『【新】校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)の「年譜篇」p.108には、1916年(大正5年)の盛岡高等農林学校の修学旅行において、賢治ら一行は、奈良の「対山館」という宿舎に泊まったと書かれています(右引用4行目)。
この記載の根拠は、同校「校友会報」に掲載された「農学科第二学年修学旅行記」の3月24日分として、同級生の菅原俊男が執筆した文章によっていると思われ、そちらの方には、「夕方で随分寒かつたので、一同急いて対山館に着いた。時に午后六時過ぎ。」と書かれています(『【新】校本全集第十四巻「校異篇」p.20)。
そこで、「対山館」という旅館が奈良のどこにあったのだろうかと、少し調べたりしていたのですが、現存していないのはもちろんのこと、過去の記録にも、そのような名前の宿屋を見つけることはできずにいました。賢治が、たそがれに「銀鼠」色の空を見たのは、奈良のどのあたりからだったのだろうかということが、心に引っかかったままになっていたのです。
そうしたところ、1913年(大正2年)に発行された『帝国旅館全集』という、当時の全国の旅館のリストのような本をたまたま国会図書館で調べてみましたら、この旅館の名前は「対山館」ではなくて、「対山楼」だったのではないかと思われました。
下のコピーは、上記の本の「奈良市」の部分で、p.144とp.145の2ページにわたっているところを、縦につないで表示しています。
ご覧のように、奈良市内で36軒の旅館(ホテル)が収録されていますが、この中に「対山館」という旅館はありません。そのかわり、2段目の右から4つめに、「對山樓」という名前が見えます。これは、賢治たちが宿泊する3年前のリストではありますが、常識的な解釈としては、実際には旅館の名前は「對山樓」であったが、菅原俊男氏の記憶の中で、「對山館」になってしまったと考えるのが、妥当ではないでしょうか。
よく似た例としては、賢治が1921年(大正10年)に父親と関西旅行をした際に、京都で泊まった旅館の名前が、「年譜篇」では「布袋屋」と書かれているのが、現実の旅館は「布袋館」であったということがありました(「京都における賢治の宿(1)」参照)。
さて、そこで賢治が奈良で泊まった旅館が「対山楼」(以後、便宜上新字体表記を用います)だったとすれば、実はこの旅館は、明治以来数多くの政府要人や文人などが宿泊している、格式ある「老舗旅館」だったのです。奈良県立図書館がこちらのページで公開している「奈良名勝旅客便覧」という絵図(明治40)でも、拡大すると図の左の方に「旅館 對山樓」が見えます。
こちらのブログ記事を参照すると、「対山楼」と命名したのは山岡鉄舟で、他に伊藤博文、山県有朋、滝廉太郎、岡倉天心、フェノロサなど、錚々たる顔ぶれの人が宿泊しているそうです。
その中でも、この旅館にちなんだ俳句も詠んでいたことから、近年注目されているのが、正岡子規です。
正岡子規は、日清戦争に新聞記者として従軍中に喀血して、帰国後神戸で静養した後、1895年(明治28年)に、この対山楼に宿泊したということです。たまたま旅館で柿を食べたところその美味に感激し、「秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味」との句を詠み、さらにこの時の柿の味が余韻となって、3日後に法隆寺を訪ねた際、有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」に結実したとも言われています。また、対山楼が東大寺大仏殿の近くにあるところから、「大仏の足もとに寝る夜寒かな」の句も作っています。
さて、この対山楼は、昭和38年までは旅館として営業していたということですが、その後廃業し、現在その場所には、「天平倶楽部」という大きな和食レストランが建っています。そして驚くべきことに、このレストランの裏手に広がる庭園が、正岡子規の孫にあたる造園家の正岡明氏によって「子規の庭」として整備され、2006年10月には子規の句碑も建てられたというではありませんか(「子規の庭」サイト参照)。
これは、一度行ってみなければということで、本日そのレストランと庭を訪ねてきました。
京都駅から近鉄奈良線に乗って、終点の「近鉄奈良」で降りると、「天平倶楽部」までは歩いて20分ほどです。東大寺の「転害門」の少し手前あたりに、広々とした駐車場を備えたレストランが現れます。
奥に見える建物が現在のレストランですが、お女将さんに尋ねたところでは、手前の駐車場も含めた敷地全体が、ほぼもとの「対山楼」だったということです。これなら修学旅行生を泊めても余裕の広さですね。
そして今日は、「銀鼠」の空ではなくて、ご覧のような快晴です。
建物の向かって右手の方に、「子規の庭」への入口があります。入口の門には、「御見学の皆様へ」という札かけられていて、「出入り口より鹿が侵入いたしますので御面倒ですが必ず扉は閉めて頂き、カギをお掛け頂きます様お願い致します」との注意があるのが、いかにも奈良らしい感じです。
途中には、「子規と奈良」という説明板があって、『ホトトギス』に子規が対山楼の「柿」のことを書いた文章も詳しく引用されています(下の画像をクリックすると拡大表示されます)。
そして、通路を通ってレストランの裏手に出るとかなり広々とした庭園になっていて、この「子規の庭」に建てられている正岡子規の句碑は、下の写真のとおりです。
句は、「秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味」。後ろに見えるのは、東大寺大仏殿の屋根で、左上に少し見える柿の実は、対山楼時代からこの場所に残されている柿の木になっているもので、この木は奈良市の「保存樹」にも指定されているということです。
ところでこの庭の一角に、昔この場所で若き日の宮澤賢治が詠んだ短歌の歌碑も建ったら・・・、と思うのは、一部の賢治ファンだけでしょうか・・・。
たそがれの
奈良の宿屋ののきちかく
せまりきたれる銀鼠ぞら。
下写真は、東大寺の境内で日なたぼっこをしていた鹿たちです。
雲
子規の庭や資料も、ご用意されてたんですね。
あっぱれです。
ゆっくり、写真など、見せていただきました。
ありがとうございました。
どこへでも、どんどん、つながって、飛んでいくような感じがするので、とうてい、ひとりでは、でききれないと、思ってしまいます。
HAMAGAKIさん、体に気をつけて、地道に、頑張ってくださいね。
雲
二条城には、わたしも、連れられて、行ったことがあります。
檸檬忌といっしょの日だと、思っては時間が前後するのでしょうか。
インターネットは、なんだか、疲れますね。
おやすみなさい。
三河人
はじめまして。昔のおぼろげな記憶と「対山荘」について。
私は今年古稀を迎えます。丁度50年前、20才を迎えようとしている頃、奈良県の観光課主催の3泊4日研修セミナーに参加しました。参加者は学校の先生方が多かったように記憶しています。
この時の宿泊が「対山荘」だったと記憶しています。(翌年このセミナーに参加した弟も「対山荘」と記憶しているようです。)この「対山荘」が「対山楼」と関係があるのか、賢治さんが宿泊した「対山館」との関係は解りません。
その後、私も「対山荘」を探して今小路界隈を歩きました。私が奈良に住むようになったのも50年前の「対山荘」と、この時のセミナーで訪れた寺々と講師の先生方から強烈な奈良を印象付けられました。
もともと「かどや」という旅館を「対山楼」と名付けたのは山岡鐵舟とのことで「対山楼宿止人名控帳」に宿泊人の記録があるそうです。
現在「奈良県立図書情報館」館長の千田稔先生の文章で上記の宿帳の存在を知りました。
昭和18年7月15日初版発行の「奈良百題」、著者「高田十郎」の311~314頁、「奈良の対山楼」(昭和18年五月29日)という文章のあることも最近知りました。
対山楼と対山館の関係は解りませんが、対山楼が昭和38年に廃業するまで何年かの間、郵政省の宿泊施設として利用されていた時期に「対山荘」という名称になっていた。私が泊まったのはこの時期だった。つまり、私は対山楼の最末期にお世話になったと勝手に思い込んでいます。
三河人
昨日の投稿の続きです。
大正五年の修学旅行とのこと、当時JRの前身の鉄道も奈良ー湊町、奈良ー京都も開通しており、近鉄の前身の鉄道も奈良ー上本町も開業していましたので、すでに修学旅行があったのですね。
対山館は対山楼に間違いないのではないでしょうか。宿帳には宮沢賢治さんの名前は出ないかもしれませんが、「盛岡高等農林学校ご一同様」で探せば可能性あるように思います。
「天平」というレストランはそれまでも何度か利用もし、「対山荘」のことを尋ねましたが確認できませんでした。たぶん、その後隣地を買い増しした時に「子規の庭」の整備・新設の話が具体化したものと想像します。
近鉄奈良駅の東口を出た所に行基さんの噴水広場があります。このスペースの南側隅に「雨にも負けず」の句碑があります。なぜここにあるのか私は知りませんが、この句碑の存在を知っている人も少ないと思います。
雲
奈良に、賢治の句碑があり、良かったですね。HAMAGAKIさん。
賢治の面白さは、連鎖していくところとか、調べていっても、裏切られないところのように、思います。
(本題から、ずれてるかもしれませんが。)
三河人さんのコメント、面白かったです。
hamagaki
>三河人 様
はじめまして。貴重なコメントをお寄せいただきまして、ありがとうございます。ある時期に、「対山楼」が「対山荘」に変わっていた可能性があるということですね。実際に泊まられた経験に基づいたお話は、何ものにも代えがたい感があります。私自身も、「対山楼」と「対山荘」の関係について今後は心にとめておき、微力ながら調べてみたいと思います。
また、「対山楼宿止人名控帳」や「奈良百題」についても、ご教示いただきましてありがとうございました。
近鉄奈良駅東口の「雨にもまけず」詩碑は、私も以前に訪れて、「石碑の部屋」のこちらのページでご紹介させていただきました。近年は、徐々に傷んでいっているように見えるのがちょっと気がかりですね。
吉田精美編著『新訂/全国版 宮沢賢治の碑』という本によれば、この詩碑は辻山清という岩手県水沢市出身の方が、「望郷の思いやみがたく」建碑されたということです。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
>雲 様
「連鎖」していくのは、コメントをお寄せいただく皆様のおかげです。いつもありがとうございます。
雲
いいえ。
楽しいです。
お体に気をつけて、これからも、お願いします。
三河人
三河人です。
宮沢賢治さんについて何も知らない私の投稿にコメント頂き恐縮です。賢治さんが2度奈良を訪れ、奈良で歌を詠まれていたことをはじめて知りました。
先月12月に奈良大学の「奈良文化論」という講座で<老農中村直三の農事改良事業>という講義を聴講しました。講師は学長の鎌田道隆先生でした。
「明治三老農」の一人、と言われても初めて耳にする言葉でした。しかし鎌田先生のお話で、幕末から明治にかけての農事研究家のわが国の国力発展・高揚に対する努力と貢献の偉大さを知りました。
盛岡高等農林学校の皆さんが桃山の農事試験場と奈良の農事試験場を見学したのは、上記の老農たちの農事改良の啓蒙努力と関係があるのかしらと、素人の私が勝手に妄想しました。
なお、中村直三の功労を称え「中村直三農功碑」が登大路に建てられています。レストラン「天平」の前のバス道を南へ、大きな交差点の手前東側(昔の雲井坂あたり)。なぜか対山楼に近い所。
余計なことを書きましたが、鎌田先生の講義とこのブログで出会った宮沢賢治さんが、私の頭の中では重なってしまい、でもここに書かせてもらいスッキリしました。
おやすみなさい。
雲
貴重なお話、ありがとうございます。
妄想で、終わるようで、終わらないことが多い、賢治さんだから、わかりません。
寮美千子
はじめまして。寮美千子と申します。
首都圏で生まれ育ちましたが、いつか地方都市で暮らしたい、
という夢を叶えて、一昨年、奈良に転居しました。
実は転居先の候補地には盛岡もありました。
わたしは現在、作家をしていますが、そのきっかけは宮沢賢治。
そこで、花巻ならぬ盛岡を考えたのですが、
冬があまりに寒そうで断念、奈良に来ました。
奈良も、賢治と無縁の町ではなかったんですね。
近鉄駅前で「雨ニモ負ケズ」の詩碑を見たときは、
どきっとしました。
天平倶楽部にも賢治の詩碑ができたら、
どんなにうれしいでしょう。
奈良に転居したとき、
奈良の知人が歓迎の宴を開いてくれましたが、
それが天平倶楽部でした。
不思議なご縁に、うれしくなります。
対山館のこと、詳しく調べてくださって、
ほんとうにありがとうございます。
賢治の蔵書目録のなかに、祖父が手がけた本があったことを
きっかけに大正末期の科学について調べ拙い論文を書きました。
よかったら、ご覧になって下さい。
http://ryomichico.net/sakichi/
雲
はじめまして。
寮美千子先生のお名前は、絵本で、見たことがあります。
賢治の研究もなさってらっしゃるのかと、資料をながめておりました。
雲の上の、お話のようでした。
でも、不思議なご縁が、おありだったのですね。
不思議な連鎖ですね。
いじめだとイヤですが、優しさも連鎖するから、こっちが良いです。
hamagaki
寮美千子様、コメントをありがとうございます。
奈良にお住まいだったのですね。
寮様のご本では、「泉鏡花賞」受賞の『楽園の鳥 カルカッタ幻想曲』を愛蔵しております。私にはそれまで想像もつかなかった奥深い世界の旅に、感動いたしました。
また、寮様のサイト「ハルモニア」も、以前からたびたび拝見させていただいております。賢治と相対性理論との出会い、そこにおいて『通俗電子及び量子論講話』という本の果たした役割について書かれた論文も、以前に拝読させていただいていました。寮様のお祖父様の翻訳されたこの本を読んでみたくて、私は国会図書館で探したことがありましたが、あの図書館では珍しいことに、確かに蔵書目録にはあるのに、「行方不明」と言われてしまいました。
実は、私も寮様の次の年に「宮沢賢治研究発表会」で発表をしたことがありました。こちらがその時の内容ですが、中で『通俗電子及び量子論講話』にも少しだけ触れています。上記のような事情で、発表前にこの本そのものを読むことはできなかったので、寮様が「宮澤賢治「四次元幻想」の源泉を探る書誌的考察」においてかなり詳細に引用しておられる本の内容を参考にさせていただいたことを、今さらながら告白させていただきます。
このたびは、拙サイトをご訪問いただきまして、本当にありがとうございました。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
寮美千子
▼雲さま
絵本を見てくださったんですね。ありがとうございます。
>優しさも連鎖するから、こっちがよいです。
ほんとうにそうですね。
優しさが優しさを呼ぶ。そんな世界を作りたいものです。
▼hamagakiさま
ご論文、後でじっくり読ませていただきます。
わたしの論文など、素人で恥ずかしいくらいです。
『通俗電子及び量子論講話』は国会図書館では行方不明なのです。
目録にあるのに、見ることはできません。
事情通の方にお伺いしたら、時々そのようなことがあるそうです。
稀覯本ほど、紛失することがあると聞きました。困ったことです。
わたしも、大阪の中之島の図書館から、わざわざコピーを取り寄せました。
hamagakiさんのサイト、
実はわたしも以前からずいぶん参考にさせていただいています。
賢治関係で検索をすると、必ず上がってきます。
しっかり調べられていらっしゃるので、とても勉強になります。
頭の下がる思いです。
こんなしっかりしたサイトをつくってくださって、
ありがとうございます。
『楽園の鳥』お読みになっていただいたとのこと。
ディープな旅におつきあいいただいて、恐縮です。
もっとライトな作品もあります。
連載中の「夢見る水の王国」は、
わたしにとっての幻想四次元の旅の物語。
単行本にまとまりましたら、読んでいただけるとうれしいです。
いつかお目にかかれる日の来ることを夢みて。
では!
雲
お返事ありがとうございます。
とても、うれしいです。
寮美千子
時が巡り、またここに戻って参りました。
きょう、漆の師匠に歌碑の件、相談にしたところ
「そういうええ話なら、コネなど使わんで
正面突破したらええわ」と励まされました。
この日記のコピーとともにお手紙を書き、
近いうちに「天平倶楽部」に突撃して参ります。
ああ、われら夢を果たせるや?
4月にお目にかかりましょう!
hamagaki
寮美千子さま、その後の思わぬ展開を経て、再びこの場所への書き込みをいただきまして、ありがとうございます。
お忙しい中、いろいろと動いていただきましたことに、心より感謝申し上げます。
ここで最初にお会いしてから、3年と少しですね。
その後、私の方は寮さんのご本もさらに何冊か拝読し、ツイッターでは本当にお世話になっています。
考えてみると、まだ一度も直接にはお会いしていないのが不思議な感じですが、当方は一足お先に、先日の Ust の奈良県知事選候補者インタビューで、楽しく動画を拝見・拝聴させていただきました。
まさに「突撃」という感じの鋭い切り込みが、見ていて痛快でした(笑)。
さて今度は、われらが目ざす本丸「天平倶楽部」への突撃ですが、ご一緒できないのは残念かつ申しわけありません。
でも京都から、「われらの夢」のために、心よりの援護射撃を送り続けます。
4月を、楽しみにしています。
寮美千子
昨晩は天平倶楽部のご主人宛の手紙を書きました。
あちらがお許しくだされば、
石工の左野さんのところへは、
師匠が同行してくれると約束してくださいました。
土日はレストランも忙しいでしょうから、
週があけての突撃です。
hamagakiさんとsignarlessさんとわたしの三銃士ですね。
それともドンキホーテが3人、束でかかってる?
それもまた、ある意味力強い。
ところで、賢治の「銀鼠」の短歌、
歌碑に賢治の自筆の文字で彫れるかな、
なんて、デザインまで妄想が膨らんでいます。
よろしくお願いします。
signaless
あまりの展開の早さと凄さに、目を白黒させています。
でも物事はこうやって動いていくのですね。
賢治の自筆稿の件は、hamagakiさんの出番、林風舎さんに突撃!!?
…え、私?
私はかけ声担当。
「それいけ~」
hamagaki
本当に超高速の展開!
これも寮さんのパワーのなせるワザですね。
賢治による短歌の自筆稿としては、「歌稿〔B〕」と呼ばれているものがあります。
そして賢治の全ての草稿と、それを高精細デジタル化してCDに焼いたものは、花巻の「宮沢賢治記念館」に保存されていますので、現実化するとなれば記念館にお願いしてみる必要があるでしょうね。
・・・て、ほんとにどんどん夢が膨らんでいきますね・・・。