あったがせたりする

 とくに話題になっていないようなので、私以外の人はとっくにわかっておられることなのかもしれませんが、例の賢治の詩「〔停車場の向ふに河原があって〕」の8行目に出てくる「あったがせたりする」という言葉は、どういう意味なのでしょうか。

停車場の向ふに河原があって
水がちよろちよろ流れてゐると
わたしもおもひきみも云ふ
ところがどうだあの水なのだ
上流でげい美の巨きな岩を
碑のやうにめぐったり
滝にかかって佐藤猊巌先生を
幾たびあったがせたりする水が
停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
運転手たちは日に照らされて
ものぐささうにしてゐるのだが
ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ

 手元の古い「広辞苑」(第二版…)を見ると、「あつた・ぐ」という古語の動詞が載っていて、次のように書いてあります。

あつた・ぐ《自四》あわてふためく。弁内侍日記「―・ぎ
 て声のかはる程」

 もしもこれに由来するのなら、「あつたがせたりする」とは、「あわてふためかせたりする」ということになって、それなりに意味が通る感じもします。すなわち、猊鼻渓の幾ヵ所かでは岩壁から滝が流れ落ちているので、ゆったりと川下りを楽しむ猊巌先生を、そのたびに「あわてふためかせたりする」というわけです。
 しかしこの語の場合、「つ」は促音の「っ」ではなくて、ふつうの「つ」です。

 はたして、これでよいのでしょうか。