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停車場・河原・自働車

 2008年5月、宮澤賢治生家の土蔵を解体のために整理している時に、地図の裏に記されている口語詩の草稿が発見されました。最も新しく世に出た賢治の作品、「〔停車場の向ふに河原があって〕」です。

停車場の向ふに河原があって
水がちよろちよろ流れてゐると
わたしもおもひきみも云ふ
ところがどうだあの水なのだ
上流でげい美の巨きな岩を
碑のやうにめぐったり
滝にかかって佐藤猊嵓先生を
幾たびあったがせたりする水が
停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
運転手たちは日に照らされて
ものぐささうにしてゐるのだが
ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ

 「停車場の向ふ」にある川と、「停車場の前」にある自働車は、いずれも目の前ではのどかな「静」の姿を見せています。しかし、同じ川や自働車が、別の時間・空間においては、激しい「動」の姿を見せることもあるのだというアナロジーを、賢治は面白く感じたのでしょう。

[ちょろちょろ河原] : [激しい渓流] = [がたびし自働車] : [山道を疾駆する自働車]

という対比と類似の妙ですね。


 さて、ここに出てくる「停車場」が、大船渡線の「陸中松川」駅と考えられることは、「賢治の事務所」の加倉井さんがいち早く指摘されました。
 その理由についておさらいをしておくと、まず5行目の「上流でげい美の巨きな岩を・・・」と出てくる「げい美」が、最大のヒントになります。岩手県南部には、「猊鼻渓」と「厳美渓」というよく似た名前の名勝地があってちょっとまぎらわしいですが、まずは「ゲイビ」という音から猊鼻渓が連想されます。ただ、「げい美」の「美」という文字から、賢治が「厳美」と書こうとして書き誤ったという可能性も、まだ完全には否定しきれません。しかし、2行後に出てくる「佐藤猊嵓先生(正しくは「猊巌」)」という人物は、猊鼻渓を世に紹介した立役者であったことから(「猊鼻渓の四季・歴史」参照)、これは猊鼻渓のことだと断定してよいと思われます。
 すると、「停車場の向ふ」の「河原」の上流に猊鼻渓があるわけですから、この「河原」は、猊鼻渓の下流の「砂鉄川」のどこかであることになります。
 砂鉄川に沿って、「停車場」があるところを地図で調べると、大船渡線の「陸中松川」、「岩ノ下」、「陸中門崎」という3つの駅が候補となります。このうち、「岩ノ下」駅は1966年に設置された駅で、賢治の時代にはなかったのでまず除外。「陸中門崎」駅に関しては、駅舎と駅前広場と川の位置関係は、下の地図のようになっています。

 この作品において作者は、停車場の前の「自働車」が停まっているところにいると思われますが、「陸中門崎」駅の駅前広場は駅舎の東にあって、そのさらに東に砂鉄川が流れています。駅前広場にいると、川は停車場と反対方角になり、「停車場の向ふに河原があって……」ということにはなりません。
 一方、「陸中松川」駅における、駅舎、駅前広場、砂鉄川の位置関係は、下図のとおりです。

 陸中松川駅では、駅前広場は駅舎の西側にあり、一方砂鉄川は駅舎をはさんで東側を流れていますから、これならば駅前広場にいる賢治から見ると、「停車場の向ふに河原があって……」となるわけです。
 というわけで、この作品の「停車場」は、「陸中松川」駅と推定されるわけですね。

 さて、ということは「陸中松川」の駅前に「自働車」が3台停まっていて、運転手たちは「ものぐささうにして」いるわけですが、これらの自働車は、「ここから横沢へかけて/傾配つきの九十度近いカーブも切り/径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ」という風に、すでに行き先が決まっているようです。ということは、これは自家用車ではなくて、決まった区間を運行している「乗合自動車」なのでしょう。
 それで、「陸中松川」駅前の乗合自動車の歴史を調べてみると、『東山町史』(東山町,1978)に、下のような記載がありました。

『東山町史』より

 つまり、「陸中松川」の駅前に乗合自動車が初めてお目見えしたのは、1927年(昭和2年)5月のことなのです。したがって、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」を書いたのは、それ以降のことと考えられるわけです。

 上の文書では「バス」と書かれていますが、もちろん現代のような大型バスではなくて、上にも書かれているように「幌型乗用車」でした。下の写真は、一関で昭和初期に走っていた乗合自自動車(6人乗り幌付フォード)です(『目で見る一関・両磐・気仙の100年』より)。賢治が見たのも、こんな感じの「自働車」だったのでしょう。ちなみに一関町において乗合自動車が開業したのは、1924年(大正13年)のことでした。

一関の乗合自動車(6人乗り幌付フォード)

 上の『東山町史』によれば、「陸中松川駅頭における両者の客のうばい合いは激しかった」ということです。賢治の作品中に出てくる「運転手たち」は、「ものぐささうに」していたようですが、いざ汽車が駅に着いて客が降りてくると、熾烈な争奪戦が始まったのでしょうか。

 あと、この乗合自動車の行き先は、『東山町史』によると「長坂町」「松川町」「猿沢町」ということですが、地図にポイントすれば下のようになります。

 赤のマーカーの(N)が長坂町、(M)が松川町、(S)が猿沢町です。緑のマーカの(Y)は、作品中に出てくる「横沢」という集落の位置ですが、「陸中松川」駅から猿沢へ至るルートからも離れていて、もし乗合自動車が駅と上記3地点を結んでいたのなら、なぜ賢治が「ここから横沢へかけて……」と書いたのかがちょっと不明です。

 というわけで、この作品の創作時期を、1927年5月以降にしぼることができるのではないか、ということが今回は言いたかったのですが、しかしその具体的な年月日となると、ちょっと年譜を繰ってみてもわかりません。
 賢治は1928年の8月に結核で倒れ、2年ほどを病臥して過ごしますから、候補となる期間は二つに分かれます。1927年5月から1928年8月までと、1930年9月(東北砕石工場初訪問)から1931年9月に再び病に倒れるまでです。後者においては、賢治は東北砕石工場技師として陸中松川駅で乗降することもたびたびありました。

 あとは、この作品に出てくる「きみ」というのが誰なのかということも、かなり気になります。賢治がふと気づいた「対比と類似の妙」を、「きみ」に対してやさしく教え示しているみたいな雰囲気ですね。