前回の記事を書いた翌日に、「賢治の事務所」の加倉井さんが、「〔停車場の向ふに河原があって〕」の作品中に出てくる「横沢」という場所のさらに奥まで、タクシーで現地調査をされた報告がアップされました(「緑いろの通信」8月2日号)。私が陸中松川や猊鼻渓に行っていた前の週に、加倉井さんはここまで足を伸ばしておられたんですね。その素晴らしいフットワークに、感激です。
そしてその内容も、私にはたいへん示唆的でした。前回の記事で触れたように、賢治と鈴木東蔵は1931年(昭和6年)6月14日に、陸中松川駅から北に約6kmのところにある「高金赤石採掘場」を訪ねたという記録がありますが、加倉井さんは、この日2人は高金からさらに北で「紫雲石」が採掘される「夏山」という地区まで行ったのではないか、そしてその途中で、「横沢」を通ったのではないかとの推測を述べておられます。
これは、「〔停車場の向ふに河原があって〕」の内容と、そして当時ちょうど東北砕石工場として本格的に壁材製造に乗り出そうとしていた状況を考えると、非常に魅力的な仮説のように私にも思われます。
まず作品内容との関連で見ると、もしこの日に賢治たちが横沢を通っていたとすると、作品後半の
ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ
という部分はそのまま、ついさっき賢治たちが「自働車」に乗って体験してきた情景になります。作品の前半部には猊鼻渓が出てきますが、賢治たちがこの日猊鼻渓を訪れたのは、記録からも確かめられています。
つまり、これらの描写は両方とも、おそらく数時間前の実体験にもとづいていたことになるわけです。
だとすれば、陸中松川駅の向こうを「ちよろちよろ」流れる水とその上流の猊鼻渓との対比、それから目の前に停まっている「がたびしの自働車」と「巨礫の道路も飛ぶすさまじい自働車」との対比は、両方とも今ここにある現象と、ついさっきの2人の体験との対比だということになります。
そうであれば、よりいっそうこの「対比」は、鮮やかで印象的なものになるではありませんか。
一方、東北砕石工場の壁材製造への取り組みは、賢治のこの6月14日の工場訪問以降、実質的に始まったようです。
それ以前の賢治の鈴木東蔵あて書簡には、壁材に関する話は全く出てきませんが、早くも高金視察の4日後にあたる6月18日の書簡[362の1]には、次のように書かれています(強調は引用者)。
今朝商工課に参り北海道へ出品打合致し候処場処至って狭隘に付 二尺に一尺三寸の建築材料の原品及製品の額面一枚及標本瓶高さ一尺位のものへ肥料搗粉三乃至五種位とせられたしとの事外に広告は何枚にても頒布を引受くべく卅日迄に県庁へ持参あとは県にて運送との事に候。就て御手数乍ら別葉の分至急御調製御送附奉願候
これが、賢治の東蔵あて書簡において、石灰肥料でも搗粉でもなく「建築材料」の話が出てくる最初の例だと思いますが、さらに上にある「別葉」は、下記のとおりです(書簡[362の2])。
続き、
一、白き石にて製したる搗粉一ポンド
二、仝 肥料二粍以下一ポンド
三、仝 仝 一粍以下一ポンド
(四、赤間は花巻に有之)
五、紫石にて製したるもの粗細二種位 各三ポンドづつ
六、青石にて仝上 各三ポンドづつ
尚豊川商会、吉万商会(肥料屋の分家)を歩き吉万より赤間二斗入り十俵或は五俵の注文を得候
「白き石」と書いてあるのは、「搗粉」や「肥料」の原料となっているところから、もちろん石灰岩のことです。わざわざ「白き」と指定しているのは、石灰岩と言っても白っぽいものから灰色のものまでいろいろある中で、見映えのよい建築材料とするために、特に白いものを指定しているのでしょう。
四、の「赤間」は、「赤間石」のことと思われます。これは、「花巻に有之」と記されていて、6月14日に高金地区で視察した「赤石」を賢治が持ち帰ったのか、もともとどこかで採取したものを花巻に持っていたのか、わかりません。ただし、本来「赤間石」と呼ばれる石は、山口県宇部市北部の名産で、「赤間硯」という日本でも最高級の硯の材料にされる輝緑凝灰岩です。ここに書かれている「赤間」が鉱物学的に何を指しているのか、現時点では私にわかりません。
五、の「紫石」は、田河津村夏山で採取される「紫雲石」と思われます。加倉井さんも引用しておられたように、伊藤良治著『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』p.60には、鈴木東蔵はすでにこの場所の「紫雲石」の採取契約をしていたことが記されています。
大正十一年 田河津高金での砥石材「泥灰岩」の採掘を始める
大正十三年 東北砕石(消石灰、石灰砕石、壁材料製造)工場事業創業
大正十五年 田河津村夏山で紫雲石(壁材料)採取契約
6月14日の高金視察直後の18日に、「紫石」の話も出ているということは、賢治たちが14日に夏山の紫雲石も見ていたのではないかという推測を、支持してくれるように思われます。
なお、こちらのページやこちらのページには、この夏山地区の紫雲石で作られる高級硯が紹介されています。紫雲石は赤紫色をしていますが、鉱物学的には「赤間硯」の赤間石と同じ「輝緑凝灰岩」なのです。
さらに、7月11日付けの鈴木東蔵あて書簡[368]より。
拝啓 同封注文着致居候間左記御取計奉願候、
中林商店宛 養鶏用石灰 拾俵
赤間砕石(一分五厘) 拾俵
紫砕石( 仝 ) 拾俵
紫壁砂 拾俵
搗粉(麦搗用) 適宜
花巻出張所宛 赤間砕石(一分五厘) 拾俵
紫砕石( 仝 ) 拾俵
搗粉(麦搗用) 弐拾俵
紫壁砂 拾俵
鉈屋町吉万壁材料店宛 赤間砕石 五俵
紫砕石 五俵
紫砂 五俵
早くも、石灰肥料や搗粉よりも、壁材(赤間砕石、紫砕石、紫壁砂)の取り扱いの方が多くなっています。
そして、7月14日付け鈴木東蔵あて書簡[370]で、初めて東京・関西出張の提案を自ら申し出ます。
拝啓 御送附の青石早速左官及コンクリー職の人々に照会候処壁砂及人造石材料として矢張相当見込あるべきも価格は紫に及ばざるべき由略々貴方の御見込位らしく御座候 但し何分にも之等の品は大問屋よりも思ひ切って小口に各使用者へ送り候方当方としても割に合ふらしく候 出来得べくば前便八噸中へ右青石及黄黒は見本として十貫宛にてもお入れ願ひ度然らば直次第例の標本作成にかゝり、その上東京関西需用者へ思っ切って宣伝致し見度存候(以下略)
これが結局は、同年9月19日からの東京出張と、東京における結核の急性増悪につながるのですが、それまで岩手周辺だけでも苦労していた営業活動を、東京のみならず関西にまで一気に拡大を狙うとは、かなりの冒険と言わざるをえません。あるいは賢治には、壁材見本の出来映えに、よほどの自信があったのでしょうか。
それはともかく、東北砕石工場の嘱託技師となってからの賢治の軌跡を、ここであらためて振り返ってみます。
そもそも賢治がこの仕事を引き受けたのは、岩手を中心とした酸性土壌の改良に石灰肥料を用いることが、農民の生活の改善にもつながると考え、また鈴木東蔵の意気にも感じたことが、その発端でした。
賢治が「炭酸石灰」とネーミングし、広告文やキャッチコピーも考えた営業戦略、そして縦横無尽に展開した販売活動によって、石灰肥料はかなりの売り上げを得ました。
しかし、肥料が売れる時期は、1年のうちでも限られています。売り上げが落ちて工場の操業が苦しくなってくると、次は精米を行う際の「搗粉」として石灰岩抹を売り出すことにして、その広告文も賢治が考えました。
またしかし、この「搗粉」としての売り込みも思うような結果が出ず、次には石灰岩抹だけではなく他の鉱石も併せて、「壁材」として販売する計画を立てます。賢治は、様々な色の岩石の砕片や粉を配合して固めたサンプルを自作し、これを東京や名古屋方面に売り込もうとしました。
ところがその道半ばにして、東京に着いた直後に高熱で倒れてしまったのです。
もともと農民のための献身をしようとしていた賢治にとって、石灰肥料の普及は、東北地方の農業の生産性を高め、農家の生活改善にも役立つ可能性のある事業でした。だからこそ、病み上がりの賢治も引き受けたはずです。
しかし、次の段階での「搗粉」としての販売活動は、まだ「精米」ということで農業と無関係ではないとも言えますが、内容的には米屋を相手にする仕事で、すでに「農民のため」とは言えなくなってきています。
さらに、様々な岩石で建築用の壁材を作って売るとなると、これはもう農業や農民の生活とは、全く関係はありません。賢治は、東北砕石工場嘱託技師になった初心を、忘れてしまったのでしょうか。
忘れたわけではないでしょうが、工場の売り上げを追求するうちに、だんだんと農業とは離れる方向に行ってしまったのは事実です。
しかし一方、そもそも賢治が保阪嘉内からの決定的影響によって「農民のための奉仕」を志そうとする以前には、「石コ賢さん」と呼ばれた少年時代があったことを思い出せば、彼は無意識のうちにその原点に戻っていったのだとも言えるのではないでしょうか。
1918年(大正7年)6月、将来の職業問題に悩んでいた21歳の賢治は、父政次郎にあてて、次のように書いていました(書簡[72])。
序を以て私の最希望致し候職業の初め方をも申し上げ候
実は私の今迄勉強したる処にては最、地に関係ある則ち岩石、鉱物等を取扱ひたくは存じ候へども右の仕事はみな山師的なることのみ多く到底最初より之を職業とは致し兼ね候
依て他に一定の職業有之候はば副業的に例へばセメントの原料を掘りて売るとか石灰岩や石材を売るとかその他に極めて小規模の工場にて出来る精錬の如き事も有之可成実験的に仕事を続け得べくと存じ候
尚ご参考の為に本県内にて充分産出の見込みある興味ある土石を左に列挙仕候
浮岩質凝灰岩、(仙台ノ秋保石材)
大理石、(装飾用、化学用、肥料用)
粘板岩(建築用、瓦、石材、其他)
白雲岩(鉱山ニテ熔剤トス)
陶土
白練瓦及耐火練瓦原料
石灰岩、(セメント原料)(ポートランドセメント、水硬セメント)
石膏、明礬、
砂岩、硅岩(円砥石、及製紙用)
火山灰及軽石
硅藻土、長石、柘榴石
石絨
重石
石墨
石版石、マグネサイト、(マグネシヤ原料)
雲母
滑石、
(以下略)
岩手産の鉱物を、建築材や石材にするという事業の発想が、すでにここに萌芽として現れています。
一方、鈴木東蔵という人も、鉱石に非常に詳しく、周囲からは一目も二目も置かれる存在だったのです。下記は、伊藤良治著『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』からの引用です(p.58-59)。
しかしながらこの事業(引用者注:田河津村高金における砥石材採取事業)以来東蔵は、<石に魅せられた男>とか、<探鉱師>と呼ばれ、「石のことなら東蔵さん」と衆目の認める独特な人生を過ごすことになっていく。著書『農村救済の理論及び実際』、『理想郷の創造』、『地方自治文化的大改造』を次々出版し、広く「理想的な農村研究家」として知られていた東蔵生涯の一大転身である。
鈴木東蔵が、農村救済を志す若者から<石に魅せられた男>になっていった方向と、宮澤賢治が「石コ賢さん」から農業改革と農民文化の創造を目ざそうとした方向は、ちょうど逆方向に交叉するようで、興味深いものがあります。
1931年6月14日の、高金赤石採掘場を(夏山の紫雲石も?)一緒に見て、その壁材への応用を語り合った賢治と東蔵は、石を愛する者同士としてまさに意気投合したのではないでしょうか。その時の一体感が、「〔停車場の向ふに河原があって〕」において賢治に東蔵のことを「きみ」と心の中で呼ばせることにつながっているのではないかと、私は思ったりします。
そして、「ぼく」と「きみ」、あるいは東北砕石工場が秘めているはずのエネルギーや可能性が、この作品の潜在的なテーマになっているのではないか、とも・・・。
それから約3ヵ月後、9月のあの悲劇の東京出張を前にして、しかしまだ嬉々として自宅で色々な砕石を配合しながら「壁材料見本」を制作していた賢治は、きっと少年の頃の「石コ賢さん」に戻っていたのだろうと、私は思います。
ということで、石灰肥料→搗粉→壁材と、工場における賢治の仕事は、本来の「農業改革」からどんどん離れていったように見えるものの、賢治自身が子供の頃から一番好きだったものに、ある意味で回帰したようにも思える、というのが本日の記事の趣旨でした。
◇ ◇
さて今日は、文字ばかりの味気ない記事になってしまいましたので、最後に少しだけ画像を。下の図は、国土交通省・国土調査課による「5万分の1都道府県土地分類基本調査」から、「水沢」の表層地質図の一部です。
5万分の1地形図「水沢」がもとになっていますので、賢治がその裏に「〔停車場の向ふに河原があって〕」の草稿を書いた図と同じです。
下の方に赤枠で囲んだ「高金」があります。「横沢」は、残念ながら右隣の「陸中大原」の方にあるので見えませんが、赤枠で囲んだ「夏山」は、再びこの図の枠内です。「夏山」の北西の方角に、細長い赤紫色の帯状になって‘rt’と書いてある部分が、この地図の呼称では「赤紫色凝灰岩」の層で、上にも触れた「紫雲石」の採れる場所と思われます。
前回の記事でも書きましたが、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」をメモした「水沢」地形図において、この「高金」や「夏山」の箇所に、何らかの書き込みをしていないかということに、私はとても興味があります。
もしも、「夏山」のあたりにも何らかの書き込みをしていれば、それは1931年6月14日に、賢治と鈴木東蔵がこの場所を訪れたことの有力な証拠の一つになると思うのです。
Kyoちゃん
草野心平の上京への誘いには
「大いにやろうというのはご免こうむります」とキッパリ断わっているのに、どうしてこんな大きな商売に乗り出したのでしょうか?
戦争が近づいているあの時代にあって賢治もまたじっとしていられない焦りのようなもの感じていて、そこに鈴木東蔵という人のパッションが乗り移ったのでしょうか?
石の種類によっては肺に吸い込んでしまうと良くない石もありますから、いろんな標本を作ったり運んだりした賢治が倒れたのはこの最後の仕事がいけなかったんでしょうね。
大理石の比重が2.8御影石は2.9で計算します。
石膏ボードのような人造石は2.5くらいとして
北海道の見本市に出品した壁材一尺x二尺x三寸=約50キロほどの重量になります。
営業で持ち歩いたという見本はどんなサイズのものだったのでしょうか?もっと小さく作ったとしても、幾枚もの色の違うものを持ち歩くのは重労働だったはずです。今の人ならキャスター付きの鞄をゴロゴロ引きずって行くのでしょうが。
そんなことをいろいろ想像しながら読ませて頂いていたら、疲れた賢治の顔が浮かんで来てとても可哀相になりました。
ガハク
文壇に打って出る、というような野心とは違うと思うよ。ⓚちゃんへ(笑)
大理石のような壁材で建物を覆うという東蔵社長の美しい構想に賢治も賛同したのかも知れない。
そこで石コ賢さんのモノ作りの精神が働いて、自らの手で作り上げるきれいな石に歓びを感じたのかも知れない。
ああでもない、こうでもない、おっ!できたあっ!ってな具合に楽しんでたかもしれない。
気に入った物ができれば人に見せる為にどんなに重くても運ぶのは苦労ではなかったかも知れない。
そんな風にも思いました。
signaless
>北海道の見本市に出品した壁材一尺x二尺x三寸=約50キロほどの重量になります。
さすが、Kyoちゃん、石を扱っているだけに、その重さが実感できるのですね。
賢治の弟・清六さんが書いた「兄のトランク」には、一貫以上もあったとの記述があります。約40Kgとして、そんなに重いものを持ち歩けるはずはない、多少大げさな表現だと思っていました。でも、その反面、清六さんがそんないい加減なことを書くだろうか、との思いもありました。Kyoちゃんのお陰で、もしかしたら賢治は本当に40Kg以上もある壁材見本を、あのトランクに詰めて、運んだのかもしれません。そう考えたら、涙がでるようでした。
hamagaki
kyo さん、ガハクさん、signaless さん、いつもお世話になっています。(^^)
このたびは皆さまお揃いで、意義深いコメントをありがとうございます。
壁材料見本の、本当の重さ・・・。私もこれまで、身をもって感ずることなく、表面的に読んでいたことを、あらためて感じました。
賢治が東京に持って行ったトランクの重さが、宮澤清六氏の『兄のトランク』に、「十貫以上(≒40kg以上)」と書いてあるのは、signaless さんご指摘のとおりですが、後の研究者もこれではあまりに重すぎると思ったのか、たとえば伊藤良治著『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』には、次のように書いてあります。
しかし上の、20キロだとか30キロだとかいう推測は、後の人が勝手に自分の尺度で述べていることで、実際にトランクを手にしたかもしれない弟清六氏の証言に、かなうものではありません。しかし、その清六氏の証言でさえ、重さを計量したわけではないでしょうから、今となっては真相はわかりません。
その壁材料見本が少しでも残っていたら、サイズや色の配合・センスなど含め、賢治がどういうものを作っていたかがわかって興味深いのですが、残念ながら残されていないようです。
ただ、賢治が上京途中で、仙台で下車した時に盛岡中学の先輩と偶々出会っていて、その人が回想して書いていることがあります(加藤謙次郎「賢治と私」)。この人もかなり岩石には詳しいようです。
「化粧煉瓦」とか、「タイルのような物」という表現を見ると、一つ一つは「一尺×二尺」よりは小さい物だったようにも思えますね。
「『これなんか教会にいいじゃごわせんか』などとひとりでよろこんでいた」という賢治の無邪気さは、忍びよる死の病を前にして、こっちの胸が詰まるような感じです。
signaless
「十貫」と書くべき所を「一貫」と書いてしまいました。すみません m(;∇;)m