東北地方太平洋沖地震 各地の映像を見ても心が痛むばかりで、オロオロとまだ何もできずにおりますが、被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。 救助・復興活動の進展と、避難されている方々の安全と健康を切にお祈りしつつ、まだこれから自分にできることを考えています。 1933年3月3日に発生した「昭和三陸大津波」の見舞いに対して、賢治が3月7日付で詩人・大木實あてに出した葉書 (勉誠出版『月光2』より) ツイートする この記事に付けられたタグ 地震(10記事), 津波(17記事) 前の記事 次の記事 コメント signaless 2011年3月13日 23:27 時間が経つほど次々と明らかになっていく被害状況に、TVの前で絶句しています。自分の無力を感じています。胸が痛いです。 阪神大震災の惨状を目の当たりにされた浜垣さんの心痛はなおのことと思います。 今日、隣市主催の講演会に行ったのですが、入り口に募金箱が設置されていてすでに沢山募金されていました。そして最初に全員で黙祷を捧げました。 少しでも自分にできることを考えたいと思います。 返信 hamagaki 2011年3月14日 00:07 signaless さま、コメントをありがとうございます。 当初の予定では、この土曜の晩から日曜まで花巻に行こうと思っていたのですが、そんなことは土埃のように吹き飛んでしまいました。 岩手県、宮城県、福島県におられる知人の顔が、脳裏をよぎります。 阪神大震災の時は、同僚と交代で支援に行くこともできましたが、今はそういうこともできませんので、他の形で何とか微力を尽くすことはできないものかと悩んでいます。 まだ今のところは、心から祈るばかりです。 返信 雨三郎 2011年3月14日 03:42 本震の揺れの強さと長さ、また余震の頻度や強さや継続性は、当方がこれまで全く経験したことがないものでした。自宅にほとんど被害がなかったのが、不思議なほどでした。電気が昨日、電話やインターネットが今日になってようやく通じるようになりました。それでも花巻など内陸部は、沿岸部に比べれば、まだまだましな方だったようです。沿岸部の津波の映像や被災された人々の姿には、ひたすら言葉を失うばかり。いったいこれをどう理解すればいいのかと、途方に暮れるような気持ちです。 返信 hamagaki 2011年3月15日 00:53 雨三郎さま、たいへんな中でコメントをいただきましてありがとうございます。 インターネットがつながって間もなくに当サイトをご覧いただけたとは、勿体なくて涙が出ます。 11日以降この3日あまり、本当にご苦労の連続だったこととお察し申し上げますが、どうかご無理をなさらず、お身体を第一にして下さい。 こういう場合は、ちょっと一段落したところでそれまで貯まっていた疲れが出るものだとも聞きます。 あの美しいイーハトーブが、一日も早くまた活気と落ち着きを取り戻されるよう祈るとともに、私も何とかしてそのお力になりたいと思っています。 返信 雨三郎 2011年3月16日 04:39 お気づかいいただき、ありがとうございます。被災地の惨状や被災された方々の姿を見る時、信心薄い当方の脳裏にも、「オホーツク挽歌」の中のどっしりと重い祈りの言葉「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」がよぎります。 返信 hamagaki 2011年3月17日 03:05 雨三郎さま お題目をサンスクリットに移すとしても、賢治によるこの訳は、文法的に誤りがあるという「専門家」の指摘を読んだことがあります。 それはともかく・・・ しかし私にとっては、それだからこそ、この言葉は既成の宗教を越えた「賢治独自の祈り」を象徴する声として、かえって心に響きつづけています。 実際に賢治は、1923年の夏にオホーツクの海岸で、この通りの言葉を口に出して祈ったはずですよね。 今この時にも、東日本の太平洋の海岸へと、この祈りを私もご一緒に捧げたいと思います。 ありがとうございました。 ナモサダルマプフンダリカサスートラ。 ナモサダルマプフンダリカサスートラ。 返信 NakashoNobuo 2011年3月20日 12:43 賢治は津波の被害を実際に見たのですね。作品にその反映はないのでしょうか? 返信 hamagaki 2011年3月20日 18:29 NakashoNobuo 様、ありがとうございます。 1933年(昭和8年)の「昭和三陸大津波」は、賢治が亡くなる半年ほど前のことで、津波のあった3月にも、原稿を書いたり手紙のやりとりはかなり活発にしていますが、基本的には病床にあって外出できない状態だったため、賢治は津波の被害を実際に見たわけではないようです。 作品にも、津波を扱ったものはありません。 (ただこの津波の直後、弟の清六氏は、釜石に赴いて罹災者を見舞ったということを、「兄賢治の生涯」に書いています。もし賢治がこの時「丈夫ナカラダ」だったら、彼の性格からしても、一緒に行っていた可能性が高いのではないかと思います。) それにしても、賢治の生年の1896年に2万2千人もの犠牲者を出した「明治三陸大津波」があり、没年の1933年にまた「昭和三陸大津波」があったというのは、本当に不思議な暗合です。 「風の又三郎」が、9月1日=二百十日の「どうと吹く」風とともに皆の前に現れ、9月12日の再び「烈しい風」の日に去っていったことを、連想します。 返信 ばばば 2011年3月30日 21:28 岩手をはじめ津波の被害を受けたみなさまのことを思うと言葉もありません。 当方は福島の内陸で幸い被害が少なく、食器棚や本棚が倒れた程度で助かりました。(賢治作品の本棚は重いせいか倒れませんでした。) 今は原子力災害をいかにくいとめるかが課題です。 宮沢賢治が命をかけて普及につとめた石灰には放射性セシウムの作物への吸収を防ぐ効果があるかもしれないと話題になっています。 石灰が再び東北の農家を救ったら賢治先生も喜んでくれるかもしれません。 返信 hamagaki 2011年3月31日 02:20 ばばば さん、こんばんは。 今は、日本どころか、世界中の目が福島に注がれているところですが、大変な状況の中でコメントをいただきまして、ありがとうございます。 関西広域連合の役割分担では、京都府は福島県に支援・協力をする担当になっています。これも何かのご縁のようです。 ところで、石灰の散布によって、作物による放射性セシウムの吸収を低減できるかもしれないというお話、たいへんに興味深いです。 少し調べてみましたら、「チェルノブイリ事故における環境対応策とその修復」という資料に、「放射性セシウムや放射性ストロンチウムの植物への吸収を低下させるための土壌処理」として、「鋤きおこし、追いまき、窒素・燐酸・カリの施肥、石灰の散布」という方法が挙げられていました。(以下は上記資料からの引用) 鋤きおこしは、根が栄養を吸収する土地表層(地表)の放射性汚染を薄める役割をする。また表層を剥ぎ取りこれを埋める鋤きおこしも有効であった。 化学肥料の施肥は植物の成長を促進し、これにより植物内の放射能を薄める役目をする。また化学肥料は土壌水中の Cs-K 比を低め、したがって放射能の吸収を低下させる。 上記の処理方法をすべて行うことを根対策処理(Radical 処理)という。この根対策処理はチェルノブイリ事故で汚染された牧草地に最も効果的で実用的な対策であった。 土壌処理の効果は土壌の種類、栄養状態、pHおよび追い播きに用いる植物の種類によって異なる。更にNPK肥料および石灰の投与割合は放射能の吸収割合に影響を与える。 根対策処理は肥えていない砂質土では放射性セシウムの土壌-植物移行割合の減少率が2~4、有機質土壌で3~6という研究結果がある。 この資料を読むと、チェルノブイリ事故後のソ連では、実際に上の4つの方法が系統的に実施されて一定の効果を上げたようです。そしてこれ以後世界中のどこにも、他には対策の実績は存在しないわけです。 したがって、もしもこのたび日本で放射性セシウムで汚染されていると判断される農地が出てくれば、石灰の散布も行われるのでしょうね。 今はただ、放射性物質による被害が最小限に食い止められるように祈るばかりですが、かりに再び東北の農地に石灰の散布が大々的に行われることになれば、不思議な歴史の巡り合わせを感じざるをえません。 返信 こががっこ 2011年3月31日 22:24 宮沢賢治さんと災害との関連がこんなにも深いとは、実に驚きです。ぼくは賢治さんのメンタルスケッチを詳細に研究しようと思っています。賢治さんは自然との調和を求める気持ちと、自然への怒りのような感情が同居しているように、ぼくには思えます。そこを掘り下げて、賢治さんの修羅の部分を、もっと明るみに出せないかと考えています。たとえば災害への怒り、天災への憎しみ、そこから生み出されてくるヒューマニズムについて。 返信 hamagaki 2011年4月 1日 01:44 こががっこ様、コメントをありがとうございます。 「自然」という言葉は、今の私たちは英語の Nature の意味でごく普通に使っていますが、明治維新前後の日本には西洋の Nature に相当する単語は存在していなくて、それまではおもに「じねん」と読まれて「おのずから、あるがまま」という状態を表わしていた「自然」という語を、Nature の訳語に充てたのだそうです。 これはなかなか興味深いことで、つまり近世以前の日本には、「人間あるいは人工」対「自然」という二項を対立させて捉える視点は一般的ではなくて、「人間」というものも、今で言う「自然」の中に含まれる存在として捉えていたらしいんですね。 上にいただいたコメントで、こががっこ様のご指摘のような、「人間と自然を調和させる」とか、「人間が自然に怒りをいだく」というスタンスは、どちらかと言えば西洋的な、「人間と自然とを分けて考える」視点にもとづいていることになるわけです。 宮沢賢治は、おもに大正時代以降に活動しましたし、西洋の思想や自然科学も勉強していましたので、西洋的なものの見方も当然できたでしょうが、実際に作品に表れている彼の眼差しは、どんなものでしょうか。 いろいろな読み方、解釈の仕方がありうると思います。 たとえば私は、冷害や旱害に際して賢治が抱いたのは、「自然に対する怒りや憎しみ」というよりは、「自然も人間も含めた万象とともに悲しむ」(ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ…)というような感じだったのではないかと思ったりするのです。 あるいは、現代の「エコ」とか「自然環境保護」というのは、「人間と自然との調和」を目ざしているでしょうが、結局は長期的な人類の生存に都合がよいように、自然をコントロールするということです。 これに対して、賢治が人間と自然の間に想定していた関係は、たとえば「なめとこ山の熊」において最後は小十郎が熊に殺されてしまうように、人間だけに都合がよいものではありません。 賢治の考えていたことは奥深く、私にもまだまだよくわかりませんが、こががっこ様の研究が、実り多いものになるよう期待しています。 長文失礼しました。 返信 こががっこ 2011年4月11日 09:21 hamagaki さま 重要な視点をご指摘いただき感謝いたします。ぼくらの時代は、西洋的な自然観で思考することに馴れてしまっているため、つい見失いがちな観点であると思いました。これから原子力発電のことを中心に、環境と社会と人間の関係をどのような方向へ進めてゆくか、みんなが真剣に議論していかねばならない状況のなかで、宮沢賢治という人物の遺したものは、ほんとうに示唆に富んだアイデアをたくさん提供してくれるものと信じます。 大正時代は、日本古来の和の文化と近代化のはざまにゆれていて、もっともっと探究すべき課題やヒントが眠っているように思います。賢治さんの思考の跡を追うことで、それがより鮮明になってくる気がしています。テキストを何度も読んで、ぼくなりの発掘をして参ります。 返信 M 2011年4月14日 01:42 昭和8年の三陸沖地震と津波のあと、<弟の清六氏は釜石に赴いて罹災者を見舞った>を興味深く読みました。 昭和四年六月、祖父は下閉伊庁に勤務のため盛岡から釜石に赴任し、その一ヶ月後に高橋ミネと結婚しています。それから四年目のこと、祖父は<この大浪災に際して殆ど日夜不眠不休罹災民の救護災後の復旧復興に尽力したる労功至大なるものあり>として県庁の役人から釜石町助役に推薦されます。多分昭和六年に看護婦仲間との写真を残しているミネさんも、きっと看護婦としてこの災害に立ち向かって尽力されたのではないでしょうか。 祖父の遺品の「市制記念 釜石大観」には詳しい歴史がつづられ「貞観11年には陸奥国境、地大いに震ふ、激浪陸を浸し本郡内の死傷1万2千人の及ぶと伝えられ る」とあり、それ以降の大地震等も記載されています。歴史に学ぶ大切さをあらためて感じます。東北は私の両親の故郷でもあります。1日も早い復興を心から願わずにいられません。 返信 hamagaki 2011年4月14日 02:08 M さま、お久しぶりです。その後、日本は大変なことになってしまいましたが、そちらではお変わりなくお過ごしでしょうか。 さて、清六氏が昭和三陸大津波の直後に釜石に行き、罹災者を見舞ったという記述を見つけた時、私も伊藤(高橋)ミネさんと伊藤正さんのご夫妻のことを思い浮かべました。 お祖父さまが救援と復興に不眠不休の尽力をされたことは記録にあるとおりですし、そしてご指摘のとおり、ミネさんも指導的な立場にある看護婦として被災地で活躍されたに違いないと、私も思います。 ということは、罹災直後の慌ただしい釜石において、清六氏と伊藤夫妻は、ひょっとしたらニアミスしていたかもしれない、などという空想に思わずふけったりもしてしまいます・・・。 吉村昭氏の『三陸海岸大津波』(文春文庫)を読むと、当時の救援活動は、基本的には役所や警察・陸海軍によるものだったようです。 そのような中で、現代のボランティアのように、一般人である清六氏が直後に現地に入ったというのは、とても先進的な行動のようにも思えます。 私自身は、まだ現場に「行ッテ」何かできるような状況にはないのですが、1日も早くみんなが安心して生活できる環境になることを願いつつ、今度の日曜に京都で行うイベントの準備をしているところです。 返信 コメントの投稿 コメントの返信 コメント (スタイル用のHTMLタグを使えます) お名前 メールアドレス(任意) URL(任意) サインイン情報を記憶
signaless 2011年3月13日 23:27 時間が経つほど次々と明らかになっていく被害状況に、TVの前で絶句しています。自分の無力を感じています。胸が痛いです。 阪神大震災の惨状を目の当たりにされた浜垣さんの心痛はなおのことと思います。 今日、隣市主催の講演会に行ったのですが、入り口に募金箱が設置されていてすでに沢山募金されていました。そして最初に全員で黙祷を捧げました。 少しでも自分にできることを考えたいと思います。 返信
hamagaki 2011年3月14日 00:07 signaless さま、コメントをありがとうございます。 当初の予定では、この土曜の晩から日曜まで花巻に行こうと思っていたのですが、そんなことは土埃のように吹き飛んでしまいました。 岩手県、宮城県、福島県におられる知人の顔が、脳裏をよぎります。 阪神大震災の時は、同僚と交代で支援に行くこともできましたが、今はそういうこともできませんので、他の形で何とか微力を尽くすことはできないものかと悩んでいます。 まだ今のところは、心から祈るばかりです。 返信
雨三郎 2011年3月14日 03:42 本震の揺れの強さと長さ、また余震の頻度や強さや継続性は、当方がこれまで全く経験したことがないものでした。自宅にほとんど被害がなかったのが、不思議なほどでした。電気が昨日、電話やインターネットが今日になってようやく通じるようになりました。それでも花巻など内陸部は、沿岸部に比べれば、まだまだましな方だったようです。沿岸部の津波の映像や被災された人々の姿には、ひたすら言葉を失うばかり。いったいこれをどう理解すればいいのかと、途方に暮れるような気持ちです。 返信
hamagaki 2011年3月15日 00:53 雨三郎さま、たいへんな中でコメントをいただきましてありがとうございます。 インターネットがつながって間もなくに当サイトをご覧いただけたとは、勿体なくて涙が出ます。 11日以降この3日あまり、本当にご苦労の連続だったこととお察し申し上げますが、どうかご無理をなさらず、お身体を第一にして下さい。 こういう場合は、ちょっと一段落したところでそれまで貯まっていた疲れが出るものだとも聞きます。 あの美しいイーハトーブが、一日も早くまた活気と落ち着きを取り戻されるよう祈るとともに、私も何とかしてそのお力になりたいと思っています。 返信
雨三郎 2011年3月16日 04:39 お気づかいいただき、ありがとうございます。被災地の惨状や被災された方々の姿を見る時、信心薄い当方の脳裏にも、「オホーツク挽歌」の中のどっしりと重い祈りの言葉「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」がよぎります。 返信
hamagaki 2011年3月17日 03:05 雨三郎さま お題目をサンスクリットに移すとしても、賢治によるこの訳は、文法的に誤りがあるという「専門家」の指摘を読んだことがあります。 それはともかく・・・ しかし私にとっては、それだからこそ、この言葉は既成の宗教を越えた「賢治独自の祈り」を象徴する声として、かえって心に響きつづけています。 実際に賢治は、1923年の夏にオホーツクの海岸で、この通りの言葉を口に出して祈ったはずですよね。 今この時にも、東日本の太平洋の海岸へと、この祈りを私もご一緒に捧げたいと思います。 ありがとうございました。 ナモサダルマプフンダリカサスートラ。 ナモサダルマプフンダリカサスートラ。 返信
hamagaki 2011年3月20日 18:29 NakashoNobuo 様、ありがとうございます。 1933年(昭和8年)の「昭和三陸大津波」は、賢治が亡くなる半年ほど前のことで、津波のあった3月にも、原稿を書いたり手紙のやりとりはかなり活発にしていますが、基本的には病床にあって外出できない状態だったため、賢治は津波の被害を実際に見たわけではないようです。 作品にも、津波を扱ったものはありません。 (ただこの津波の直後、弟の清六氏は、釜石に赴いて罹災者を見舞ったということを、「兄賢治の生涯」に書いています。もし賢治がこの時「丈夫ナカラダ」だったら、彼の性格からしても、一緒に行っていた可能性が高いのではないかと思います。) それにしても、賢治の生年の1896年に2万2千人もの犠牲者を出した「明治三陸大津波」があり、没年の1933年にまた「昭和三陸大津波」があったというのは、本当に不思議な暗合です。 「風の又三郎」が、9月1日=二百十日の「どうと吹く」風とともに皆の前に現れ、9月12日の再び「烈しい風」の日に去っていったことを、連想します。 返信
ばばば 2011年3月30日 21:28 岩手をはじめ津波の被害を受けたみなさまのことを思うと言葉もありません。 当方は福島の内陸で幸い被害が少なく、食器棚や本棚が倒れた程度で助かりました。(賢治作品の本棚は重いせいか倒れませんでした。) 今は原子力災害をいかにくいとめるかが課題です。 宮沢賢治が命をかけて普及につとめた石灰には放射性セシウムの作物への吸収を防ぐ効果があるかもしれないと話題になっています。 石灰が再び東北の農家を救ったら賢治先生も喜んでくれるかもしれません。 返信
hamagaki 2011年3月31日 02:20 ばばば さん、こんばんは。 今は、日本どころか、世界中の目が福島に注がれているところですが、大変な状況の中でコメントをいただきまして、ありがとうございます。 関西広域連合の役割分担では、京都府は福島県に支援・協力をする担当になっています。これも何かのご縁のようです。 ところで、石灰の散布によって、作物による放射性セシウムの吸収を低減できるかもしれないというお話、たいへんに興味深いです。 少し調べてみましたら、「チェルノブイリ事故における環境対応策とその修復」という資料に、「放射性セシウムや放射性ストロンチウムの植物への吸収を低下させるための土壌処理」として、「鋤きおこし、追いまき、窒素・燐酸・カリの施肥、石灰の散布」という方法が挙げられていました。(以下は上記資料からの引用) 鋤きおこしは、根が栄養を吸収する土地表層(地表)の放射性汚染を薄める役割をする。また表層を剥ぎ取りこれを埋める鋤きおこしも有効であった。 化学肥料の施肥は植物の成長を促進し、これにより植物内の放射能を薄める役目をする。また化学肥料は土壌水中の Cs-K 比を低め、したがって放射能の吸収を低下させる。 上記の処理方法をすべて行うことを根対策処理(Radical 処理)という。この根対策処理はチェルノブイリ事故で汚染された牧草地に最も効果的で実用的な対策であった。 土壌処理の効果は土壌の種類、栄養状態、pHおよび追い播きに用いる植物の種類によって異なる。更にNPK肥料および石灰の投与割合は放射能の吸収割合に影響を与える。 根対策処理は肥えていない砂質土では放射性セシウムの土壌-植物移行割合の減少率が2~4、有機質土壌で3~6という研究結果がある。 この資料を読むと、チェルノブイリ事故後のソ連では、実際に上の4つの方法が系統的に実施されて一定の効果を上げたようです。そしてこれ以後世界中のどこにも、他には対策の実績は存在しないわけです。 したがって、もしもこのたび日本で放射性セシウムで汚染されていると判断される農地が出てくれば、石灰の散布も行われるのでしょうね。 今はただ、放射性物質による被害が最小限に食い止められるように祈るばかりですが、かりに再び東北の農地に石灰の散布が大々的に行われることになれば、不思議な歴史の巡り合わせを感じざるをえません。 返信
こががっこ 2011年3月31日 22:24 宮沢賢治さんと災害との関連がこんなにも深いとは、実に驚きです。ぼくは賢治さんのメンタルスケッチを詳細に研究しようと思っています。賢治さんは自然との調和を求める気持ちと、自然への怒りのような感情が同居しているように、ぼくには思えます。そこを掘り下げて、賢治さんの修羅の部分を、もっと明るみに出せないかと考えています。たとえば災害への怒り、天災への憎しみ、そこから生み出されてくるヒューマニズムについて。 返信
hamagaki 2011年4月 1日 01:44 こががっこ様、コメントをありがとうございます。 「自然」という言葉は、今の私たちは英語の Nature の意味でごく普通に使っていますが、明治維新前後の日本には西洋の Nature に相当する単語は存在していなくて、それまではおもに「じねん」と読まれて「おのずから、あるがまま」という状態を表わしていた「自然」という語を、Nature の訳語に充てたのだそうです。 これはなかなか興味深いことで、つまり近世以前の日本には、「人間あるいは人工」対「自然」という二項を対立させて捉える視点は一般的ではなくて、「人間」というものも、今で言う「自然」の中に含まれる存在として捉えていたらしいんですね。 上にいただいたコメントで、こががっこ様のご指摘のような、「人間と自然を調和させる」とか、「人間が自然に怒りをいだく」というスタンスは、どちらかと言えば西洋的な、「人間と自然とを分けて考える」視点にもとづいていることになるわけです。 宮沢賢治は、おもに大正時代以降に活動しましたし、西洋の思想や自然科学も勉強していましたので、西洋的なものの見方も当然できたでしょうが、実際に作品に表れている彼の眼差しは、どんなものでしょうか。 いろいろな読み方、解釈の仕方がありうると思います。 たとえば私は、冷害や旱害に際して賢治が抱いたのは、「自然に対する怒りや憎しみ」というよりは、「自然も人間も含めた万象とともに悲しむ」(ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ…)というような感じだったのではないかと思ったりするのです。 あるいは、現代の「エコ」とか「自然環境保護」というのは、「人間と自然との調和」を目ざしているでしょうが、結局は長期的な人類の生存に都合がよいように、自然をコントロールするということです。 これに対して、賢治が人間と自然の間に想定していた関係は、たとえば「なめとこ山の熊」において最後は小十郎が熊に殺されてしまうように、人間だけに都合がよいものではありません。 賢治の考えていたことは奥深く、私にもまだまだよくわかりませんが、こががっこ様の研究が、実り多いものになるよう期待しています。 長文失礼しました。 返信
こががっこ 2011年4月11日 09:21 hamagaki さま 重要な視点をご指摘いただき感謝いたします。ぼくらの時代は、西洋的な自然観で思考することに馴れてしまっているため、つい見失いがちな観点であると思いました。これから原子力発電のことを中心に、環境と社会と人間の関係をどのような方向へ進めてゆくか、みんなが真剣に議論していかねばならない状況のなかで、宮沢賢治という人物の遺したものは、ほんとうに示唆に富んだアイデアをたくさん提供してくれるものと信じます。 大正時代は、日本古来の和の文化と近代化のはざまにゆれていて、もっともっと探究すべき課題やヒントが眠っているように思います。賢治さんの思考の跡を追うことで、それがより鮮明になってくる気がしています。テキストを何度も読んで、ぼくなりの発掘をして参ります。 返信
M 2011年4月14日 01:42 昭和8年の三陸沖地震と津波のあと、<弟の清六氏は釜石に赴いて罹災者を見舞った>を興味深く読みました。 昭和四年六月、祖父は下閉伊庁に勤務のため盛岡から釜石に赴任し、その一ヶ月後に高橋ミネと結婚しています。それから四年目のこと、祖父は<この大浪災に際して殆ど日夜不眠不休罹災民の救護災後の復旧復興に尽力したる労功至大なるものあり>として県庁の役人から釜石町助役に推薦されます。多分昭和六年に看護婦仲間との写真を残しているミネさんも、きっと看護婦としてこの災害に立ち向かって尽力されたのではないでしょうか。 祖父の遺品の「市制記念 釜石大観」には詳しい歴史がつづられ「貞観11年には陸奥国境、地大いに震ふ、激浪陸を浸し本郡内の死傷1万2千人の及ぶと伝えられ る」とあり、それ以降の大地震等も記載されています。歴史に学ぶ大切さをあらためて感じます。東北は私の両親の故郷でもあります。1日も早い復興を心から願わずにいられません。 返信
hamagaki 2011年4月14日 02:08 M さま、お久しぶりです。その後、日本は大変なことになってしまいましたが、そちらではお変わりなくお過ごしでしょうか。 さて、清六氏が昭和三陸大津波の直後に釜石に行き、罹災者を見舞ったという記述を見つけた時、私も伊藤(高橋)ミネさんと伊藤正さんのご夫妻のことを思い浮かべました。 お祖父さまが救援と復興に不眠不休の尽力をされたことは記録にあるとおりですし、そしてご指摘のとおり、ミネさんも指導的な立場にある看護婦として被災地で活躍されたに違いないと、私も思います。 ということは、罹災直後の慌ただしい釜石において、清六氏と伊藤夫妻は、ひょっとしたらニアミスしていたかもしれない、などという空想に思わずふけったりもしてしまいます・・・。 吉村昭氏の『三陸海岸大津波』(文春文庫)を読むと、当時の救援活動は、基本的には役所や警察・陸海軍によるものだったようです。 そのような中で、現代のボランティアのように、一般人である清六氏が直後に現地に入ったというのは、とても先進的な行動のようにも思えます。 私自身は、まだ現場に「行ッテ」何かできるような状況にはないのですが、1日も早くみんなが安心して生活できる環境になることを願いつつ、今度の日曜に京都で行うイベントの準備をしているところです。 返信
signaless
時間が経つほど次々と明らかになっていく被害状況に、TVの前で絶句しています。自分の無力を感じています。胸が痛いです。
阪神大震災の惨状を目の当たりにされた浜垣さんの心痛はなおのことと思います。
今日、隣市主催の講演会に行ったのですが、入り口に募金箱が設置されていてすでに沢山募金されていました。そして最初に全員で黙祷を捧げました。
少しでも自分にできることを考えたいと思います。
hamagaki
signaless さま、コメントをありがとうございます。
当初の予定では、この土曜の晩から日曜まで花巻に行こうと思っていたのですが、そんなことは土埃のように吹き飛んでしまいました。
岩手県、宮城県、福島県におられる知人の顔が、脳裏をよぎります。
阪神大震災の時は、同僚と交代で支援に行くこともできましたが、今はそういうこともできませんので、他の形で何とか微力を尽くすことはできないものかと悩んでいます。
まだ今のところは、心から祈るばかりです。
雨三郎
本震の揺れの強さと長さ、また余震の頻度や強さや継続性は、当方がこれまで全く経験したことがないものでした。自宅にほとんど被害がなかったのが、不思議なほどでした。電気が昨日、電話やインターネットが今日になってようやく通じるようになりました。それでも花巻など内陸部は、沿岸部に比べれば、まだまだましな方だったようです。沿岸部の津波の映像や被災された人々の姿には、ひたすら言葉を失うばかり。いったいこれをどう理解すればいいのかと、途方に暮れるような気持ちです。
hamagaki
雨三郎さま、たいへんな中でコメントをいただきましてありがとうございます。
インターネットがつながって間もなくに当サイトをご覧いただけたとは、勿体なくて涙が出ます。
11日以降この3日あまり、本当にご苦労の連続だったこととお察し申し上げますが、どうかご無理をなさらず、お身体を第一にして下さい。
こういう場合は、ちょっと一段落したところでそれまで貯まっていた疲れが出るものだとも聞きます。
あの美しいイーハトーブが、一日も早くまた活気と落ち着きを取り戻されるよう祈るとともに、私も何とかしてそのお力になりたいと思っています。
雨三郎
お気づかいいただき、ありがとうございます。被災地の惨状や被災された方々の姿を見る時、信心薄い当方の脳裏にも、「オホーツク挽歌」の中のどっしりと重い祈りの言葉「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」がよぎります。
hamagaki
雨三郎さま
お題目をサンスクリットに移すとしても、賢治によるこの訳は、文法的に誤りがあるという「専門家」の指摘を読んだことがあります。 それはともかく・・・
しかし私にとっては、それだからこそ、この言葉は既成の宗教を越えた「賢治独自の祈り」を象徴する声として、かえって心に響きつづけています。
実際に賢治は、1923年の夏にオホーツクの海岸で、この通りの言葉を口に出して祈ったはずですよね。
今この時にも、東日本の太平洋の海岸へと、この祈りを私もご一緒に捧げたいと思います。
ありがとうございました。
ナモサダルマプフンダリカサスートラ。
ナモサダルマプフンダリカサスートラ。
NakashoNobuo
賢治は津波の被害を実際に見たのですね。作品にその反映はないのでしょうか?
hamagaki
NakashoNobuo 様、ありがとうございます。
1933年(昭和8年)の「昭和三陸大津波」は、賢治が亡くなる半年ほど前のことで、津波のあった3月にも、原稿を書いたり手紙のやりとりはかなり活発にしていますが、基本的には病床にあって外出できない状態だったため、賢治は津波の被害を実際に見たわけではないようです。
作品にも、津波を扱ったものはありません。
(ただこの津波の直後、弟の清六氏は、釜石に赴いて罹災者を見舞ったということを、「兄賢治の生涯」に書いています。もし賢治がこの時「丈夫ナカラダ」だったら、彼の性格からしても、一緒に行っていた可能性が高いのではないかと思います。)
それにしても、賢治の生年の1896年に2万2千人もの犠牲者を出した「明治三陸大津波」があり、没年の1933年にまた「昭和三陸大津波」があったというのは、本当に不思議な暗合です。
「風の又三郎」が、9月1日=二百十日の「どうと吹く」風とともに皆の前に現れ、9月12日の再び「烈しい風」の日に去っていったことを、連想します。
ばばば
岩手をはじめ津波の被害を受けたみなさまのことを思うと言葉もありません。
当方は福島の内陸で幸い被害が少なく、食器棚や本棚が倒れた程度で助かりました。(賢治作品の本棚は重いせいか倒れませんでした。)
今は原子力災害をいかにくいとめるかが課題です。
宮沢賢治が命をかけて普及につとめた石灰には放射性セシウムの作物への吸収を防ぐ効果があるかもしれないと話題になっています。
石灰が再び東北の農家を救ったら賢治先生も喜んでくれるかもしれません。
hamagaki
ばばば さん、こんばんは。
今は、日本どころか、世界中の目が福島に注がれているところですが、大変な状況の中でコメントをいただきまして、ありがとうございます。
関西広域連合の役割分担では、京都府は福島県に支援・協力をする担当になっています。これも何かのご縁のようです。
ところで、石灰の散布によって、作物による放射性セシウムの吸収を低減できるかもしれないというお話、たいへんに興味深いです。
少し調べてみましたら、「チェルノブイリ事故における環境対応策とその修復」という資料に、「放射性セシウムや放射性ストロンチウムの植物への吸収を低下させるための土壌処理」として、「鋤きおこし、追いまき、窒素・燐酸・カリの施肥、石灰の散布」という方法が挙げられていました。(以下は上記資料からの引用)
この資料を読むと、チェルノブイリ事故後のソ連では、実際に上の4つの方法が系統的に実施されて一定の効果を上げたようです。そしてこれ以後世界中のどこにも、他には対策の実績は存在しないわけです。
したがって、もしもこのたび日本で放射性セシウムで汚染されていると判断される農地が出てくれば、石灰の散布も行われるのでしょうね。
今はただ、放射性物質による被害が最小限に食い止められるように祈るばかりですが、かりに再び東北の農地に石灰の散布が大々的に行われることになれば、不思議な歴史の巡り合わせを感じざるをえません。
こががっこ
宮沢賢治さんと災害との関連がこんなにも深いとは、実に驚きです。ぼくは賢治さんのメンタルスケッチを詳細に研究しようと思っています。賢治さんは自然との調和を求める気持ちと、自然への怒りのような感情が同居しているように、ぼくには思えます。そこを掘り下げて、賢治さんの修羅の部分を、もっと明るみに出せないかと考えています。たとえば災害への怒り、天災への憎しみ、そこから生み出されてくるヒューマニズムについて。
hamagaki
こががっこ様、コメントをありがとうございます。
「自然」という言葉は、今の私たちは英語の Nature の意味でごく普通に使っていますが、明治維新前後の日本には西洋の Nature に相当する単語は存在していなくて、それまではおもに「じねん」と読まれて「おのずから、あるがまま」という状態を表わしていた「自然」という語を、Nature の訳語に充てたのだそうです。
これはなかなか興味深いことで、つまり近世以前の日本には、「人間あるいは人工」対「自然」という二項を対立させて捉える視点は一般的ではなくて、「人間」というものも、今で言う「自然」の中に含まれる存在として捉えていたらしいんですね。
上にいただいたコメントで、こががっこ様のご指摘のような、「人間と自然を調和させる」とか、「人間が自然に怒りをいだく」というスタンスは、どちらかと言えば西洋的な、「人間と自然とを分けて考える」視点にもとづいていることになるわけです。
宮沢賢治は、おもに大正時代以降に活動しましたし、西洋の思想や自然科学も勉強していましたので、西洋的なものの見方も当然できたでしょうが、実際に作品に表れている彼の眼差しは、どんなものでしょうか。
いろいろな読み方、解釈の仕方がありうると思います。
たとえば私は、冷害や旱害に際して賢治が抱いたのは、「自然に対する怒りや憎しみ」というよりは、「自然も人間も含めた万象とともに悲しむ」(ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ…)というような感じだったのではないかと思ったりするのです。
あるいは、現代の「エコ」とか「自然環境保護」というのは、「人間と自然との調和」を目ざしているでしょうが、結局は長期的な人類の生存に都合がよいように、自然をコントロールするということです。
これに対して、賢治が人間と自然の間に想定していた関係は、たとえば「なめとこ山の熊」において最後は小十郎が熊に殺されてしまうように、人間だけに都合がよいものではありません。
賢治の考えていたことは奥深く、私にもまだまだよくわかりませんが、こががっこ様の研究が、実り多いものになるよう期待しています。
長文失礼しました。
こががっこ
hamagaki さま
重要な視点をご指摘いただき感謝いたします。ぼくらの時代は、西洋的な自然観で思考することに馴れてしまっているため、つい見失いがちな観点であると思いました。これから原子力発電のことを中心に、環境と社会と人間の関係をどのような方向へ進めてゆくか、みんなが真剣に議論していかねばならない状況のなかで、宮沢賢治という人物の遺したものは、ほんとうに示唆に富んだアイデアをたくさん提供してくれるものと信じます。
大正時代は、日本古来の和の文化と近代化のはざまにゆれていて、もっともっと探究すべき課題やヒントが眠っているように思います。賢治さんの思考の跡を追うことで、それがより鮮明になってくる気がしています。テキストを何度も読んで、ぼくなりの発掘をして参ります。
M
昭和8年の三陸沖地震と津波のあと、<弟の清六氏は釜石に赴いて罹災者を見舞った>を興味深く読みました。
昭和四年六月、祖父は下閉伊庁に勤務のため盛岡から釜石に赴任し、その一ヶ月後に高橋ミネと結婚しています。それから四年目のこと、祖父は<この大浪災に際して殆ど日夜不眠不休罹災民の救護災後の復旧復興に尽力したる労功至大なるものあり>として県庁の役人から釜石町助役に推薦されます。多分昭和六年に看護婦仲間との写真を残しているミネさんも、きっと看護婦としてこの災害に立ち向かって尽力されたのではないでしょうか。
祖父の遺品の「市制記念 釜石大観」には詳しい歴史がつづられ「貞観11年には陸奥国境、地大いに震ふ、激浪陸を浸し本郡内の死傷1万2千人の及ぶと伝えられ
る」とあり、それ以降の大地震等も記載されています。歴史に学ぶ大切さをあらためて感じます。東北は私の両親の故郷でもあります。1日も早い復興を心から願わずにいられません。
hamagaki
M さま、お久しぶりです。その後、日本は大変なことになってしまいましたが、そちらではお変わりなくお過ごしでしょうか。
さて、清六氏が昭和三陸大津波の直後に釜石に行き、罹災者を見舞ったという記述を見つけた時、私も伊藤(高橋)ミネさんと伊藤正さんのご夫妻のことを思い浮かべました。
お祖父さまが救援と復興に不眠不休の尽力をされたことは記録にあるとおりですし、そしてご指摘のとおり、ミネさんも指導的な立場にある看護婦として被災地で活躍されたに違いないと、私も思います。
ということは、罹災直後の慌ただしい釜石において、清六氏と伊藤夫妻は、ひょっとしたらニアミスしていたかもしれない、などという空想に思わずふけったりもしてしまいます・・・。
吉村昭氏の『三陸海岸大津波』(文春文庫)を読むと、当時の救援活動は、基本的には役所や警察・陸海軍によるものだったようです。
そのような中で、現代のボランティアのように、一般人である清六氏が直後に現地に入ったというのは、とても先進的な行動のようにも思えます。
私自身は、まだ現場に「行ッテ」何かできるような状況にはないのですが、1日も早くみんなが安心して生活できる環境になることを願いつつ、今度の日曜に京都で行うイベントの準備をしているところです。