農学校教師を辞めて一人で農耕生活をしていた頃の賢治は、「下ノ畑」で作った野菜や花卉を、リヤカーで運んでどこかに売りに行っていたようです。
1927年4月21日の日付を持つ「〔同心町の夜あけがた〕」(「春と修羅 第三集」)という作品では、作者は早朝に「雪菜」や「ヒアシンス」をリヤカーに積んで、町の方に向かっています。
そして、同じ4月21日付けで「市場帰り」(「春と修羅 第三集」)という作品があることからすると、この日、賢治は作物を「市場」へ持って行って売ってきたのかと考えたくなります。「〔同心町の夜あけがた〕」では、農民の視線に暗澹たる気分になった賢治も、「市場帰り」では、一転して快活に皆に挨拶もしています。これはきっと持って行った野菜や花が首尾よく売れたのかなと、私たちもちょっと嬉しくなるところです。
しかし、昔から花巻在住の長かった「壺中の天地」管理人様によると、当時の花巻には「市場」というものはなくて、賢治が作物を持ち込んで買い取ってもらっていたのは、上町にあった「大正屋」という店だったのではないかということでした(「下ノ畑再説」「「下ノ畑」追記」)。「壺中の天地」管理人様によれば、この「大正屋」というのは「田舎のスーパー」のような感じの大きな八百屋で、農家から作物を買い上げて一般の消費者に売るということもしていたのだそうです。
しかし、かなり昔に「大正屋」は廃業して、現在はなくなっています。
このあたりのことは、以前に「「市場」のあった場所」という記事に書いていたのですが、先日盛岡の図書館で、たまたま「大正屋果実店」の写真を見つけたので、ここに掲載しておきます。写真は、熊谷章一『ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 花巻』(国書刊行会)より。昭和10年頃に撮影された写真ということです。
看板には、「大正屋果實店」と書いてあり、右端には「バナゝ」の文字も見えます。店名の上には、「輸出入内外青果・・・鶏卵」「南部名産松茸栗・・・」などと書いてあるようです。
残念ながら店内は暗くて見えませんが、左の方に並べてあるのは、大根のようですね。
写真に付けられていた説明によれば、大正屋果実店は「内外果実委託問屋」ということで、矢沢方面の農家の人も野菜や果実を持ってきていたそうです。この店にはいろんな生産者がそれぞれの作物を持ち寄っていたことから、賢治は作品中で「市場」という表現をしたのでしょうか。
生前は、書いた童話を出版社に持ち込んでも、受け付けてはもらえなかった賢治。しかし、作った農作物に関しては、値段はともかく買い上げてもらえていたのでしょう。その収入と自家作物だけで生活するというのは、ちょっと苦しかったようですが。
下の地図は、「「市場」のあった場所」にも載せた「大正屋」の地図です。当時賢治が住んでいた下根子桜の家は、下端の豊澤橋を渡ってまだずっと南に行ったところにありました。
mishimahiroshi
いつもながらのシャーロックhamagakiさん。
賢治はもともと商人の長男ですし、宝石店をやりたいとも言っていましたから、物を売ることに関心はあったでしょうね。
「わたくしどもは」という詩でも、花が売れたと喜んでいます。
農民の生活の向上のためには作物の交換価値を高める必要もあり、いろいろなものを育てたのではないかとも思えます。
hamagaki
misihimahiroshi 様、こんばんは。
そうですね。また東北砕石工場技師の時は、様々な工夫をしながら石灰肥料の売り込みに奔走し、一定の業績を上げました。偉大な父に比べると及ばなかったかもしれませんが、賢治もそこそこの商業的センスは持っていたのでしょうね。
ところで、私が上の地図を見ていて気になったのは、下根子桜から上町の「大正屋果実店」にリヤカーを引いて行くには、真っ直ぐ行くと賢治は自宅の前を通ることになってしまいます。きっと彼は家族に鉢合わせするのを避けるために、「裏町」かどこかを通ったのではないだろうかと想像しました。
ガハク
いくら家の前を通らないようにした所で店と家とがそんなに離れているわけでもない。小さな街なんだからすぐ人の噂にもなるでしょうに。
本当に生き辛い性格のひとですねえ、賢治さんは。
もっと図々しく堂々と生きられたら、と思う一方、だからこそ弱い者の心情も分るし状況を変えたいという思いも生まれたに違いない、さらには思想まで。
またその弱さが却って心の純粋さを保ち続けさせたのかなあとも。
住み辛いからこそ詩が生まれる。
いや天才の持つ精神環境というのは僕らなんかが容易に理解できない場所にあるに違いないという気持ちからどうしても抜け得ないままです。
hamagaki
ガハク様、こんばんは。
そうですね。ホントに生きにくい性格の人だったと思います。「図々しく」なんていうのは、とりわけ苦手だったでしょうね。
そしてまたご指摘のように、もしも賢治が図々しく堂々と幸せに生きていたら、詩など書こうと思わなかったかもしれませんから、私たちが彼の作品を享受できるのは、その苦労のおかげなのかもしれません。
ちょっと申しわけないような・・・。
それから、家を出て下根子で農耕生活をしていた頃の賢治は、まあ言ってみれば長男なのに家業も継がず、教師という手堅い仕事も放り出して、なんとか協会などというわけのわからない活動を勝手に始めて・・・、きっと親に対する罪悪感は感じていたのだと思います。それで、実家からの援助は頑なに断りつづけたのではないでしょうか。一度思い込んだら、なかなか信念を曲げない人ですから。
しかし、そのために毎日ちゃんとした食事もとらず、身体的にも無茶をして、ますます家族に心配をかけていたのですが、そういう家族の気持ちには気づいていたんだろうかな・・・とも思います。
signaless
賢治は、本当は東京への思いも決して消えていたわけではなかったのではないか。にもかかわらず、あえて煩い他人の眼もある生きにくい花巻に戻って、ここで生きていくことを強く決意したのではないかと思います。
その「信念」を生んだ直接のきっかけがあるとしたら、それは大正10年の家出の際の保阪嘉内との「議論」だったと私は思っています。詳しいことは、長くなるので控えますが、それまで理想に走りがちでなかなか現実的にならなかった賢治を、具体的な実践の道に進ませたのは嘉内の存在抜きにしては考えにくいと思います。教師をしながら、農家の子供達に接するようになって初めて、少しずつ嘉内のいわんとすることがはっきり見えてきたのかも知れません。
その決意は、端から見れば理解に苦しみ、滑稽なことだったかも知れません。親にも大いに迷惑と心配をかけ、それも十分承知の上、それでも賢治はそうせざるを得なかったのだろうと思います。不器用といえば不器用なのでしょう。
「友ひとりなく」と書かしめたのは、そういう自分を本当に理解してくれる人が周りに誰ひとりいないことへの寂しさと辛さからだったと思います。
なので、時に弱音を吐くような賢治の詩を読むと私はたまりません。
この大正屋への回り道にしても。無駄なこと、滑稽なこととわかっているけど、せめて回り道をしたのかもしれません。
hamagaki
signaless 様、ありがとうございます。
私は昔はばくぜんと、賢治はもともと農民のために尽くしたいという気持ちを持っていたように思っていたのですが、いろいろ知るうちに、そうではなかったことがわかりました。
そして、それでは何が賢治を農民の方へ向かわせて行ったのだろうかと彼の考えの変化をたどっていくと、ご指摘のように保阪嘉内こそが、賢治を農業実践へと導いていたのだということを、私も実感しました。大正10年のエピソードが、じわじわと賢治の中で熟成してきた感じですね。
教師を辞めて、家を出て、あの二階屋で一人暮らしながらも、彼は親友とともに理想を共有しつつ生きていたのですね。
terui
親父が昭和16年生まれだから、このころの大正屋はうちのお祖母ちゃんがやってたころの写真かな?自分の知らない大正屋が見れてうれしくなりました。
hamagaki
terui さま、コメントをありがとうございます。
この「大正屋」さんのご子孫の方なのですね。
昭和16年生まれのお父様のさらにお母様であれば、宮沢賢治の生きていた時代と重なりますね。
はたしてこの店先で、花や野菜を売りに来た賢治と、出会われたでしょうか・・・。