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東北砕石工場との「契約証」

 1925年(大正14年)、鈴木東蔵は岩手県南部の陸中松川付近に大量に埋蔵されている石灰岩を採掘し、これを岩抹にして肥料として販売すべく、「東北砕石工場」を設立しました。
 当初は県北の小岩井農場が唯一の顧客でしたが、その後、白河軍馬補充部(福島県西白河郡)、白河補充部の鍛冶谷沢派出部(宮城県玉造郡)、荒川鉱山(秋田県仙北郡)からも注文が入るようになり、さらに一般の肥料店としては、花巻の渡嘉商店からも注文がありました(鈴木豊『父東蔵の足跡:農村文化振興と石一筋に生きた』p.34・49より)。
 つまりこの時点では、一般の農家が東北砕石工場の石灰岩抹を肥料として用いていたのは、花巻においてだけだったのです。ところが、ある年に渡嘉商店からの注文が急に途絶えました。不審に思った鈴木東蔵が花巻まで事情を聞きにきてみると、それまでの花巻における石灰肥料の需要は、宮沢賢治という一人の人が肥料設計や農家への啓発活動を行っていたおかげだったことがわかりました。この年は賢治が病気で倒れたために、農家からの注文がなかったのです。
 これが、東蔵が賢治を知るきっかけでした。

現在の渡嘉商店

 東蔵は宮沢家を訪ねて病床の賢治に面会し、その後も二人は徐々に交流を深めます。そして賢治は、土壌や肥料についての専門的知識を生かして石灰肥料の宣伝・広告文を考えるなど、鈴木にとって一種の「顧問」的な役割を果たしていくようになります。
 一方、賢治の病の回復を見守っていた父政次郎は、この事業を賢治の進む新たな道として整えてやろうという気持ちがあったのでしょう。伊藤良治氏は著書『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』において、父政次郎の関与について次のように描いています(p.107-108)。

 そして昭和六年一月に入るといよいよ賢治就職への具体的な協議に進んでいく。だが父政次郎の助言がそこに入ってくる。「東北砕石工場の仕事をすることには同意する。だがそのためには、砕石工場の技手なり技師なりの辞令交付を受けたらどうか」と。子息賢治をしっかり見守ってこられた政次郎の助言は重い。事業については素人そのものの賢治を、その道に踏み込ませる舵取りを政次郎自身が荷わねばならないと決意されたのだから。報酬額や業務分担内容についてまで、おおよその協議を東蔵と詰めてきたものの、事業家政次郎にすればどうにも先行きに不安を感じられたからであろう。賢治の身にすれば、それより何よりただ工場経営に協力したいという意欲だけが先行していて、契約締結についてまで思い及んではいなかった。一月十五日付の沢里武治宛書簡に、賢治は「東磐井郡松川の東北砕石工場の仕事をすることになりました。月の半分は仙台に出てゐて勉強もできるのですが、収入は丁度あなた方ぐらゐでせう」と書いている。その前日か前々日、既に東蔵と賢治間で報酬額や役割分担についての話し合いが進んでいたことが理解できる。しかし賢治を見ていた父政次郎の目からすれば、ビジネス次元での慎重さを抜きにした「お手伝い」的感覚のままに見える賢治に、一種の不安を感じられたのは当然だった。賢治の先行きをあやぶみながら、なお且つ賢治が自立できるようにとの念願を抱きながらのことだったろう。そして二月二一日の技師就任契約締結の場での賢治は、ただ傍観者的感覚で同席していたにちがいない。契約当事者でありながら賢治は、ただうながされるようにして署名捺印していたのではなかろうか。

 引用が長くなり申しわけありません。しかし、賢治と東蔵の関係に父親が介入してくる状況をめぐる伊藤氏のこの推測は、たしかに的を射たものだろうと私も感じます。
 鈴木豊著『父東蔵の足跡:農村文化振興と石一筋に生きた』p.41には、東蔵自身が伝えた賢治の言葉が、次のように記されています。

 賢治は父東蔵に、「私の事は嘱託でいいのだが父の事が有るので何とか父の顔を立ててくれ」と何回か話されました。この様にして賢治は父政次郎の意に沿って仕事を始めました。

 この言葉からは、賢治が鈴木東蔵と父政次郎との間で、板挟みのような感を抱いていたことがうかがわれます。しかしここで賢治が、「父の顔を立ててくれ」と表現しているのは、やはりこの「契約」に関する彼の認識の限界を示しているのではないでしょうか。
 「顔を立てる」というのは、普通は「実質はさておき、形式的には体面を保たせる」ことを意味します。この言葉からは、賢治は父が工場からの辞令交付を求め、正式の契約証を作らせることを、「形式的なこと」と見なしていたのではないかと推測させますが、父が鈴木東蔵との契約証に盛り込んだ内容は、決して「形式的」などという範囲の生やさしいことではありませんでした。宮沢家側がリスクを最小限にして、その後も(もし賢治が倒れさえしなければ)利益を得られ続けるような、非常に巧みな条件だったのです。

◇          ◇

 ちょっと話が先に進んでしまいましたが、賢治と鈴木東蔵が契約証を交わすまでの経緯に戻ります。
 1931年(昭和6年)の2月、鈴木東蔵は政次郎の意向を受けた賢治の求めに応じて、「嘱託状」を送ります。それは次のような内容でした。

      嘱託状
                  宮沢賢治
 右当工場技師ヲ嘱託ス
           昭和六年二月十七日
             東北砕石工場
                主 鈴木東三


 この「嘱託状」の交付、そしてその後の経過について、鈴木實著『出会いの人びと』は、次のように記しています。

 六年旧暦の元旦に、父は元朝参りをすませて工場に行き、事務員鈴木軍之助に命じ、「東北砕石工場技師を命ず」と辞令を書かせて発送した。
 数日たって、「スグコイ」の電報が配達になって、父は何か失礼なことでも、と考えながら、重い足を花巻に運び、宮沢家の敷居を高くまたいだという。ところが政次郎様が現われて、「賢治は技師として上げます。経費も必要ならば五百円貸します。また出荷した品には荷為替付で発送の都度必要な金を融資しましょう」と言われたので、夢ではないかと驚いたのであった。

 「スグコイ」と電報で陸中松川から花巻まで呼びつけるのですから、ここにすでに鈴木東蔵と宮沢家の関係が表れています。工場主(オーナー経営者)と、その嘱託技師だと、前者の方が当然立場は上のはずですが、現実は明らかに逆転していますね。

 上記のように鈴木東蔵が花巻の宮澤家に呼びつけられて、そこで作成された「契約証」は、下記のようなものでした。

収入
印紙

               契約証

石灰事業賛助ノ為相互共栄ノ目的ヲ以テ左ノ契約ヲ締結ス
一、信証金トシテ宮沢ヨリ一時金五百円ヲ鈴木ニ預ケ置クモノトス 此ノ預金ニ対シテハ日歩金参銭ヲ支払フコト但シ石灰ノ需要激増ニヨリ生産ノ増加ヲ計ル都合上資金ノ増額ヲ要スル場合ハ金壱千円迄預クルコトアルベシ 尚将来解約等ノ場合ハ元利返済スルモノトス
二、宮沢ヲ技師トシテ嘱託シ報酬トシテ年六百円ヲ炭酸石灰ヲ以テ支払フモノトス 但シ本年度ニ限リ金五百円トス右ニ対シ宮沢ハ左ノ職分ヲ行フモノトス
  イ、説明書並広告文ノ起草
  ロ、炭酸石灰ニ関スル調査並ニ改良
  ハ、照会回答
三、岩手県(小岩井農場及東磐井西磐井両郡ヲ除ク)・青森県・秋田県・山形県ノ宣伝ヲ宮沢ニテ行ヒ右ノ註文ニ対シテハ松川駅渡十貫ニ付二十四銭五厘ニテ宮沢ニ卸売スルモノトス 但工場ニ於ケル直接販売ハ十貫ニ付三十銭以下ニテ売ルコトヲ得ス
四、炭酸石灰ノ需要期以外ハ壁材料ノ宣伝ニ努メ此レニ要スル資金ハ追テ協議ノ上之レヲ決スルモノトス右ノ各項履行ノ為各一通ヲ所持スルモノ也
    昭和六年二月二十一日
            東磐井郡松川村字滝ノ沢平一一七
             東北砕石工場
                    鈴 木 藤 三  (印)
             稗貫郡花巻町豊沢町
                    宮 沢 賢 治  (印)


 まずここで確認しておくべきは、鈴木東蔵と賢治が交わした契約は、労働関係法規で言う「雇用契約(労働契約)」ではなくて「委託契約」に当たるということです。「石灰事業賛助」「相互共栄」が謳われており、両者の関係は対等のようで、雇用契約の場合のように、雇主である鈴木東蔵から賢治(および宮沢家側)が業務命令によって拘束されることはありません。
 対等どころか、「三、」の項では、宮沢には石灰を10貫あたり24銭5厘で卸す一方、鈴木が工場から販売する際には、10貫あたり30銭以下で売ってはならないと、鈴木の行動を縛る内容も含んでいます。つまり宮沢側の方が、強い立場で契約を結んでいるわけで、そのような力関係は、「一、」で宮沢が鈴木に500円を貸すというところから由来しているようです。

 その500円の貸付金ですが、つねに資金繰りに困っていた鈴木としては、喉から手が出るほど欲しかった現金でしょうが、「日歩3銭」というのは、けっこう高利です。
 すなわちこれは、100円につき1日3銭の利息ということですから、500円ならば3銭×5×365÷100=54.75円が、1年あたりの利息です。するといわゆる「年利」は、54.75÷500×100=10.95%ということになります。
 一方、明治10年太政官布告の戦前の「利息制限法」第二条(大正8年改正)では、「元金百円以上千円未満ハ百分ノ十二(一割二分)」が年利の上限と定められています。したがってこの「約11%」というのは、法的に認められた利息の上限に近い数字です。まあ、工場の経営状態から考えると鈴木東蔵の信用状態は低いわけですから、金を貸す側が利息を高くするのは、当然の経営判断でしょうが・・・。
 しかしそれに加えて政次郎氏の巧みなところは、賢治の給料は「本年度ニ限リ金五百円トス」と定め、ちょうど貸し付けた額に相当する500円を、1年以内に現金で回収できるようにしてある点です。給料は基本的に「炭酸石灰による現物支給」としながら、わざわざ初年度だけ「金五百円」としてあるのは、貸付金を意識してのことでしょう。むろん、貸付金そのものは給料と別なので、鈴木はこれを返済するまでは利息を払わなければなりません。

 さらに、次の「三、」の条項が鈴木側にとって不利なのは、前述のように鈴木側は「10貫あたり30銭以下で売ってはならない」と拘束されていることに加え、販売地域が制限されてしまったこともあります。
 鈴木側で販売できるのは、岩手県では小岩井農場と東磐井・西磐井両郡のみ、そしてそれ以外の岩手県内と、青森県、秋田県、山形県は賢治の担当となりました。賢治との契約以前に工場の顧客であった秋田県の荒川鉱山や花巻の渡嘉商店も、契約後は賢治の担当となり、鈴木が販売できる地域は減らされてしまったわけです。
 賢治はここで規定された広い担当地域で注文を取ったら、卸値24銭5厘をもとにして自由に価格設定を行うことができます。鈴木東蔵が自ら販売すれば10貫30銭以上であるのに対して、それより安くしても、24銭5厘との差額は賢治側に入るわけです。
 この「10貫あたり24銭5厘」という賢治への卸値が、純粋な原価からどれだけ上乗せされたものなのかはわかりませんが、鈴木東蔵が自分で10貫あたり30銭で売ることに比べれば、かなり薄利だったことは確かでしょう。

 さて、このような「東北砕石工場」(鈴木東蔵)と、「東北砕石工場花巻出張所」(宮沢賢治)との関係は、現代のビジネスモデルで言えば、「フランチャイズ制」という事業形態に少し似ているように見えます。「本部」側が、自己の開発した商品を卸し、商標の使用を許可する一方、「加盟店」側は、その対価を支払います。「加盟店」側は自己資金によって店を経営し、「本部」側は「加盟店」の経営に対してリスクを負いません。東蔵と賢治の契約にあたって、宮沢側が500円の「信証金」を鈴木に預けたことは、加盟店から本部に与える「対価(ロイヤルティー)」と解釈できなくもありません。
 しかし、実際の両者の関係はそれとは似て非なるものでした。この500円によって宮沢側は、自身に好都合な形で工場の販売方針(地域の制限、売値の制限)に介入する権限を得たわけです。これはむしろ、「銀行が融資先の経営に介入する」という状況の方に近い感じもしますが、銀行の経営介入はあくまで貸金の返済を確実なものにするためであるのに対して、この「契約書」における販売地域制限、売値制限は、賢治の側の販売を有利にするためのものです。銀行の介入よりも、もっと戦略的なわけです。
 それにもかかわらず、慎ましく「東北砕石工場花巻出張所」の看板を掲げ、「嘱託技師・宮沢賢治」と名乗らせ、この500円を「融資」とか「貸金」とか呼ばずに「信証金」「預ケ置ク」と表現しているところに、私はあらためて政次郎氏の経営者としてのしたたかさを感じるのです。
 最初に政次郎から説明を聞いた鈴木東蔵は、前述のように「夢ではないかと驚く」ほど好条件と感じたようですが、長期的に見れば宮沢家側にとって有利な契約でした。後述のように、その実態は後に少なくとも東蔵の息子はわかっていたようです。しかし、かりにもし東蔵自身がこの契約が長期的に不利であることにその場で気づいたとしても、工場の操業のことを考えれば、当座の運転資金調達のために、のまざるをえない条件だったとも言えるでしょう。

 こうして政次郎氏苦心の考案の契約証によって、宮沢家は岩手県の大半と、青森県、秋田県、山形県という広大な「市場」を獲得し、工場から安価な卸値で仕入れた石灰肥料を、そこで自由に販売できることになりました。おそらく賢治が父にした説明によれば、今後の宣伝活動によって石灰肥料の需要は大幅な増加が見込めるというのですから、このシステムがあれば、今後も着実な利益を上げ続けられるはずです。
 宮沢家としては、次男の清六が継承しつつある本来の「宮澤商店」に加えて、ついに長男が中心となった新たな事業を展開できる見通しが立ったわけです。
 賢治がその年のうちにまた病に倒れてしまうという、父にとっても予想外の事態さえ起こらなければ・・・。

◇          ◇

 賢治の当初の心づもりでは、基本的には「技師」の仕事(契約証では「二、」の内容)をする予定だったようです。
 1931年(昭和6年)1月15日の賢治の沢里武治あて書簡295には、

実は私は釜石行きはやめて三月から東磐井郡松川の東北砕石工場の仕事をすることになりました。月の半分は仙台へ出てゐて勉強もできるのですが、収入は丁度あなた方くらゐでせう。

というやや気楽な書き方で、この時点では毎日セールスに奔走するようなイメージは、賢治自身も持っていなかったように見えます。
 それが蓋を開けてみると、毎日のように岩手県内外の各地へ、販売促進活動に出るようになってしまいました。その行動の根拠は、契約証の「三、」の項にあったのです。

 佐藤通雅氏は、『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』において、次のように書いていました。

 さて契約証のほうだが、簡潔ながらかなりきちんとした文面であるということができる。ビジネスとしては当然のことであるが、けっして資金提供者が損をせず、賢治を自立させるための内容もくみこまれている。しかし、それゆえに賢治のかぎりない奔走に火をつける導火線ともなった。このことはしっかりみておかなければならない。(p.121)

 これがいまこそ父政次郎の許可もおりて、合法的に成立しようとしている。賢治の心がおどらないわけがない。契約証によるなら、自分の宣伝していい領分がある。それによる注文がふえればふえるほど利益があがることになる。しかし、このしくみが賢治を東奔西走へと駆り立てる導入口になった点は否めない。もちろん実際には契約証の範囲を逸脱してまで走りまわったのだから、その責にだけ帰することはできないが、すくなくとも以後の疾走に合法性を与えるきっかけになってしまった。(p.127)

 「契約証の範囲を逸脱してまで走りまわった」というのは、賢治が宮城県への営業活動にもかなり力を入れたことを指します。
 これは、鈴木東蔵の四男の鈴木豊氏が、著書『『父東蔵の足跡:農村文化振興と石一筋に生きた』にも書かれています。

 前にも書きました様に宮沢家との契約証によって賢治の仕事が二倍に仕事をする様になりました。
 実際は政次郎さんの有利な契約でしたので宮沢家で炭酸石灰を東北砕石工場より仕入れそれを賢治が販売する様になりました。賢治は東北砕石工場の宣伝販売もしなければならず、二重の仕事となったわけです。

 上で、「二重の仕事」と書かれているのが、賢治の担当地域のセールスと、「東北砕石工場の宣伝販売」と表現されている宮城県における活動なのです。
 さらに鈴木東蔵の長男・鈴木實氏は、著書『出会いの人びと』に、次のような感想を記しています。

 この頃(昭和9年頃?)は賢治に代り宍戸というエンジニアが父の顧問になっていた。一関町の郊外に住む人で、私は時々使いに行ったが、教養のある立派な人であった。用件のある時は来場して父の指導をしていたが、あとは自由な立場で製品の販売にも協力をしていた。私は時々賢治もこのような形の協力であったらと思うことがある。

 最後の「思い」は、意味深長です。

 父政次郎が、賢治の経済的自立を図ってやりたいとの親心と、宮沢家の事業としての利益のために工夫した「契約証」でしたが、これが「賢治のかぎりない奔走に火をつける導火線」となり、病の悪化を引き寄せたとしたら、本当に皮肉なことです。
 しかし、いずれにしても「かぎりない奔走」を始めてしまうのは、賢治自身の本質の一部であったようにも思われます。

宮沢賢治来場当時の東北砕石工場
鈴木豊著『『父東蔵の足跡:農村文化振興と石一筋に生きた』より