記事の更新が滞ってしまいまして申しわけありません。自宅のパソコンが壊れてしまい途方に暮れていたのですが、何とかハードディスクは取り外して、過去のデータは救い出すことができました(おかげで、この10年あまりの間に花巻などで撮ってきた写真も失わずにすみました)。
しかしディスクはかなり傷んでいたので、やむをえず新しいパソコンにして、何とかブログを書ける程度の状態に設定できたところです。
この間、9月5日には「第2回 京都・賢治の祭り」という催しで、「宮沢賢治の京都」という話をさせていただいたりしたのですが、その内容をご紹介するには、もう少し時間がかかりそうです。何分このパソコンには、まだ Word も PowerPoint もインストールしていないもので・・・。
ところで、昨年の「京都・賢治の祭り」の際にも書いたのですが、この催しが行われている「アートステージ567」というイベントスペースを運営しておられるHさんは、賢治や花巻と不思議な絆をお持ちの方なのでした。
その縁は、例えば「春と修羅 第二集」の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」という作品に現れています。やや長い詩ですが、花巻の中根子という地区にある「延命寺」の名物、五本の巨大な杉を眺めつつ、賢治があれこれ思いを巡らせているところです。
五二〇
一九二五、四、一八、
地蔵堂の五本の巨杉(すぎ)が
まばゆい春の空気の海に
もくもくもくもく盛りあがるのは
古い怪(け)性の青唐獅子の一族が
ここで誰かの呪文を食って
仏法守護を命ぜられたといふかたち
……地獄のまっ黒けの花椰菜め!
そらをひっかく鉄の箒め!……
地蔵堂のこっちに続き
さくらもしだれの柳も匝(めぐ)る
風にひなびた天台寺(でら)は
悧発で純な三年生の寛の家
寛がいまより小さなとき
鉛いろした障子だの
鐘のかたちの飾り窓
そこらあたりで遊んでゐて
あの青ぐろい巨きなものを
はっきり樹だとおもったらうか
……樹は中ぞらの巻雲を
二本ならんで航行する……
またその寛の名高い叔父
いま教授だか校長だかの
国士卓内先生も
この木を木だとおもったらうか
洋服を着ても和服を着ても
それが法衣(ころも)に見えるといふ
鈴木卓内先生は
この木を木だとおもったらうか
……樹は天頂の巻雲を
悠々として通行する……
いまやまさしく地蔵堂の正面なので
二本の幹の間には
きうくつさうな九級ばかりの石段と
褪せた鳥居がきちんと嵌まり
樹にはいっぱい雀の声
……青唐獅子のばけものどもは
緑いろした気海の島と身を観じ
そのたくさんの港湾を
雀の発動機船に借して
ひたすら出離をねがふとすれば
お地蔵さまはお堂のなかで
半眼ふかく座ってゐる……
お堂の前の広場には
梢の影がつめたく落ちて
あちこちなまめく日射しの奥に
粘板岩の石碑もくらく
鷺もすだけば
こどものボールもひかってとぶ
で、この作品と「アートステージ567」のHさんつながりというのは、22行目に「いま教授だか校長だかの/国士卓内先生も」と登場し、27行目には「鈴木卓内先生は」として出てくる人物が、なんとHさんのお祖父さんにあたられるというのです。
「鈴木卓内先生」は、正しくは「鈴木卓苗先生」です。花巻の言葉ではイとエが似ているので、賢治が「タクナエ」と「タクナイ」を間違ったのではないかという説もありますが、「下書稿(二)」の推敲過程では「卓苗」と書いている段階もありますから、賢治はわかった上で個人名をそのまま出すことを憚って、意識的に変えたのかもしれません。
上の作品中の12行目に、「悧発で純な三年生の寛の家」とあるのは、農学校における賢治の教え子、桜羽場寛のことで、鈴木卓苗氏は寛の叔父(父の弟)にあたります。卓苗氏の元の名前は「桜羽場泰太」といいますが、次男で寺の跡継ぎになる必要はないため、鈴木家に養子に行きました。
そして、師範学校を卒業してからは全国各地で教職を歴任し、新潟県の高田中学校、高知高等学校、栃木師範学校などで校長を務めた後、盛岡に私立岩手中学校が設立されるにあたり、創立者の三田義正氏に請われて初代校長として迎えられます。
賢治が上の作品で「いま教授だか校長だか」と書いた時点では、栃木師範学校の校長をしていたことになるようです。
さて、今回私がHさんからお聞きして感激したのは、この鈴木卓苗氏と賢治が、一緒に写っている写真が存在していたということです。下は、『新校本全集』にも載っている1906年(明治39年)8月9日、大沢温泉における「第八回仏教講習会」の記念写真です。
写真中、(1)が賢治、(2)が父の政次郎、(3)が妹のトシ、(4)がこの年の講師の暁烏敏ですが、Hさんによれば左から2人目に写っている(5)の人物が、鈴木卓苗氏なのだそうです。
あんまり小さいので、下にちょっと拡大しておきます。
他の大人たちはみんな浴衣の着流しなのに、一人袴をはき、「謹厳実直」という雰囲気が漂っています。後に校長先生を歴任するような威厳が、すでに感じられますね。
「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」では、「洋服を着ても和服を着ても/それが法衣(ころも)に見える」と、ちょっとユーモラスに紹介されていますが、確かにそう言えなくもありません。
鈴木卓苗氏(桜羽場泰太氏)の実家「延命寺」は、明治維新までは修験道、維新の神仏分離によって天台宗になりましたが、浄土真宗を基本とした「仏教講習会」にも、積極的に参加しておられたわけですね。お寺に生まれ、何を着ても「法衣に見える」というほどですから、教育者であるとともに仏教への信仰が篤かったのでしょう。
そしてこの時に、まだ10歳ほどの賢治と出会っていたことは、きっとその後も2人お互いの記憶に残っていたのではないでしょうか。
(注:当初、写真に付けていた(5)の印が間違っていました。お詫び申し上げるとともに、ご指摘いただいたHさんに感謝申し上げます。)
あと、賢治と鈴木卓苗氏の間接的なつながりとしては、斎藤宗次郎氏を介してのものがあります。
花巻のキリスト者、斎藤宗次郎氏は、賢治の19歳も年長ですが、宗教は違っても賢治に一種の尊敬を払っていたようで、しばしば賢治が農学校に勤めていた頃には、職員室に賢治を訪ね、話をしたり、賢治の詩の朗読を聞いたりしたようです。斎藤宗次郎の日記的自伝である『二荊自叙伝』によれば、1924年(大正13年)8月26日、斎藤宗次郎氏は花巻農学校の職員室に賢治を訪ね、蓄音機でドヴォルザーク「新世界」のラルゴ(「種山ヶ原の歌」)、ベートーヴェン交響曲6番「田園」、8番などを一緒に聴いたようです。
そしてその足で、斎藤宗次郎氏は夏休みで帰省していた鈴木卓苗氏を桜羽場邸に訪ね、教育問題などについて意見を聞いています。卒業後の道は大きく違う結果となりましたが、鈴木卓苗氏と斎藤宗次郎氏は、少年時代4年間(稗貫高等小学校?)の同窓生だったのです。
『二荊自叙伝』によれば、すでに地元では名士となっていた鈴木卓苗氏が帰省している機会に、同窓生が氏を囲んで料亭で「懇親会」を開いたところ、飲酒に反対する斎藤宗次郎氏は出席せず、翌日の個別の面会となったようです。
最後に下の写真は、2000年に写してきた延命寺の巨杉です。右下に小さく屋根が見えているのが、地蔵堂です。
しかし現在は、この賢治も親しんだ杉は伐採されて、この地には切り株が残されているだけとなりました。このことは、京都に住むHさんも、残念がっておられました。
mishimahiroshi
有名な写真ですね。その写真の中の暁烏敏。
真宗の学徒として、清沢満之の弟子として、さらにはカリスマ的魅力で真宗界の寵児でしたが、女性関係の華々しさでも知られていました。
女性関係にストイックだった賢治が幼少時ながらもその謦咳に触れていたというのは興味深いです。
父親たちが主催した仏教講習会に暁烏敏を招くというのは父親たちが仏教に大変熱心だったことが伺われます。
賢治が仏教および宗教一般に傾倒していったのも宜なるかなですね。
そこに京都のHさんのおじいさんもご一緒とか。
だからHさんも賢治に深く関わっておられるのですね。
因果は巡る・・・。
hamagaki
暁烏敏の、妻や愛人をめぐるエピソードは何かで読んだ憶えがあります。かなり壮絶ですね。賢治の人生とは対照的。
一方、賢治に「講后」という文語詩があり、子供時代の賢治が大沢温泉における仏教講習会の後、講師や参加者と一緒に、近くの山に登った情景のようです。ここに出てくる「師」は、暁烏敏かどうかはわかりませんが、師を敬愛しているらしい様子は、そうかもしれないとも思わせます。
そして、幼少期から賢治が親しんでいたもう一人の「先生」が、この有名な写真に写っており、そのお孫さんが京都在住であったとは、私にとっては本当に不思議な「巡り合わせ」でした。
こんな出会いもあるんだなあ、と感激しました。