雪の日に来る恋人

 以前に、signaless さんのブログ「りんご通信」において、賢治の「〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕」(「詩ノート」)のことが取りあげられていました。
 まず以下は、その作品全文です。

一〇〇四  〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕
                             一九二七、三、四、

今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです
ひるすぎてから
わたくしのうちのまはりを
巨きな重いあしおとが
幾度ともなく行きすぎました
わたくしはそのたびごとに
もう一年も返事を書かないあなたがたづねて来たのだと
じぶんでじぶんに教へたのです
そしてまったく
それはあなたの またわれわれの足音でした
なぜならそれは
いっぱい積んだ梢の雪が
地面の雪に落ちるのでしたから

    雪ふれば昨日のひるのわるひのき
    菩薩すがたにすくと立つかな

 この作品の7行目で、「あなたがたづねて来た」と賢治が夢想した「あなた」とは、旧友・保阪嘉内のことだったのではないかと、signaless さんは上記ブログにて推測しておられました。
 そして私も、以前から何となくそう思ってきたのです。(じつは当サイトの「宮澤賢治全詩一覧」という表におけるこの作品の欄にも、「この「あなた」とは、保阪嘉内のことでしょうか。」と書いていました。)

 今回はこのことについて、少し考えてみたいと思います。

書簡[226a]佐々木実あて さて、この作品に日付として入っている「1927年3月4日」とは、羅須地人協会の「規約ニヨル春ノ集リ」が行われたはずの日でした。
 右の写真は、『【新】校本全集』第十六巻(上)「補遺・資料篇」に掲載されている、賢治がこの集会を通知するために謄写版で刷った葉書です。
 文面によれば、日時は3月4日の午前10時から午後3時までとされており、さらに上記全集「年譜篇」によれば、湯口村堰田の高橋末治氏の日記に、「組内の人六人宮沢先生に行き地人会を始めたり 我等も会員と相成る」と記されているということです。

 上の作品で、「あかるくにぎやかな」と表現されているのは、日ざしが「あかるく」、雪の落ちる音が「にぎやか」だったというだけではなくて、羅須地人協会に集った若者たちとすごした一日が、「あかるくにぎやか」だったということでもあるのでしょう。

 そして賢治は、その日の「ひるすぎてから」、すなわちまだ集会が行われているうちから、雪の落ちる音を聴くたびに、「もう一年も返事を書かないあなたがたづねて来たのだと/じぶんでじぶんに教へた」というのです。
 その「あなた」が誰なのか、この描写からは何もわからないのですが、「訪ねて来てくれる」ことを暗に期待しているようでいながら、筆まめな賢治が「一年も返事を書かない」という態度との間に感じられるギャップが、何か「あなた」への複雑な心情を表現しているようにも思われるのです。
 そして、signaless さんも指摘されているように、作品の最後に引用されている

    雪ふれば昨日のひるのわるひのき
    菩薩すがたにすくと立つかな

という短歌の存在が、どうしても保阪嘉内を連想させます。
 これは、1917年(大正6年7月1日)に発行された、記念すべき『アザリア』第一号に賢治が載せた「みふゆのひのき」連作のうちの一首で、その発行の1週間後である7月8日未明には、例の「四人組」で秋田街道を雫石まで歩くという「馬鹿旅行」を敢行し、さらに1週間後の7月14日-15日には、賢治と嘉内二人で岩手山に登っていわゆる「銀河の誓い」をしたという、賢治と嘉内の友情においては輝かしい時期の作なのです。
 そしてもう一つ、私にとってこの短歌が何となく保阪嘉内を連想させる背景には、賢治から保阪嘉内あての、1917年(大正6年)の年賀状(書簡[25])があります(下記)。

去年中はいろいろ御世話になりましてありがたう存じます。
扨又首尾よく本年となりまして御互に慶賀の至りでございます。
遥にあなたの御壮健を祈り又雪の中に立ち出でましてニコライの司教のやうに手をひろげる人をおもひます。

 最後の文で、「ニコライの司教のやうに手をひろげる人」とは、嘉内が前年夏に郷里で詠んだ次の短歌に由来しています(保阪嘉内『短歌日記』より)。

ニコライの司教のごとく手をひろげ曠野の夕、神に感謝す。

 つまり、年賀状における「雪の中に立ち出でましてニコライの司教のやうに手をひろげる人」というのは、保阪嘉内のことなのです。
 いろいろと「やんちゃ」で「悪童」ぶりも魅力的な嘉内(「わるひのき」!)ですが、「雪の中に立ち出でましてニコライの司教のやうに手をひろげる」姿を想像すると、何か尊く、聖なる後光も感じられます。そのようなところが私には、「雪ふれば昨日のひるのわるひのき/菩薩すがたにすくと立つかな」という歌を、何となくイメージさせるのです。
 はたして賢治自身にとっては、どうだったでしょうか?

 ということで、とりあえず話をまとめると、この日、羅須地人協会の集会で若者たちと農業の将来や理想について語り合った賢治は、その集会を行いながら、あるいは皆が帰って一人になってから、やはり山梨で農村改善に取り組むと言っていた旧友・保阪嘉内のことを、思い出さずにいられなかったのではないでしょうか。
 そもそも賢治は、盛岡高等農林学校在学中にも、卒業して今後の自分の職業についてあれこれ考えていた時にも、そして国柱会に入会して家族や嘉内に「帰正」を迫っていた時期にも、自らが農村改善のために尽くして生きていこうなどとは、別に考えていなかったのです。それなのに、いったんは農学校教師になり、その後またその職を辞してまで農民のために生きる道を選んでいった背景には、親友・保阪嘉内が在学中から語っていた理想や、またおそらく1921年(大正10年)7月の二人の「別れ」の際に嘉内が語ったであろう農業への思いなどが、きっと大きく作用したのだろうと、私は思っています。
 この1927年3月4日の賢治は、昔そのように語っていたかつての親友と今の自分とは、また同じ理想を目ざして生きているのだという感慨を、あらためて噛みしめたのではないでしょうか。そして、そのような自分の近況を嘉内に見てもらい、また二人で語り合いたいという願望も、心のどこかにはあったのではないでしょうか。
 この作品を読むと、私はそんなふうに感じてしまいます。


 さて、話は変わって、さらに想像は飛躍してしまいます。
 同じ年の5月7日に賢治は、「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」(「詩ノート」)という作品を書いていますが、その中に次のような部分があります。

むかしわたくしはこの学校のなかったとき
その森の下の神主の子で
大学を終へたばかりの友だちと
春のいまごろこゝをあるいて居りました
そのとき青い燐光の菓子でこしらえた雁は
西にかかって居りましたし
みちはくさぼといっしょにけむり
友だちのたばこのけむりもながれました
わたくしは遠い停車場の一れつのあかりをのぞみ
それが一つの巨きな建物のやうに見えますことから
その建物の舎監にならうと云ひました
そしてまもなくこの学校がたち
わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の
舎監に任命されました
恋人が雪の夜何べんも
黒いマントをかついで男のふうをして
わたくしをたづねてまゐりました
そしてもう何もかもすぎてしまったのです
  ごらんなさい
  遊園地の電燈が
  天にのぼって行くのです
  のぼれない灯が
  あすこでかなしく漂ふのです

 前半に出てくる「その森の下の神主の子」というのが、盛岡中学の同級生で東大に進学した阿部孝だというのは明らかで、先日「「雲の信号」と雁(つづき)」という記事でも触れました。
 この作品においては、「寄宿舎」という言葉が一種のキー・ワードとなって、独特のノスタルジーが醸し出されています。賢治と阿部孝は、盛岡中学の寄宿舎で生活をともにしていましたし、賢治が花巻農学校の教師となってからは、とりわけ宿直の晩など、「舎監」の役割も兼ねていました。しかし、この時点の作者にとっては、いずれもすでに過去の出来事です。
 そこで私がふと思うのは、後半の「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたずねてまゐりました」に出てくる「恋人」とは、盛岡高等農林学校の寄宿舎で同室だった保阪嘉内をフィクション化した存在なのではないかという、(ちょっと強引な)憶測です。
 もちろん、いくら仮構の上であれ、男同士の親友を「恋人」になぞらえるというのは、いささか突飛ではあります。しかし、賢治と嘉内の友情が、一時は恋人同士のように親密であったのは、やはり事実でしょう。
 最も顕著な例としては、嘉内が『アザリア』第四号(1917年12月16日発行)に載せた「打てば響く(小説)」においては、明らかに賢治を想定させる「友」に向かって、次のように語りかけます。

(前略)
友よ、まことの恋人よ倚り来よ。
われと思ふさま泣かうではないか、地が固く氷って身を切る様な風の吹き荒ぶ夜なら、北海のはなれ島、月下に二人よりそひて泣かう、心ゆくまでに泣かう。
友よ、まことの恋人よ、まだ泣き足りないのか。そんなら泣かう、泣かう。あの椰子の木の茂る熱帯の森でも、二人で泣かう。そして泣いて泣いて泣き死んだら恨はないであらう。そうだ恋人よ。おゝ恋人よ。まことの国はその時より我らの眼のまへに展開せられて来るのではないか。
友よ、梅川忠兵衛のうるはしい物語を御存じだらう。小春治兵衛のはなしも知ってだらう。ロメオとジュリエット。天文学者レオ、ニコラッヰッチと星との話を知って御いでだらう。空と土との恋物語、また旅人と里程標。ある若者と材木との恋物語。
(中略)
人はいかに多く集るとも烏合の衆では何にもならない。それ故にある集りに集るごとき人々ならばすべてが仝じ方向に向かって仝じ考へで、ほんとうに、まじめで、御悧口者でなく、共に共に進んで行たいものだ。
あゝしかし誰がほんとうに私の心を汲んでくれるだらうか。あゝ恋人よ、おんみより他に我を知る人はない。
あゝおんみ 恋人よ、まじめだ、しかしりこうものではない。
あゝ恋人よ、より来よ、われとよき歌をうたおうではないか。

 とても激しい調子の文章ですが、「友=恋人」に呼びかけ、さらに「仝じ方向に向かって仝じ考へで、ほんとうに、・・・共に共に進んで行たいものだ」など、後の賢治から嘉内への書簡なども(そして「銀河鉄道の夜」も)、彷彿とさせるような言葉も出てきます。
 また一方、賢治が『アザリア』第一号に載せた「「旅人のはなし」から」という散文作品では、賢治自身を思わせる「旅人」が旅の経験譚を述べていく中に、次のような箇所があります。

この多感な旅人は旅の間に沢山の恋を致しました、女をも男をも、あるときは木を恋したり、何としたわけ合やら指導標の処へ行って恭しく帽子を取ったり、けれども、とうとう旅の終りが近づきました。

 というわけでこの「旅人」は、「男をも」恋するのです。また、「あるときは木を恋したり・・・」という部分は、嘉内の上の文章においては「ある若者と材木の恋物語」として引き継がれているかのようで、この辺にも、二人の間の「打てば響く」ようなところが現れていような気がします。

 そのような二人の関係なものですから、「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」における「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたづねてまゐりました」というエピソードは、盛岡高等農林学校の寄宿舎において、1916年(大正5年)の二学期以降賢治と嘉内が別室になってからも、何度も嘉内が賢治の部屋を訪ねてきたという出来事の変形なのかもしれないとか、あるいは賢治が農学校教師になってから、当直の夜を学校で一人過ごしながら、何度も嘉内のことを思い出していたということの物語化かもしれないとか、私は考えてみたりするのです。

 いずれにしても、もしもこのように考えるとすれば、「〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕」でも、「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」でも、雪の中を嘉内がやって来るというイメージが、共通していることになります。
 しかし、実際にそういうエピソードがあったのでしょうか。

 このあたりは、まだよくわかりません。ただ、1917年(大正6年)12月23日に、賢治と嘉内は雪の中を「七つ森」方面へ出かけたことが、嘉内の歌稿『文象花崗岩』に記録されていて、その中には

夕闇のデンシンバシラ
へだたりて
ひろ野の雪と二人の若者

という歌もあることのみ、覚え書きとして記しておきます。「二人の若者」とは、賢治と嘉内のことです。

雪の羅須地人協会跡
雪の羅須地人協会跡