼房が全国各地からやって来た文学者を迎えるような形で配置されているのだそうです。

馬の目に 雪ふり湾を ひたぬらす 鬼房

馬の目に
雪ふり湾を
ひたぬらす
    鬼房

佐藤鬼房
    (さとう おにふさ)
大正八年~平成十四年
    (一九一九~二〇〇二)
岩手より二歳の時に塩竃に移り
住み、働きながら句作に励む。
戦後を代表する俳人。市内権現
堂に<鬼房小径>がある。
  俳句は昭和二十年作『海溝』より。

 次は、並んで立つ白秋と牧水。

白秋と牧水

みちのくの千賀の塩釜雨ながら
網かけ竝めぬほばしらのとも
                  白秋

   塩釜より松島湾へ出づ
鹽釜の入江の氷はりはりと
裂きて出づれば松島の見ゆ
                  牧水

 そしていよいよ次が、賢治の「ポラーノの広場」。

宮澤賢治「ポラーノの広場」碑

そして八月三十日の午ごろ、
わたくしは小さな汽船で
となりの縣のシオーモの港に着き、
そこから汽車でセンダードの
市に行きました。
       「ポラーノの広場」より
                宮澤賢治

 上の石碑の下端は凹型になっていて、横に金属の棒が通してあるのですが、この金属の棒に見えるものは鉄道のレールで、碑の周囲に敷いてある石とともに、開業当時の旧塩釜駅で使われたものだそうです。
 上部には石巻から船で塩竃へ、そして汽車で仙台へ、というルートを表わす地図も刻まれています。凝った造りの見事な石碑です。

 次は、斎藤茂吉。さすがに風格のある歌です。碑石に四角くくり抜かれた穴は、立方体の「塩の結晶」を象徴しているのだそうです。

斎藤茂吉歌碑

松島の海を過ぐれば鹽釜の
    低空かけてゆふ焼けそめつ
                   茂吉

 さらに次は、与謝野寛・与謝野晶子夫妻。

与謝野寛・与謝野晶子歌碑

鹽釜の出口をふさぐ炭船のあひだに青き松島の端
                                寛
雁皮紙をいと美しく折り上げて松をさしたる千賀の浦島
                                晶子

 次には、田山花袋の紀行文まで。

田山花袋「山水小記」

 鹽竃の町は半は港で半は漁市
といふさまであつた。大漁の模様
のついたどてらを着た漁師、細
い通りに處々に並んでゐる青楼
の浅黄の暖簾、ある旗亭から三
味線の音が湧くやうに聞こえた。

 深く入込んだ 入江、そこに集
まつてゐる帆檣や和船や荷足
や水脈は黒く流れて、潮は
岸の旅舎の影を静かに揺かした。
          『山水小記』より
             田山花袋

 そして、正岡子規。

子規句碑

   籬嶋
涼しさのこゝを扇のかなめかな
                  子規

 最後は、この小径が完成した際の除幕式にも出席されたという高橋睦郎氏の歌碑。高橋氏は、佐藤鬼房の句に感動して面会して以来、たびたび塩竃を訪れて縁も深いのだそうです。一本の石碑の二面に一首ずつ刻まれています。

高橋睦?歌碑1   高橋睦?歌碑2

みちのくの千賀の塩竃釜に得む塩のはつかも笑みかけたまへ
                                     睦郎

塩の城(き)のザルツブルクに聞きしより年どし遠しサラリー縁起
                                     睦郎

 一首目は、先の白秋の歌にも出てきた「みちのくの千賀の塩竃」という昔からの歌枕を詠み込み、さらに「釜に得む塩の」までを含めた部分が、「はつかも」の枕詞のような役割を果たしている、古風な形式の歌。「ちょっとでもいいから笑みかけて下さい」という切実な思いを、長々と飾って歌う様子は、ちょっと万葉的かも。
 それに対して二首目は、「ザルツブルク」「サラリー」という外国語の入ったモダンな歌。モーツァルトの生地であり、現在も音楽の町として有名なオーストリアのザルツブルクは、古くから岩塩の産地として栄え、Salz(=塩)、Burg(=城)という名であることから、「塩の城(き)」というわけです。一方、塩はラテン語では sal というそうですが、古代ローマでは兵士の給料として塩を支給したことから、これが「サラリー=給料」という言葉の語源になったという話が、「サラリー縁起」でしょう。
 一首目は「千賀の塩竃」(近の塩)を、そして二首目は「遠の塩」(ザルツブルク)を詠んで、対をなしているのだそうです。塩竃もザルツブルクも、「塩」で発達してその名を冠する町なんですね。
 この高橋氏の短歌には、古典的な情緒と知的な言葉の技法があわさった、奥の深い味わいを感じました。

 「シオーモの小径」の説明の碑石。

シオーモの小径

シオーモの小径

塩竃を訪れた、近現代の文学者
たちの作品と一緒に、小径の散
策をお楽しみ下さい。シオーモ
は、宮澤賢治が『ポラーノの広
場』で、塩竃をイメージして付
けた架空のまちの名です。
      平成二十二年三月十七日
          塩竃市長 佐藤 昭

 ほんとうに、近現代の文学者が綺羅星のごとく並んでいる感じですね。

 もう一度振り返ると、点々と並ぶ石碑群と塩竃の港、市街はこういう風に見えます。いちばん手前にある大きな碑は、塩竃に港が開かれた時に建てられた「築港の碑」です。

「シオーモの小径」と塩竃港