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水沢の地図を持って・・・

 この頃は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」という、最近になって発見された賢治の作品のことばかり書いている感じで、皆さまもたぶん食傷気味でしょうが、もう少しだけお付き合い下さい。

停車場の向ふに河原があって
水がちよろちよろ流れてゐると
わたしもおもひきみも云ふ
ところがどうだあの水なのだ
上流でげい美の巨きな岩を
碑のやうにめぐったり
滝にかかって佐藤猊嵓先生を
幾たびあったがせたりする水が
停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
運転手たちは日に照らされて
ものぐささうにしてゐるのだが
ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ

 この作品が、いつ・どこで書かれたのかということが、とりあえず私の関心事です。「どこで」ということに関しては、冒頭に出てくる「停車場」が大船渡線の「陸中松川駅」であることは、確定的と言ってよいでしょう。その根拠については、「停車場・河原・自働車」を参照して下さい。

 一方、「いつ」書かれたのかというのは、かなり難問です。まあ、断定的なことを述べるのはまだ無理というのが現実でしょうが、とりあえずできる範囲で推測してみようというのが、今回の記事の趣旨です。

砂鉄川
砂鉄川


1.草稿の状態

 まず、この作品の草稿の状態から確認しておきます。「〔停車場の向ふに河原があって〕」のテキストは、五万分の一地形図「水沢」の裏面に、鉛筆で書かれていました。この五万分の一地形図は、枠外の余白部分を数mm残してきれいに切り落とし、16に折り畳まれていたということです。となるとこの地図は、賢治が学生時代から地質調査の際に携行していた五万分の一地形図と、全く同じ処置をされていたことになります。
 ちなみに、下写真は賢治が盛岡高等農林学校研究生時代に行った「稗貫郡土性調査」の際に用いた、五万分の一地形図「新町」です。やはり枠外を数mm残してきれいに切り落とし、16に折った折り目跡が付いています。

五万分の一地図「新町」と賢治の書き込み

 一方、この「水沢」地図裏の「〔停車場の向ふに河原があって〕」本文が記入された下方には、天地を逆にして赤鉛筆で、

White lime Stone over the river
   NS 75°

との記入があるとのことです。
 この地質学的記載の正確な解釈は私にはわかりませんが、「石と賢治のミュージアム」館長の藤野正孝氏が、地質学者である加藤碩一氏、原子内貢氏に見解を求めたところ、これは「白色石灰岩(の地層面)の「走向」がちょうど南北方向、「傾斜」は75°で川に覆いかぶさっている」という意味であり、これは猊鼻渓における最大の石灰岩露頭である「大猊鼻岩」の所見に、ぴたりと当てはまるということです。
 そうだとすれば、この赤鉛筆の記載は、賢治が猊鼻渓を訪れた時に、その場で書き込んだと考えるのが自然です。


2.乗合自動車の営業時期

 作品には、陸中松川駅の駅前広場に停まっている3台の「自働車」が描かれています。運転手たちは、今はものぐさそうな様子で、おそらく列車が駅に着いたら降りてくる客を乗せるために、待っているところなのでしょう。
 陸中松川に乗合自動車が出現したのは、駅前で競合する2つの旅館が相前後して導入したもので、1926年(大正15年)のことでした(鈴木文彦著『岩手のバスいまむかし』p.15)。そして、翌1927年(昭和2年)には、双方とも「陸中松川駅構内自動車営業許可」を受け、正式に営業運転を始めます(上掲書および『東山町史』p.770)。

 すなわち、駅前で客待ちをする自動車が描かれたこの作品が書かれたのは、少なくとも1926年(大正15年)以降と考えることができます。
 さらに、この1926年以降の賢治の健康状態を考えると、結核のために自宅から出られなかった時期は除外できますから、陸中松川まで来てこの作品を書いた可能性があるのは、(1)1926年~1928年8月、(2)1931年2月~9月、という二つの時期に分けることができます。(1)は羅須地人協会時代、(2)は東北砕石工場勤務時代です。
 この二つの時期のうち、(1)の羅須地人協会時代には、『新校本全集』の年譜で調べる限りでは、賢治が陸中松川に来たという明らかな記載は見つかりません。この時期の賢治は、毎日おもに自分の畑を耕し、時に肥料相談や農事講演のために、花巻を含めた近隣の農村に出かけたりしていました。わざわざ県南部の陸中松川まで来るとなると、教師時代のような自由な「山歩き」ではなく、明確な目的があってのことだったでしょうが、とりあえず新校本全集』の年譜には、そのような記事は見あたらないのです。
 一方、(2)の時期の賢治は、東北砕石工場技師として、陸中松川にあった工場まで、何度も足を運んでいます。

 次にはとりあえず、記録に残っている部分だけでも、賢治が陸中松川駅へやって来た時のことを見ておきます。


3.賢治の東北砕石工場来訪

 伊藤良治氏の整理によれば、賢治が陸中松川の同工場を訪れたのは、下記の7回だったということです(『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』p.118-123)。

1931年2月24日(契約金の引き渡し、当座旅費受領、記念撮影)
      3月26日(工場へ10円支払い等)
      3月30日(鈴木東蔵に65円支払い)
      4月18日(工場で宮城県庁関係の打ち合わせ後、仙台へ出張)
      5月 4日(工場で打ち合わせ後、仙台へ出張)
      5月 8日(宮城県販売方法を相談)
      6月14日(65円受領、猊鼻渓―高金赤石採掘場に案内される)

 ここで、上記のリストを見ていてどうしても注目されるのは、6月14日に工場を訪れた際に、「猊鼻渓―高金赤石採掘場に案内」されたという記述です。作品中にも、「げい美の巨きな岩」が登場するではありませんか!


4.猊鼻渓ではなく水沢の地図を持って・・・

 賢治が、生涯のうちに猊鼻渓を訪れたことが何回あったのかは、わかりません。ただ、現時点で『新校本全集』の年譜に記載されているのは、上記の一度きりです。もちろん、証拠は現存しないが行っていた可能性はあるので、この1回だけだと断定することもできません。
 ですから、賢治が赤鉛筆で「White lime Stone over the river/NS 75°」と書いたのは、1931年6月14日のことかもしれませんが、また別の機会に猊鼻渓を訪れた時かもしれないのです。

 しかし、ここに一つ、不思議な状況があります。賢治が猊鼻渓を訪れた時、もしも猊鼻渓が掲載されている地図を所持していたとすれば、「NS 75°」などという観察所見は、猊鼻渓の地図上の該当地点に書き込んだはずです。上に例示した五万分の一地形図「新町」の右半分にも、賢治はいろいろ地質学的所見を書き込んでいるのが見えますが、こうすることによって位置データと地質データをリンクすることができるわけで、これは地質学のフィールドワークの基本でしょう。
 しかし、賢治が猊鼻渓でそうせずに別の地図の裏面にメモしたということは、彼はこの時、猊鼻渓が掲載されている地図(五万分の一地形図では「千厩」)を、所持していなかったことを示唆しています。
 そして、ここまでならまあ普通にありえることですが、私が不思議と思うのは、賢治がこの時、五万分の一地形図の「水沢」の方は、持っていたということです。すなわちこの時の猊鼻渓行きは、地形図なんて不要な、軽い「お出かけ」だったわけではないのです。

 繰り返しになりますが、賢治が猊鼻渓で「White lime Stone over the river/NS 75°」という書き込みをした際、彼はあらかじめこの渓谷の地質に関心を持って訪れたのではない様子なのです。そのかわり彼は、「水沢」地形図掲載範囲のどこかに関する本来の用事があったので、その「水沢」地形図をの方を、携帯していたと思われます。猊鼻渓の方は、とっさに地層所見を別の地図裏にメモしただけで、まるで本来の用事の「ついでに見た」とでも言いたくなるような状況です。
 水沢から猊鼻渓は、「ついでに」行くにはちょっと離れていますが、五万分の一地形図「水沢」の南東隅の方ならば、猊鼻渓にかなり近づきます。


5.田河津村高金の赤石を見る

 ここで実は、賢治がまさに上の想像にぴったり当てはまる行動をした日があります。それは、上にも挙げた1931年6月14日です。
 この日、東北砕石工場を訪れた賢治を鈴木東蔵は、猊鼻渓と田河津村高金の赤石採掘場に案内しました(『新校本全集』年譜p.447)。また、東蔵氏子息の鈴木豊氏によれば、この案内には「鈴木屋旅館」の自動車を使用したということです。
 そして、この「高金」という場所が、五万分の一地形図では「水沢」に掲載されているのです。下の図をご覧下さい。

五万分の一地形図の境界

 青の文字が、五万分の一地形図の名称で、青の線がそれぞれの区画の境界です。ご覧のとおり、このあたりはちょうど地図の継ぎ目にあたっています。左下にあるように、東北砕石工場や陸中松川駅は、五万分の一「一関」の北東の隅にあり、猊鼻渓は「千厩」の北西の隅にあります。そして左上を見ていただくと、「高金」は、五万分の一「水沢」の、南東の隅にあるのです。

 ここで、私が想像するこの日の経緯は、次のようなものです。
 東北砕石工場・工場長の鈴木東蔵は、壁材原料として使える可能性のある高金採掘場の「赤石」を、地質学の専門家でもある賢治に見てもらおうと考え、工場訪問を依頼した。賢治は、高金の掲載されている五万分の一地形図「水沢」を準備して、6月14日に工場へ赴いた。
 2人が猊鼻渓と高金のどちらに先に行ったかは不明であるが、いずれにせよ、鈴木東蔵は山道で6kmも奥の高金に賢治を案内するために、自動車をチャーターして、その地質や有望性を現地で評価してもらった。
 ついでに、どうせ自動車があるなら名勝観光もということになり、東蔵は賢治を猊鼻渓にも案内した。賢治は、巨大な石灰岩露頭である「大猊鼻岩」を見て、その地層面の走向と傾斜を目測し、手元にあった五万分の一地形図「水沢」の裏面に、「White lime Stone over the river/NS 75°」とメモした。

 以上が、現時点で記録に残っている事柄を包摂しつつ、「賢治が猊鼻渓でなく水沢の地形図を持って猊鼻渓を訪れた」ということの、最も自然な説明だと私は思うのですが、どんなものでしょうか。

 6月17日発送と推測されている賢治の鈴木東蔵あて書簡[360]には、この日の訪問のことは簡単に、次のようにのみ触れられています。

拝啓 過日参上の際は色々御厚遇を賜はり寔に難有御礼申上候 その后搗粉荷為替扱方の件父へ談し略々承知を得置候間御安心被成下度尚在品整理の上再び事業費支出候様可申出その方は少々御待ち願上候(以下略)

 内容は具体的には書かれていませんが、「色々御厚遇を賜はり」という表現の内に、猊鼻渓観光までさせてもらったことも、含まれているのでしょう。


7.「〔停車場の向ふに河原があって〕」が書かれた日

 最後に、「〔停車場の向ふに河原があって〕」が書かれたのはいつか、という問題です。もし上記の推測が正しければ、この作品本文も五万分の一地形図「水沢」に書かれているわけですから、賢治がこの地形図を持って陸中松川駅を訪れた日、すなわち1931年6月14日、ということになります。
 細かく言えば、陸中松川駅で降りた時なのか、それとも赤石採掘場や猊鼻渓を見終えて、駅で列車を待っている時なのか、ということも考えてみることができます。これに関しては、後者だと思われます。

 すなわち、2人で一緒に、「げい美の巨きな岩を/碑のやうにめぐったり」して楽しんできた直後だとすれば、作品のこの箇所の表現も、より生き生きと感じられます。東蔵は、若い頃に「佐藤猊巌先生」の自宅に通い、直にいろいろ教えてもらったということですから(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』)、猊鼻渓の景色を眺めつつ、彼は佐藤猊巌の人となりについても賢治に語って聞かせたかもしれません。
 また、本文には「径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ」という描写が出てきますが、この日は「赤石採掘場」を視察に行ったのですから、「径一尺の赤い巨礫」も、現地で実際に目にしたものではないかと思えます。「傾配つきの九十度近いカーブも切り/径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ/そのすさまじい自働車」とは、賢治と東蔵を乗せて高金まで往復した、その自動車のことかもしれません。

 そして、賢治が作品中で「きみ」と呼びかけている相手は、鈴木東蔵その人ではないでしょうか。
 東蔵は1891年(明治24年)生まれですから、賢治より5歳年長です。これまでは、2人は工場長と嘱託技師という関係でもあり、長幼の順もあり、賢治の書簡はいつも候文で、あらたまった態度を崩していません。
 しかし、この時おそらく、工場として壁材の製造販売にも本格的に乗り出していく方針が固まり、2人は将来へ向けた展望も語り合ったのではないでしょうか。猊鼻渓の絶景も一緒に楽しんだ2人の間には、これまでよりも打ち解けた交流が生まれた可能性があります。
 そのような2人の関わりが、賢治に東蔵のことを初めて「きみ」と表現させたのではないかと、私は思うのです。

 一日の予定を終えて、陸中松川駅まで見送りに来てくれた賢治に、東蔵は「停車場の向こうに河原があって、流れはここではちょろちょろだけれど、その上流が実はさっき行ったあの猊鼻渓なんだよ」と語りかけたのかもしれません。賢治ももちろん、それは知っていました。
 そんな東蔵に、賢治は心の中で、「きみ」と呼びかけます。そこの川は「ちょろちょろ」で、目の前の車は「がたびし」かもしれない。しかし、それらは見かけによらず、本当は内側に物凄いエネルギーを秘めているのだ。
 東北砕石工場も、今は資金繰りにあえぎながら、ちょろちょろ・がたびしと経営を続けている。しかし、我々2人は理想を共有し、「きみ」にはバイタリティが、「ぼく」にはアイディアがある。今はぱっとしなくても、内にエネルギーを秘めていることにおいては、ぼくらはあの川やあの車と同じだ。

 賢治は東蔵とともに過ごしたこの日の終わりに、こんな感慨を持って「〔停車場の向ふに河原があって〕」を書いたのではないか・・・。
 これが、この作品に対する現時点での私の感想です。


8.地図の表側は?

 これまでの報道や、『新校本全集』別巻に収録されている「〔停車場の向ふに河原があって〕」の校異には、冒頭の「1.草稿の状態」に記したように「地図の裏面」のことは書かれていますが、地図本来の「表の面」の状況については、何も触れられていません。
 ここで、私が知りたいことが一つあります。もしも、この地図の表面の「高金」の箇所に、賢治による何らかの地質学的所見の書き込みがあれば、それは1931年6月14日に鈴木東蔵に案内されて高金の赤石採掘場を訪れた際に、彼が記したものである可能性が大きいと思います。そして、そのような書き込みが存在すれば、それは賢治がこの日にこの地図を携行していたことを強く示唆し、ひいては同じ地図に書かれた作品「〔停車場の向ふに河原があって〕」も、同じ日に書かれた可能性を、間接的に支持してくれることになると思うのです。

 機会があれば、またご専門の方に教えていただこうと思っています。


【謝辞】
 「〔停車場の向ふに河原があって〕」が、1931年6月14日に書かれたのではないかということは、私が考えたのではなく、「石と賢治のミュージアム」館長の藤野正孝氏が、すでに2009年9月7日発行の「宮沢賢治記念館通信第101号」において指摘しておられることです。ここでさらに藤野氏は、「White lime Stone over the river/NS 75°」という賢治の書き込みは、猊鼻渓の「大猊鼻岩」を指しているのではないかとの考えも示されました(『月光2』における牛崎俊哉氏の論文より)。
 さらに藤野氏は、本年7月25日に行われた「グスコーブドリの大学校」における「『停車場の向ふに河原があって』現場探訪」の資料において、1931年6月14日に鈴木東蔵が賢治を猊鼻渓や高金に案内した際には「鈴木旅館」の自動車を用いたことを紹介し、また作中の「きみ」とは鈴木東蔵のことではないかとの提起をされました。
 これらの部分は藤野氏の御説を私が参考にさせていただいたものですので、ここに記すとともに、「グスコーブドリの大学校」における懇切な案内とご教示に、感謝申し上げます。

 となると、上の記事で私のオリジナルな部分は何もなくなってしまうと思われるでしょうが、しいて言えば、「なぜ賢治が「水沢」の地図を持っていたのか」という点や、最後の方の作品の(主観的な)解釈は、私自身がかろうじてひねり出したものです・・・。