『宮澤賢治イーハトヴ学事典』あるいは賢治データベース

 天沢退二郎他編『宮澤賢治イーハトヴ学事典』(弘文堂)が、ついに刊行されました。

宮澤賢治イーハトヴ学事典 宮澤賢治イーハトヴ学事典
天沢 退二郎 他 (編)
弘文堂 2010-11-30
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 150名もの研究者による、賢治世界の隅々まで至る詳しい解説、美しい装丁、松井なつ代氏による控えめながら不思議で魅力的なイラストなど、手もとにあるだけで嬉しくなるような本です。

 ところで、従来の代表的な賢治関係の辞典・事典としては、原子朗著『新・宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍, 1999)がありました。

新・宮沢賢治語彙辞典 新・宮沢賢治語彙辞典
原 子朗 (著)
東京書籍 1999-07
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 原子朗氏という一人の研究者が全てに責任を負う一貫した記述は、賢治の作品を読んでいて何か疑問が湧いた時にまず参照してみる拠り所として、長らく定評がありました。「語彙辞典」という名称が示すように、賢治の作品等に出てくる5000項目もの「ことば」を、辞書的に説明してくれている本です。
 これは現在は絶版になっていますが、来年には改訂された『定本・宮澤賢治語彙辞典』が出る予定ということで、これも楽しみです。(懐は大変ですが・・・。)

 さらに賢治の事典としては、渡部芳紀編『宮沢賢治大事典』(勉誠出版, 2007)もあります。

宮沢賢治大事典 宮沢賢治大事典
渡部 芳紀
勉誠出版 2007-07
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 こちらは、全体が大きく「第一部 作品篇」と「第二部 一般項目篇」に分かれていて、86名の研究者が分担執筆しています。上の『語彙辞典』に比べると、項目数は少なく、個々の記述は長く、やや大項目主義的と言えるでしょうか。
 編集者は記述内容には介入せず、自ら「各項目はそれぞれの執筆者の文責になる」と断っていることから示唆されるように、全体的な統一性はさほど意識されていません。「作品篇」にそれぞれ【参考文献】が挙げられている点は、より深く調べたい際には便利です。

 あと、賢治に関する「キー・ワード」をいろいろと選び出して解説を付けた本としては、

宮沢賢治キーワード図鑑 (コロナ・ブックス) 宮沢賢治キーワード図鑑 (コロナ・ブックス)
平凡社 1996-07
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とか、

宮沢賢治ハンドブック (Literature handbook) 宮沢賢治ハンドブック (Literature handbook)
天沢 退二郎
新書館 1996-06
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などもあります。
 これらも、よりコンパクトなものではありますが、大項目主義的な「事典」の一種と言えるでしょう。

 それにしても、一人の人間に関してこれだけ多種類の「辞典」「事典」が企画され出版されるというのは、こんなことは実に稀です。
 このような「現象」の原因として考えられることの一つには、

(1) 賢治ファンの数は非常に多いので、企画に見合う需要がある

という現実的なこともあるでしょう。ただし、今回の本も含めて上の3つの事典・辞典はいずれもかなり高価で、そんなにどんどん売れるものではないでしょうから、商業的に採算がとれるのかはわかりませんが・・・。
 もう少し賢治作品の中身と関係した理由として考えられるのは、

(2) 賢治の作品に出てくる語彙は難解で、辞典の一つもほしくなる

ということで、これは私も含めて多くの賢治ファンの、偽らざる実感ではないでしょうか。自然科学、宗教、思想、種々の芸術分野に関する賢治の造詣は深く、彼はまさに多面的な人でした。各分野の専門用語は、何気なく作品中にも登場するので、読んでいてわからない言葉が出てくるのはしょっちゅうです。そんな時に、辞典・事典があれば非常に重宝するというわけですね。

 さて、以上の2つは常識的に考えていかにもありそうな理由ですが、私としてはもう一つ、賢治作品の受容のされ方に、他の多くの作家とは異なったところがあるのではないかということを感じています。
 それは、

(3) 賢治世界は人々によって、「データベース的受容」(東浩紀)をされている

のではないか、ということです。 
 東浩紀氏が、文化受容の様態の一つを表す言葉として使いはじめたこの「データベース的」という語に関しては、少し説明をしておく必要があるでしょう。

◇          ◇

 東浩紀氏は、著書『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)において、近代までの文化がその背景に「大きな物語」を潜在させていたのに対して、ポストモダンにおいては「大きな物語」が凋落し(リオタール)、それに代わって「データベース的受容」がなされるようになったと主張しました。「大きな物語」とは、例えば「皇国史観」であったり、「科学の進歩が幸福な未来を約束する」という素朴な信念であったり、共産主義社会への期待であったり、または「エコロジカルな生活文化が地球を救う」という考えであったりしたでしょう。しかし現代は、これら何か一つの価値観を、一つの国の国民が全体で共有することは、不可能な時代になっています。
 このような時代と平行するように、人々による文化の受容のされ方も変化したというのが東氏の論旨です。
 下の図は、深層に「大きな物語」が想定されていた「近代の世界像」の、東氏によるシェーマです。(東浩紀著『動物化するポストモダン』p.51より)

近代の世界像

 近代においては、個々の「小さな物語」の背後には、何らかの思想・人生観・価値観等の「大きな物語」が想定されていたというわけです。個々の作品を享受することは、その物語を通して「作者は何を言わんとしているのか」ということを考え、解釈することだったとも言えます。読者の側が作品に対して受身の立場から解釈を行うわけで、上図の「私は物語を通して決定される」というのは、そのことの表現でしょう。
 例えば、夏目漱石でも、志賀直哉でも、武者小路実篤でも、小林多喜二でも、三島由紀夫でも、そして現代では大江健三郎でも、読者は作品の背景にそのような「大きな物語」を想定しつつ読むことが可能ですし、また一般にはそのようにして読まれてきたと思います。
 そして実は宮澤賢治も、長らくその背景に、「大きな物語」を背負わされてきました。戦前には、清貧の生活をしつつ農民のために献身した「賢者の文学」として、そして戦後になると、ある時は「反戦主義」の文学として、あるいは「自然との共生を謳ったエコロジー思想の先駆」として、また理想の教育のモデルとして、時には菜食主義の唱道者として・・・。

 しかし、そのような賢治受容のあり方に、一種の変化が起こってきます。それは、いつ起こったと特定できるようなものではなく、一つの「脱物語化」がなされ、また別の物語が提出され・・・というプロセスをなすものでした。賢治が何らかの「物語」に組み込まれようとする動きに対して、またそれを批判する言説が登場するという経過が見られるのです。
 戦後まもなくに佐藤勝治氏が『宮沢賢治批判』を出して、賢治の思想には社会変革の視点がないと批判したり、中村稔氏が「雨ニモマケズ」を「宮沢賢治のあらゆる作品の中でもっとも、とるにたらぬ作品のひとつであろうと思われる」と書いて「雨ニモマケズ論争」が起こったり、矢幡洋氏が『賢治の心理学 献身という病理』において、賢治の「献身」を病理的と指摘したり、押野武志氏が『宮沢賢治の美学』において、賢治とファシズムの通底可能性について分析したり、ひいては吉田司氏が『宮沢賢治殺人事件』において、身も蓋もないほどの賢治批判を展開したり・・・。
 それらは、賢治に対する反感に基づいていたり、あるいは逆に賢治への深い共感に基づいていたりしましたが、結果としてこれらは、宮澤賢治という人物に後から被せられていた「神話」を剥ぎ取り、あるいはその作品の背後に何か自分に都合のよい「物語」を読みとって、その思想の「御旗」として賢治を担ぎ上げるというようなことを、難しくさせてくれたという効用がありました。

 もちろん、生前の賢治自身は、「法華経」という「大きな物語」を終生深く信じ、「宗教と科学の統合」というようなことも夢想していました。国柱会に赴いた時期には、「法華文学の創作」を志していたこともあったかもしれませんが、現実に彼が残した作品世界を見ると、それを何か一貫した特定の思想なり価値観によって説明することは困難です。
 賢治自身も、書いていますよね。

 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしにはそのみわけがよくつきません。なんのことだかわけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです(『注文の多い料理店』序より)。

 私たちが生きているこの世界が、「わけがわからない」ことだらけで、矛盾や理不尽がいっぱいあるように、賢治の作品「世界」もまさにそうなのだと思います。それでも私たちは、この世界を素晴らしいと思うのと同じように、あるいはその素晴らしさがさらに濃縮されて詰まっているものとして、賢治の世界を受けとめているのではないでしょうか。
 その賢治の「世界」の名前こそ、彼自身が名付けた「イーハトヴ」なのです。今回出版された辞典が「イーハトヴ学事典」と名付けられているところは、その意味でまさに象徴的だと思います。

 というような感じで、私は全体としての賢治の作品世界を、賢治個人の伝記的事項からも相対的に離れ、特定の思想や宗教や価値観やなどの「大きな物語」を超越した「世界のようなもの」と感じるのですが、このような様態で作品を享受することを、東浩紀氏は「データベース的」と呼んでいるのです。
 下の図は、「大きな物語」を欠いた「ポストモダンの世界像」の、東浩紀氏によるシェーマです。(東浩紀著『動物化するポストモダン』p.51より)

ポストモダンの世界像

 賢治の世界をとらえるのに「データベース」などという言葉を使うと、何か違和感があるかもしれませんが、私にとっては、何種類も刊行されている賢治に関する事典・辞典の存在そのものが、文字どおりデータベースを体現するものように思えます。
 『イーハトヴ学事典』の「序」に、

執筆者の異なる項目間の、矛盾や、意見の相違などには、編集委員が介入して調整するということは必ずしも行っていないので、読者・研究者のみなさんには、各項目の末尾に記された【関連項目】をぜひ御併読下さるようお願いしておく。

と断り書きがあることも、強いて首尾一貫性を追求しようとしないその「データベース的性格」を、端的に示してくれているのではないでしょうか。
 また、言葉そのままに『データベース宮沢賢治の世界』という本もあったりします。

データベース宮沢賢治の世界―魅せられし人々の軌跡 (1999年版) データベース宮沢賢治の世界―魅せられし人々の軌跡 (1999年版)
中西 敏夫
出版文化研究会 1999-10
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 さらに東浩紀氏は、ポストモダンにおける文化受容のあり方を最も尖端的に示す領域として、「オタク文化」を取り上げています。そこでは、オリジナルな作品の「世界」を共有する様々なバリエーション的作品が、プロではない一般の消費者によって、どんどん「二次創作」されているのです。東氏は、これこそがポストモダンにおける文化の、典型的な受容・消費形態であると主張します。
 「二次創作」というのは、題材は例えば「ガンダム」でも「エヴァンゲリオン」でもいいのですが、その個々の作品エピソード(=小さな物語)の背景にある「世界設定」は共有しつつ、その世界の中で同じキャラクターたちによって繰り広げられる「別の(小さな)物語」を創作することです。それらを掲載した「同人誌」は多様な形で流通しており、その最も大規模な場が、世界最大級の屋内イベントと言われる「コミックマーケット」です。
 最近のオタク文化におけるこの「二次創作」という現象の席巻は、かつてボードリヤールが予見したように、ポストモダン社会においては作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になるという説に対応していると、東浩紀氏は指摘しています。

 ところで、数ある作家の中で宮澤賢治も、不思議と「二次創作」の題材となることの多い存在なのです。『宮沢賢治カバー・バージョンズ』(河出書房新社)という本には、井坂洋子、伊藤比呂美、角田光代氏など16名もの作家が、賢治の作品設定をもとに執筆した「二次創作」が集められていますし、

宮沢賢治カバー・バージョンズ 宮沢賢治カバー・バージョンズ
井坂 洋子 ほか

河出書房新社 1996-08
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また「第16回宮沢賢治賞」を受賞した高橋源一郎氏の『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』(集英社文庫)は、これも広い意味で「二次創作」ですね。

ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ (集英社文庫) ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ (集英社文庫)
高橋 源一郎

集英社 2010-10-20
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 賢治の作品と関連した「二次創作」は、これら以外にも種々ありますが、ここにおいても、賢治世界は創作のための「データベース」として機能しているわけです。
 上に引用した東浩紀氏の「ポストモダンの世界像(データベース・モデル)」という図において、「私が物語を読み込む」とは、与えられた作品群を通して背後のデータベースを読み込むことにより、このようにして設定を共有する「シミュラークル」としての新たな創造行為を行うことを指しています。

 そしてさらにもう一点、私がとくに宮澤賢治に関して非常に興味深いと思うのは、一般の人々による「賢治データベース」へのアクセス方法として、真に特徴的なもう一つの「経路」があることです。
 それは、専門家、アマチュアを問わず、広大な裾野を持った非常に多くの研究者・愛好家が、それぞれに自分の流儀で「賢治研究」を行っているという現象です。その大きな一つの拠点として、プロ・アマを問わない集まりである「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」という組織も活動しています。
 実にこの「学会」ほど不思議な集まりはなくて、そこでは芸術院会員の偉大な詩人や、卒論に賢治を選んだばかりの学生や、童話の読み聞かせをしている主婦や、文学や物理学や地学の高名な学者や、その他さまざまな仕事をしている一般の賢治愛好家が集まり、どんな場合も互いに「先生」を付けずに「さん」で呼び合い、賢治について自分の「研究」したことを発表したり、熱く語り合うのです。これは奇しくも、「コミックマーケット」においては同人誌の発行者も「買い専」も含めて、「参加者はすべて対等である」という思想があることに、似ているようでもあります。
 いずれにしても、プロ・アマが区別なく「研究」という形で、「賢治世界」というデータベースを充実させていこうと日夜努力を惜しまない状況は、かなり独特のことだと思います。どんな作家にもそれぞれ研究者はいますが、賢治のようなケースは、他に類を見ないことです。これも、オタク文化における二次創作においては、プロ・アマの垣根は消滅しつつあることに対応しているように思われます。

 そのようにして集積された「知」は、情報の塊として見れば「データベース」であり、体系的な「学」として見れば、このたびの辞典のタイトルにある「イーハトヴ学」ということになるのでしょう。
 「イーハトヴ学」の下位分野としては、これまで例えば「賢治地理」(小沢俊郎)、「賢治鳥類学」(赤田秀子)、「イーハトーブの植物学」(伊藤光弥)、「宮沢賢治的建築学」(2007年冬期セミナー)、「イーハトーブ温泉学」(岡村民夫)、「イーハトーブ看護学」(大八木敦彦)などが研究されてきましたが、今回の辞典では、その構成は下のようなものとなっています。(同書p.ix-xi)

宮澤賢治イーハトヴ学辞典の構成